はじめに:「悲劇の少女」じゃ終われない。心理サスペンスの最高峰
エドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)の最優秀長編賞を受賞したデビュー作『夜明け前の時』で知られ、「サイコ・ドメスティック・ノワールの祖」とも称される英国の女流作家、シーリア・フレムリン。
彼女が描くのは、おどろおどろしい殺人鬼の館ではなく、私たちのすぐ隣にある「ありふれた家庭の日常」にじわじわと侵入してくる悪意や狂気です。
そんな彼女の邦訳長編のなかでも、ひと際異彩を放ち、プロットの妙技が絶賛されているのが1980年発表(邦訳1991年)の『泣き声は聞こえない』です。
「15歳の少女が、中絶したあとも妊婦のフリをして街を歩く」という衝撃的なシチュエーション。これだけで、一筋縄ではいかない人間の業を感じさせますが、フレムリンの手にかかれば、単なるショッキングなミステリには留まりません。今回は、本作のあらすじと、思わず唸ってしまう読みどころをネタバレなしでご紹介します。
作家紹介:日常のサスペンスを極めた「シーリア・フレムリン」とは?
シーリア・フレムリン(1914~2008)は、オックスフォード大学で古典を学んだ才女であり、戦時中は戦時労働者の心理調査などに関わった経歴を持ちます。その経験が活かされてか、人間の言葉の裏にある「欺瞞」や「自己弁護」、そして「無意識の悪意」をすくい取る観察眼は圧倒的です。
パトリシア・ハイスミスやシャーリィ・ジャクスン、あるいはドメスティック・ノワールの現代の書き手たち(ギリアン・フリンなど)の源流に位置する作家であり、緻密な心理描写と、英国風のどこか冷徹でビターなユーモアが融合した作風が特徴です。
『泣き声は聞こえない』あらすじ
春までは、地味で目立たない「第4学級生」として控えめな青春を送っていた15歳の少女、ミランダ。しかし、夏の街をゆく現在の彼女は、マタニティウェアを身にまとい、周囲からの好奇の視線を一身に浴びていました。
実は彼女、一夜の過ちによって妊娠したものの、すでに中絶手術を終えていたのです。
それなのに、彼女の膨らんだお腹の中には、ぶざまに詰め込まれた「枕」が入っていました。
学校で一躍「悲劇のヒロイン」「大人びた特別な存在」として注目を浴びてしまったミランダは、その歪んだ自尊心と周囲の関心を失いたくないがために、嘘の妊娠を演じ続けることを選んでしまいます。消えた赤ん坊、家族の焦りと罪悪感、そして周囲の目。不穏な嘘が積み重なるなか、事態は思わぬ方向へと転がり始めます――。
ここが見どころ!『泣き声は聞こえない』の深層分析
1. 誰も悪くないからこそ怖い「焦りと罪悪感」の心理描写
この手の「思春期の少女の暴走」を描いた物語では、親や周囲の大人たちが「世間体ばかりを気にする頭の固い悪役」として描かれがちです。
しかし、本作の秀逸なところは「ミランダの両親は、決して悪い人間ではない」という点にあります。彼らは娘を理解しようとし、傷つけないように気を配り、まっとうに苦悩します。
悪意を持った強烈な悪人が誰もいない。それなのに、家族の間に流れる空気はどんどん息苦しくなり、すれ違いが加速していく。この「誰も悪くないのに破滅へと向かう焦燥感」の描き方は、フレムリンの真骨頂です。
2. 思春期特有の「歪んだ自尊心」と承認欲求へのリアルな視線
SNSもない1980年代の作品ですが、ここで描かれるミランダの「注目されたい」「その他大勢の凡人に戻りたくない」という承認欲求の心理は、現代の私たちが読んでも恐ろしいほどリアルに突き刺さります。
嘘がバレる恐怖よりも、「注目されなくなる恐怖」が勝ってしまう病理。平凡な少女が、嘘のマタニティウェアという鎧をまとうことでしか得られなかった「万能感」の描写は、切なくもゾッとさせられます。
3. 計算し尽くされたプロットの縒り合わせ
フレムリンの作品は、カチッとしたパズル的な本格ミステリ(それこそクイーンのような作風)とは異なり、人間の心理動向のうねりに従ってプロットが自然に変貌していくような、有機的な美しさがあります。
最初は少女の奇行を追う心理小説のようでありながら、中盤から後半にかけてサスペンスのギアが一段、二段と上がり、誰も予想し得なかった鮮やかな結末へと着地します。タイトルの「泣き声は聞こえない」が持つ真の意味に気づいたとき、読者は極上のカタルシスと、冷たい余韻に包まれるはずです。
おわりに:時代を超えて色褪せないサスペンスの名品
シーリア・フレムリンの訳書は、長編・短編集を合わせても決して多くありません。しかし、そのどれもが「打率1割の奇跡」ではなく、一作一作が極めて高い完成度を誇っています。
『体育館の殺人』のようなガチガチのロジックミステリが「動」の謎解きであるならば、この『泣き声は聞こえない』は、人間の心の闇をじっと見つめる「静」のサスペンス。
梅雨の時期、あるいは蒸し暑い夏の夜に、じっくりと冷や汗を流しながら読むにはこれ以上ない一冊です。古書で見かけたら、迷わず「ジャケ買い」ならぬ「中身買い」をおすすめします!

0 件のコメント:
コメントを投稿