ボブ・ディランという偉大な表現者を語る上で、1985年にリリースされた5枚組(CDでは3枚組)のコンピレーションアルバム『バイオグラフ(Biograph)』は絶対に外せないマストアイテムである。
現在まで続く「ブートレッグ・シリーズ」の原型となった本作は、なぜこれほどまでに音楽ファンを魅了し続けるのか。その理由を、ディランの音楽的特徴や収録楽曲の分析とともに紐解いていく。
Biograph by Bob Dylan (1997-08-19)
『バイオグラフ』が音楽シーンに与えた衝撃
本作の最大の価値は、全53曲のうち22曲にも及ぶ「未発表バージョン(未発表曲・別テイク・ライブ音源)」が惜しみなく収録されている点にある。
ディランはレコーディングの際、一つの楽曲に対して全く異なるテンポやアレンジ、アプローチを試みることで知られている。そのため、スタジオの裏側には膨大な未発表音源が眠っており、熱狂的なファンの間ではそれらを不法に流通させた「ブートレッグ(海賊版)」が死ぬほど流通してしまうという現象が起きていた。
この事態に対し、「海賊版が売れるなら、公式が最高音質でリリースしてしまえばいい」という倒錯的かつ極めて合理的なアイディアで生まれたのが本作である。これは、音楽業界における<ボックス・セット>というビジネスモデルの初期の最も成功した事案であり、ディランという天邪鬼な天才にふさわしい画期的な試みであった。
ボブ・ディランの音楽的特徴と本作の位相
ボブ・ディランの音楽は、フォーク、ロック、ブルース、カントリー、そしてゴスペルまで、アメリカのルーツミュージックを貪欲に吸収しながら変遷してきた。
『バイオグラフ』は、1962年のデビューから1981年までの約20年間にわたるキャリアを、あえて時系列を無視してミックスした構成になっている。
これにより、読者(リスナー)は時代を超越したディランの「一貫した表現者としての姿勢」と「目まぐるしい音楽性の変化」を同時に体感できる仕様となっている。
主要な収録楽曲の分析
本作に収録された53曲は、どれもディランの歴史を形作るピースであるが、特に注目すべき楽曲をいくつか挙げたい。
『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』関連音源
1967年、バイク事故からの隠遁生活中にザ・バンド(当時のホークス)とともにウッドストックの通称「ビッグ・ピンク」の地下室で録音されたセッション音源。公式にリリースされる前から海賊版の王様として出回っていた音源であり、ここに収録されたことでディランの生々しい即興性とルーツへの回帰が公式に証明された。
『ブートレッグ・シリーズ』への架け橋となった未発表テイク
本作の成功がなければ、後にディランのライフワークとなる『ブートレッグ・シリーズ』の発売はなかったと言っても過言ではない。
特に、シリーズ第3集の最後に収録されたディラン畢生の歌唱『夢のつづき(Series of Dreams)』のような奇跡のテイクが、この『バイオグラフ』には詰まっている。
持っているだけで高揚するアナログ盤の魅力
米コロンビア盤(オリジナルLP)にみられる、センターラベル(中央部)が凹んだ仕様など、当時のレコードには所有する喜びを満たしてくれる不思議な佇まいがある。
5枚組という圧倒的なボリュームに最初は気圧されるかもしれないが、針を落とせば、そこにはディランが歩んだ豊潤なアメリカン・ミュージックのコスモスが広がっている。海賊版を正規販売するというスリリングな興奮とともに、ディラン入門者からコアなオーディオファイルまで、今なお一聴の価値がある歴史的遺産である。
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