2013年6月30日日曜日

楽器定位の問題を考える

クラシック音楽を部屋に設置したオーディオ機器で聴くときの「楽器定位」の問題はロックやジャズを聴くときのそれとは、明らかに重要度が違う。

ビートルズの初期のアルバムは、リンゴのドラムサウンドが片側のスピーカーからしか聴こえてこない極端な配置だが、だからといってその音楽的価値が後期のものよりも劣るという人はいないだろう。

ロックミュージックでは電気楽器を使っているケースが多く、電気楽器は増幅後の音が「生音」であるため、基本的に増幅時にイコライジングもして、最終的にミックスするときに空間処理して出音とする。
それがコンサート会場であっても、空間的にあらかじめ整えた音をスピーカーから出して聴いてもらうのである。

ギター・ソロになれば音量は卓で上げられ、入念なアーティストは定位も変えているだろう。少なくともU2のギターの音は、コンサートであっても曲によって左右の位置を変えたりしている。

クラシック音楽においては、楽器の生音が、イコール出音なわけで、レコードを聴くときもそれが生演奏の状況を再現しているのが、必然的に「常識」ということになるだろう。


この定位について問題がありそうなレコードが持ち込まれてきたので、検討してみたい。

一枚目はイタリア弦楽四重奏団のモーツァルトのK.499とK.575


一聴、とてもいい音のレコードだ。
近接録音特有の豊かな倍音が溢れ出てくる。
平行法で設置したスピーカーの40度横で聴くと、両側からヴァイオリンの音が聴こえてくる。
どうやら対抗配置にしているようだ。

一般的な弦楽四重奏団では、左から第一、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと配置される。


しかし、両翼にヴァイオリンを配置する方法も無くはない。
事実、ブラームスの時代のヨアヒム弦楽四重奏団は基本的にこの配置を使っていたようだ。


現在でも曲によってこの配置を使っている楽団もまま見受けられる。




バイオリンを両翼配置にしないのは、筐体が小さなヴァイオリンはfホールを観客側に向けられる左側に置いたほうが音響バランス的に有利であるからに他ならない。

しかし、このモーツァルト弦4の特にK.575は途中にチェロの見せ場がある珍しい曲だ。チェロの旋律を前に立たせるために、中央に配置する例は一般的とはいえないが、決してないものとも言えないようだし、この499と575の二曲ではよい効果を発揮していると僕は思う。

なにしろ、モーツァルトよりもベートーヴェンの方が好きだといっては友人を憤慨させている僕が、弦楽四重奏のCDを探しに出かけようと思っているくらいなのだから。
それにしてもこれはいい曲だ。
ぜひ購入して愛聴盤としたい。


次に聴くのは、ベルリン・フィルのソリストたちによる、こちらもモーツァルトのクラリネット五重奏曲とオーボエ協奏曲のカップリング。


これはかけた瞬間、アンプが壊れたかと思った。

主要な旋律楽器がすべて右チャンネルに振られている。
確かにN響のクラリネットの方が吹いたモーツアルトを観たことがあるが、クラリネットは一番右に座っておられた。
だからといってなぜ通常左側に定位されるヴァイオリンまで右寄りになっているのかは不明である。


オーボエ協奏曲もオーボエが右に定位されていた。
ソリストは通常指揮者とコンマスの間にいるものだから、中央左寄りに定位されるのが普通だ。
それが極端に右側に立っている。
オーケストラは普通の音に聴こえたたので意図的な定位なのだろうが、その意図はやはり不明である。

二曲とも聴いていると体が右側に倒れそうになる重心の偏った音で、天国的とまでいわれた名曲の美しさを損なっているようで残念なレコードであった。


さて、最後にシューベルトの鱒を聴きたい。


カール・ズスケのエテルナ盤である。
演奏が悪いはずがない。
通常中央に定位されるピアノが右端に定位されているが、これはカブりを少なくするためにままある定位で、僕が持っているCDの中にもこういう定位はあるし、全体に違和感をもたらさない。

それにしてもこの盤から出てくるコントラバスの倍音はどうだ。
部屋の基底部がどよんと揺れるような気がするくらい豊かな音が出てくる。

いつも聴いているデッカのスピーカーズコーナー復刻盤にはこんな低音は入っていない。

しかしこのデッカ盤はまるで近接マイクで録音したような瑞々しい各楽器の音が魅力で、スピーカーから出た後の部屋の響きを加味して聴く自然さが、シューベルトが自分の友人との川遊びのために書いたというこの曲の親しみを感じさせて大好きなのだ。

ズスケ盤は少し遠くにマイクを構えて、ホールが響く余韻まで余さず録ったという感じの音だ。
立派な楽曲に聴こえる。
でも僕の小さなリスニングスペースにやはりこの音は再現されない。
残念ながら。

だからぐっと演奏に心を寄せて聴く。
そうすると、演奏者の高い力量がそれに応えてくれる。
これはそういうレコードなのだろう。

これが再生芸術の奥深さなんだよな、きっと。

2013年6月29日土曜日

「金田一少年の事件簿」20周年記念シリーズ、完結。

1992年に講談社の週刊少年マガジンに掲載された「オペラ座館殺人事件」で開幕した「金田一少年の事件簿」が、2012年に20周年を迎えたことから企画されて短期集中刊行されていた全5巻が完結した。



いつもの本格推理風味のケレン味たっぷりのトリックに、劇場的な殺害現場。
20年描きこんだ絵は洗練されて、人物はちょっと若返ったような気さえするが、安心して楽しめる。

連載開始時からのライバルである「名探偵コナン」が悲恋のラブコメという最強の舞台設定をもらって、堂々と日本の大衆娯楽の座に収まったのに較べ、こちらはあくまでも推理がメインディッシュ。
残念ながら、今回はコナンくんとひとつトリックがかぶっちゃったけど、概ね日本新本格の潮流を汲む大仕掛なトリックでよろしいんじゃないでしょうか。

思えば、第一作から島田荘司先生の、というよりも日本新本格の大代表作「占星術殺人事件」のトリックをそのまま流用していて、これって島田先生何も言わんのかね、いや、同じ講談社だし許可とってるんじゃ、とか、そんな許可するわけないじゃん、とかいろいろ騒がしかったが、結局どうだったんだろうか。

いまや新本格の世界も叙述トリックの作品が増えてきたり、ライトノベル風ミステリが本屋大賞なんてとっちゃって市民権を得ちゃったり、奥泉光先生まで、あの桑潟幸一をあんなふうにしちゃうなんて・・というような状況になっている。

あの時、島田先生がトリックの盗用だ、なんて大騒ぎしていたら表現形態がマンガとはいえ、この時代に貴重な本格ミステリの書き手をひとり失っていたかもしれないと思うと、島田先生の大ファンの一人としては、これはさすが島田荘司先生。先見の明だったですね、と心から申し上げたいところだ。

そして、今回の20周年記念シリーズの最後に登場した「薔薇十字館」(これはホントに面白かった!)から「館シリーズ」を開始するような雲行き。
で、建物の設計者が、地獄の傀儡師高遠の実の父親で、他にもたくさん変わった建物を設計していると。
ふむふむ、なるほど。
今度は綾辻先生なんですね。
うん、綾辻さんの館シリーズも講談社ですよ。
じゃ、大丈夫ですね。
たぶん・・

リスベット、という女- スティーグ・ラーソンが「ミレニアム」で戦った本当の相手

ミステリ評論も手がける友人が大絶賛していた「ミレニアム」シリーズを、文庫化を待って手にとった。

その友人は、ハードボイルド小説が嫌いだと言っていた。
探偵がふと立ち寄った場所に何故か手がかりを持った人がいたり、何気なく開いた雑誌に犯人の過去が書かれていたりといった、不自然なご都合主義が散見されるからだという。

その点このミレニアムでは、「ジャーナリストが過去に起きた事件を解決する」というアプローチが実に自然に機能していて、もしかしてジャーナリスト探偵ってのは、現代ミステリーにおいてそもそも不自然なところのある「探偵役」をどうするか、という問題の、ひとつの有力な解なんじゃないだろうか。


そしてなにより、複雑に入り組んだ物語そのものがかなり面白い。

40年前のハリエット失踪事件。
ヴァンゲル家のお家騒動。
経済ジャーナリスト、ミカエルと極悪実業家ヴァンネルストレムのペンと権力の闘い。

これらの単独でも充分読み応えのあるエピソードが、あざなえる縄のようにからみ合って一つの大きな奔流を作り出している。
逆に言えば、ちょっと複雑。
外国名の多く出てくる小説が苦手な人には、なじみのない北欧名が多いのでちょっとつらいかもしれない。

でも大丈夫。

極めて個性的で魅力的なキャラクターたちが、物語を強力に先導してくれる。
なかでも「ドラゴン・タトゥーの女」ことリスベット・サランデルの魅力に抗うのは難しいだろう。

そして、このリスベットの存在こそが、この長大な小説世界の主題である。

著者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ってしまう。
そしてその翌日、被害者の女性に許しを請うが拒絶されてしまうのだ。
その時以降、自らの臆病さに対する罪悪感と女性暴力に対する怒りが生涯つきまとうようになる。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」。

15歳の時に持っていなかった勇気。
理不尽な暴力に立ち向かう力。
しなくちゃいけないことを、どんな犠牲を払ってでも実現する強固な意志。

それらすべてを体現したアンチヒロインがリスベット・サランデルなのである。
スティーグ・ラーソンの無念を、魂を、存分にこめて造形されたヒロインなのである。

そこに、純度の高い正義をたっぷり詰め込んだ主人公ミカエル・ブルムクヴィストを配置しての物語構成は実に見事で、このシリーズさえも完結させずに世を去ってしまったことが本当に悔やまれる。


この物語が世界中で大きな共感を呼ぶのは、我々が誰も自分の過去と「戦い」ながら生きているからだと思う。
そしてこの戦いは絶望的に不利だ。
なぜなら過去は変えられないからだ。

それでもこの戦いを勝手に放棄することができないことは、深夜、夢の中まで追いかけてくる身悶えするほどの後悔の念に目を醒ましたことのある人にはわかると思う。

だから、せめてリスベットとミカエルに気持ちを託しながら、物語の世界に身を任せて、ほんの束の間その絶望的な戦いから解放されるのだ。
そして、彼らの運命を見届けて本を置いた時、ほんの少し自分の気持ちが軽くなったのを感じる。
これはそういう本だと思う。


2013年6月28日金曜日

加納通子という女 - 島田荘司論考

非常に多作な作家である島田荘司氏の作品群は内容も実に多彩だが、その中に核になる大きな二つのシリーズがある。

名探偵御手洗潔シリーズと、警察官吉敷竹史シリーズだ。

変人だが天才肌の御手洗潔と凡庸な作家石岡和巳が、まるでホームズとワトソンそっくりに事件を解決していく御手洗ものは人気も高いし、それぞれの作品の完成度も高く、僕も愛着のある作品が多いシリーズだ。

吉敷竹史ものは、警察官が主人公であるので、どちらかというと着実な推理によって不可能犯罪の謎を解くという趣になっていて、コアな本格推理ファン向けかな、と思う。

その吉敷竹史シリーズの中核を担っているのは、吉敷と別れた妻、加納通子との不思議な因縁の物語である。
僕はこの一連のエピソードが島田作品のなかでもとりわけ好きで、何度も何度も読んでいる。

吉敷竹史シリーズで、通子関連の重要エピソードを含むのは、「北の夕鶴2/3殺人事件」「飛鳥のガラスの靴」「羽衣伝説の記憶」「涙流れるままに」の四作品。
御手洗シリーズの「龍臥亭事件」にも通子の性格形成に大きな影響を与えたであろう出来事が著述され、続編の「龍臥亭幻想」では加納通子本人も登場していて(吉敷竹史も出てきて不在の御手洗の代わりに謎、解いちゃってます)全体像を掴むためには必読である。


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加納通子は、盛岡の地主の娘として生まれ、小作農の子である藤倉兄弟を奴隷のように扱って少女時代を過ごした。
女王的な振る舞いがエスカレートした先に、悲劇的な事故が起こってしまう。
そのせいで、酷いトラウマを背負い込むことになり、後に大きな事件に巻き込まれていく。

そしてその傷ついた心の深層には、強く封印されたさらに忌まわしい過去が眠っていた。

自分の中に眠っていた過去を知ってしまった彼女は、愛する娘のために自分自身のルーツを辿る旅に出る。
その旅の中で彼女は自分に流れる恐ろしい凶悪な犯罪者の血脈を見てしまうのだ。


なぜ、そこまで徹底的に可哀想なのか。
どうしてこんな女性像を、島田荘司は描かなくてはならなかったのか。


通子が巻き込まれた事件も、過去に血族に起こった悲劇も、日本が変わっていく中で田舎に押し付けられた歪ではなかったか、と僕は思っている。


十九世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパを起点に世界の仕組みは大きく変わっていった。

前近代的な世界は、社会全体の生産力も高くないのに、王政の支配のもとで富の独占が行われるし、慢性的に戦争もやっている。

多くの市民は農業を営み。工業的生産は家内制手工業。
ビジネスの基本ユニットは「家業」だ。

行き過ぎた圧政さえなければ、自分の所属する社会に疑問を持つ余地はない。

しかしゆるやかに世界の人口は増え、資源を狩り尽くしていきながら、どの国もさらに多くの領土を必要とするようになり、結果戦争は激化し、資金確保のために民の負担は増えていく。
折り悪く、地球は全体が寒冷化に向かい、世界各地で飢饉が起きた。

不満は爆発し、「革命」は起きた。
社会の仕組みは王政から、民主社会へ大きく舵を取り、必然的な帰結として産業革命にたどり着き、後戻りのできない飛躍を遂げた。

王政の軛を逃れた人々は、自由を手に入れたが、代わりに責任も負った。
誰も得をしない世界では、誰かの面倒を見ることは、それ自体が社会の機能であり、誰かの「負担」ではなかった。
でも自由な世界では、どんな行動も「誰か」の責任を求める。
そこで、なんらかのロジックで社会全体でそれを負担するシステムを作るようになる。

そうして我々の複雑な社会は組み上げられていった。


明治維新で、鎖国から解放された日本は、この痛みを伴う民主化のプロセスを経過せずに、欧米に学ぶことで新しい社会システムを手に入れた。
この新しいシステムは、地縁を棄てた人たちが集まって急速に形を整えつつあった「都会」ではうまく機能した。
しかし、田舎に住む人たちにとって、皆が平等で、そのかわり皆が個人の責任で生きるのだという考え方は、根強く残る地縁のシステムとは簡単には折り合わなかったし、必要とも思えなかった。
だから、この新しい考え方を受け入れるスピードには大きな個人差があった。

地主と小作農、本家と分家といった古い身分に基づく人間関係の垣根を社会制度がどんどん取り払っていく中で、そこに出来た隙間に足を取られるようにして思いもよらない凄惨な事件が起きていたのである。

そのひとつが、加納通子のルーツと設定された「津山三十人殺し」で、これは「八つ墓村」のモデルにもなった日本犯罪史上最大の被害者を出した大量虐殺事件である。


島田荘司はこの津山三十人殺しを、御手洗シリーズの「龍臥亭事件」「龍臥亭幻想」という二部にわたる大長編で取り上げ、さらに吉敷竹史シリーズの中核にある吉敷と加納通子の問題のバックボーンにも置いた。
島田荘司の強い問題意識がそこにある。

社会に改革が起きるたびに、めざましい進歩がある傍らで、その歪が市井の人々を苦しめる。
教科書に決して書かれない、そんな人々の苦悩を、加納通子は一身に背負った。

その苦悩故に幸せになることを怖がり、拒む。
しかし心には愛がある故に証を求め、そしてそれは得られた。


やはり人間は強い。
そう思う。

2013年6月27日木曜日

岩崎千明著作集「オーディオ彷徨」復刊〜素人評論の時代に必要な本物の言葉

オーディオ評論家の故・岩崎千明氏が1978年(昭和53年)に発行した評論集「オーディオ彷徨」が復刻された。
日本でもいい音で音楽を聴こうというムーヴメントが徐々に盛り上がり、その後のオーディオ大国になっていく成長期の記録として、現在のファンにありがたい資料だと思う。


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読んでいて、大きな違和感を覚えるのは、オーディオ機器の「音楽性」についての認識の違いだ。
現在の我々の感覚では、日本のオーディオメーカーは、欧米のメーカーに較べ、計測した数値に頼りすぎて、耳で音を作る能力に欠けているのではないか、というイメージがあるし、近年のオーディオ誌での評論でもそういう論調が多い。

しかし、この1978年の評論集では、音響機器の「音楽性」などというものは買った消費者が評価するものであって、欧米ではメーカーも、販売店も、そして評論家すらも、もっぱら物理特性の数値の如何を以って開発をし、その機器を説明し、評論すると書いている。そして欧米ではその機器が醸し出す「音楽性」のことなど語りはしない、と言っているのだ。

考えてみればその通りで、誰かが何か言ったら、その機器の与える感銘の「カタチ」が変わるようでは、その人は音を感じ取っていることにならない。
その機器が自分の好きな音楽を十全に再生できる性向を持っているか否かは、買う側が判断するほかはあるまい。

しかし一方で、物理特性をどこまでも追い詰めて開発をすれば、どの機器も同じ音になるのではないか、という気がするのだが、彼らが開発した機器はそれぞれに実に個性的な音を出す。

ただそれは、「ジャズ向き」とか「クラシック向き」といったような安直な思考停止の言葉では表現できないもので、だから機器を市場に送り出す側や、評論サイドではそのような言葉では語りませんよ、ということなのだろう。


その意味で、この岩崎千明という評論家の言葉は実に見事だ。
徹頭徹尾「自分」と向き合っている。
ジャズという音楽の深い精神性まで理解したところで、オーディオ機器の使いこなしや聴きどころのポイントを解説し、そうかと思うと、クラシック曲に、生活のシーンの中で聴き入り、涙をながす。

そこには他人の所為にするという甘さがない。
そしてそれは、評論というものに必要不可欠なスタンスだ。


現代は「素人評論」の時代である。
このブログも含め、世の中には素人の率直な言葉が溢れ、誰もがそこにアクセスできる。
通販サイトには必ず利用者のレヴューが付記され、グルメサイトにはお客さんの言葉が踊る。

利用者は、「売りたい人はいいことしか言わない」と思い込み、騙されたくない一心で、利害関係がない(と思い込んでいる)消費者の言葉のほうを重んじる。
評論の世界が劣化して、言葉が届かなくなったのだ。

そしていつか、匿名のレヴュアーによって書かれるコラムは、「この音楽(文学)は、私に理解できないから悪い音楽(文学)です」式の感想文や「この店はわたしの知らない流儀でサービスをする店なので悪い店です」といった復讐のための言説で満ち満ちる。

自業自得なのかもしれない。
市場最優先の理屈にのって、工場でつくられるように生産された文学や音楽がないとは言えないし、マーケティングの名のもとに底の浅い運営をしているお店だって確かにあるしね。
それに、そういうことなら今回復刻された岩崎千明著作集だって、編集された形跡はどこにもない。

この時代に、「自分と向き合う」ことに拘り抜いて夭折した男の評論を出版した意義は大きい。
であればこそ、それを語る今を生きる者の言葉が必要だった、と僕は思う。
その必要に気付いて巻頭言を付けようと考える者がいなかったか、それとも価格との折り合いでこうなったか。
そんな安直な復刻こそ、この評論集の精神にもとるものであり、岩崎氏が一番してほしくなかったことではないかと僕は思う。

いずれにせよ、あとは読み手に委ねられた。
こんな時代だからこそ、他人の所為にしない生き方をしてきた善き評論の時代の言葉を語り継いでいきたいし、それを「懐かしい」で片付けない知見が求められていると思う。

2013年6月25日火曜日

ゆっくり歩いて行こう、「八月の鯨」を待ちながら

まだ若かった頃、渋谷という街の、小さい異形がたくさん集まってひとつの特徴ある情熱を形成しているような熱気が好きだった。

新宿にオフィスがあったので、よくゴールデン街近くのカラオケスナックで歌った後、ゴールデン街に流れて内藤陳さんの「深夜プラスワン」そして演劇評論の本陣「ナベサン」などを廻った。
それでも酒の席では、ハードボイルドのことも、演劇のことも、語る言葉が上滑ってもどかしいことが多い。そんな時は仲間と別れてひとりタクシーで渋谷まで行った。

そして決まってセンター街の奥にある「八月の鯨」というバーで、今日話すべきだったことを想いながら映画の名前のカクテルを飲んだ。
もちろん映画の「八月の鯨」から名付けられたバーで、有名映画に題材を採ったオリジナルカクテルが人気だった。

このバーには何度も行ったのに、不思議なことに「八月の鯨」という映画は観たことがなかった。
それもそのはず、この映画つい最近までDVD化されていなかったのである。

初見なのに、不思議な懐かしさを感じながらこの映画を観た。


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サラとリビーの姉妹は、60年来、夏になるとメイン州の小さな島にあるサラの別荘で過ごしてきた。
少女の頃、八月になると入江に姿を見せた鯨を、彼女たちは駆けていって見た。
しかし、それも遠い昔のこと。
いつの間にか、鯨は入江に姿を見せなくなった。

サラは、第一次世界大戦で若くして夫を亡くした。
リビーは病のため目が不自由になった。
二人は大きな喪失を経験したが、支えあって生き抜いてきた。

しかし、視力を失い他人に頼らなければ生きていけないリビーの心は徐々に荒れ、言葉に棘を持つようになっていた。
彼女たちの家には、幼馴染みのティシャや修理工のヨシュア、近くに越してきたロシア移民のマラノフ氏らが訪ねてくるが、リビーは無関心を装う。

ある日、サラはマラノフ氏を夕食に招待した。
マラノフは自分がロシアの没落貴族であることを打ち明け、お互いの昔話に時がたつのを忘れて聞き入った。
が、リビーは何よりもサラが去って一人ぼっちになることを恐れていた。
サラの気持ちがマラノフに傾いていくのを感じてか、この家に寄宿することは期待しないでくれ、と言い捨てて宴席を立ってしまう。

サラは姉のことを詫びたが、リビーの直感は当たっていて、マラノフは、亡命してきても過去の栄華を忘れることが出来ず、各地を転々として、裕福な老婦人を見つけては取り入って寄生するという生活をしてきたのだと遠回しにサラに打ち明ける。

そしてサラとリビーにはもう近づかないとほのめかしてマラノフ氏は帰っていった。


マラノフは、ポケットにロシア王朝に仕えていた頃の母の写真を大切に抱いている。
そして永遠に失ったはずの栄華を忘れられず、自分の足で歩き始めることが出来ない。

サラは若くして夫を失いはしたが、現実を直視して足元にある幸せをかみしめて生きている。
リビーは、まだ自分が失ったものを悔やんではいるが、サラの生き方をそばで感じながら少しづつだが再び心を開こうとしている。

最後に別荘の壁に穴を開けて大きな窓を付けようと言い出したのが、その一歩だ。


マラノフには、その一歩がどうしても踏めないのだ。
ポケットの写真と宝石がそれをさせないのだ。
だからマラノフは栄華を取り戻すことはできないとわかっているのに転々とせざるを得ない。
心の時間が止まっているから、そこに生活という時間を刻むためにとどまることができないのだ。

そして、サラとリビーは、自分の時間をゆっくりとだが、確実に前に進めているからこそ、明日また鯨が入江に来てくれるのを心から信じて待つことができるのだ。

渋谷の「八月の鯨」で呑んだくれたあの懐かしい日々に確かに感じた熱狂も、幸い僕の時を止めはしなかった。
失ったものだっていくつもあるけれど、明日がくるのを楽しみにして生きている。
いつか僕にとっての鯨が入江に来るのを、今日も待ち続けながら、ゆっくりと歩いていこうと思う。

2013年6月24日月曜日

フェリーニ「甘い生活」でマルチェッロが失わなかったもの

イタリアという国の不思議な魅力に取り憑かれて、若いころ長期休みが取れると決まってイタリアに出かけた。
フェイレンツェの郊外で、マルチェッロという若い元ビジネスマンが営む小さなアグリツーリズモの宿を定宿にしていた。

マルチェッロは英語が達者だったから、比較的複雑な話題(どうして、小渕みたいな地味な人が首相になれるんだ?とか)でもコミュニケートできたが、彼以外の家族はまるで英語が話せなかったから、簡単なイタリア語で話をしているうちにだんだん喋れるようになった。
一応街のカルチャーセンターでイタリア語の基礎を習ってはいたが、やはり現地で過ごすことが一番勉強になる。


将来、現役を引退したらイタリアに、定住とまではいかなくても、ある程度長い期間イタリアに住もうと思っている。
だが、カフェの経営なんぞをやっているとおいそれと休んで海外に行くことなどはできず、気付くとイタリア語もあらかた忘れてしまっていた。

学校に行くより実践がいい、と知っていたので何か適当なイタリア映画のDVDを買って時々観ることにしようと考え、以前から気になっていたフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」を買ってみた。


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「甘い生活」の主人公、マルチェッロ(なんと定宿の主人と同じ名前ではないか)は、作家になりたくて郊外の小さな村からローマに出てきたものの、今はしがないゴシップ記者に身をやつし、相棒のパパラッツォ(この見境無くセレブの写真を撮りたがる男の名を複数形にして、現在のゴシップカメラマンたちをパパラッチと呼ぶようになったのだ)と有名人のスキャンダルを追いかける日々だ。

が、一見暮らし向きは派手で、豪華なナイトクラブから富豪の娘マッダレーナを連れ出し、深夜のローマを疾走したり、ハリウッド女優を取材すれば、野外で狂騒し、トレビの泉で戯れる。

乱痴気と頽廃に支配された街ローマ。
キリスト像はヘリコプターでバチカンの真上を運ばれ、子どもたちは、「聖母」を見たと言わされ、テレビ・ドキュメンタリーの素材になる。
ナイトクラブでは、インドの踊りを喜び、民衆はイタリアの土着信仰を捨てないまま、キリスト教徒のふりをしている。
同棲中のエンマは彼の言動を嘆き自殺未遂をしてしまう。


そんなある日、田舎から突然父親が訪れて、一緒にローマの夜を楽しむ。
父親の年季の入った遊びように、自分の今までの生活にふと疑問を覚えたマルチェッロは、再び作家の道を目指すべく、タイプライターを抱えてローマの外れの海沿いのカフェに隠遁し、そこで天使のような少女パオラ(ヴァレリア・チャンゴッティーニ)に出会い、束の間充実した日々を送るが、やがて自分の才能に絶望し退廃の都ローマに戻ってしまう。

古くからの友人スタイナー一家を訪れ、自分の将来について話を聞きたいマルチェッロ。その知的で落ち着いた暮らしぶりを羨むが、可愛い二人の子どもも、教養も、カネも、友人も持っているのに、意外にもスタイナーの心には希望の炎はなく、彼の時は止まっていた。
彼にも「将来」などはなかったのだ。
そして突然、子連れの無理心中で突然死んでしまう。
残されたのは救いのない絶望だけだ。


いよいよ狂乱の生活に没入するマルチェロは海に近い別荘で仲間と淫らに遊び耽る。
彼らが享楽に疲れ果てた体を海風にさらす朝、マルチェッロは波打ち際に打ち上げられた怪魚(巨大なエイだ)の、悪臭を放って腐り果てるさまを凝視した。

海岸に出来た大きな水たまりの向こうで、あのローマ郊外で再び小説家を目指したカフェで知り合った可憐な少女ヴァレリアが何事かマルチェッロに伝えようとしているが、波音に消されて聞こえない。
マルチェッロは、彼女の顔さえも思い出せない。
マルチェッロは立ち去り、享楽と退廃の日々に戻っていく。

残されたヴァレリアの物言いたげな微笑みのアップで映画は幕を下ろす。
その微笑みこそが、彼の最後の救いだったはずだ。

フェリーニは、慎重にたくさんのエピソードを折り重ねて、マルチェッロの周辺にいるローマの人々の「救い」を一つ一つ潰している。
そして最後に、遣わした天使に気付かない、という不幸でマルチェッロの救いを粉砕した。


それでも。
僕はその先にもうひとつの救いがあると思っている。
少なくともマルチェッロの時間は止まっていない。
マルチェッロの父親のあの姿が、マルチェッロに時間を与えていると思いたいのだ。

人は誰も親になってはじめて、生まれてきた意味を知る。
この子の「犠牲」になりたいと心から思う時、本当の幸せの意味を識る。

たぶんスタイナーとマルチェッロの最大の違いは父性の喪失の有無だと思う。
「甘い生活」もまた、現代を彩る数多の名作と同様、父性を巡る物語だったのだ。

2013年6月23日日曜日

ドストエフスキー「悪霊」は予言の書であった

ドストエフスキーの「悪霊」は、1871年から翌年にかけて雑誌「ロシア報知」に連載され、1873年に単行本として出版された著者の代表作のひとつ。

悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
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悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
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悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
光文社 (2011-12-08)
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悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
光文社 (2012-02-14)
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架空の世界的革命組織のロシア支部代表を名乗って秘密結社を組織したネチャーエフが、内ゲバの過程で一人の学生をスパイ容疑により殺害した、1869年のネチャーエフ事件から、この小説の構想を得たという。

過去の事件に材を採っていながらも、これは予言の書でもある。
第一部、第三章の8項でキリーロフはこう語る。

「生命は痛みであり、恐怖であり、人間は不幸だ。痛みや恐怖と引き換えの生命なんて欺瞞だ。だから人間はきっと未完成なのであり、生きていてもそうでなくてもどっちでもいい「新しい」人間が必ず現れてくるだろう」と。

そして彼は、その上で「自殺」論を展開していく。
恐怖を殺すためにのみ存在する自殺。
それが神への唯一の道だと語られる。

これはまさに伊藤計劃の「ハーモニー」の世界そのものではないか!
1872年に書かれた物語に見え隠れするSFの想像力にも、巨匠の思想を見事な未来像に定着させた伊藤計劃の才能にも改めて戦慄するほかない。


怒濤のように謎を振りまきながら進行していく物語の合間に、ドストエフスキーはまたしてもキリーロフを語り手に予言を織り込んでいく。

第二部、第一章5項で「死と永遠と時間」の関係を語るキリーロフの言葉はさながら狂人のようだが、時間の中で真実が風化していくくらいなら、死がもろともに時間も止めてくれたらいいと僕だって思う。

社会が迷走し、対立する意思が生まれ、民衆が構造的に持っている「愚かさ」が、不思議なことに必ず自らを苦しめる方向にドライブしていく。
本書は、その避けがたく深刻な要因を考察しているように僕には思えるのだ。


「悪霊」はルカの福音書に出てくる、人に取り憑く「傲慢」のことであった。
ルカの福音書内で、キリストは病人に取り憑いたこの悪霊を豚に憑依させ河で溺れさせ殺してしまう。
福音書がこのエピソードで何を伝えようとしているのか僕にはわからない。
しかし、ドストエフスキーがこの長大な物語の主題に埋め込んだ「悪霊」を祓う者はついに現れない。
だとすると、人はどうしようもなくそれに翻弄されて生きていくしかないように思う。

そうでなければ同じ聖典を戴く者たちが大まじめに殺し合う、現代という時代の不思議さを説明できないではないか。
やはり「悪霊」は予言の書であったのだ。


2013年6月22日土曜日

「スピーカー派」と「アンプ派」〜瀬川冬樹氏の著作集から

ステレオサウンド社から、発刊された瀬川冬樹氏の著作集「よい音とは、よいスピーカーとは?」が届いた。


良い音とは、良いスピーカーとは? (別冊ステレオサウンド 瀬川冬樹著作集)
瀬川冬樹
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1981年に46歳の若さで亡くなられたオーディオ評論家。
瀬川冬樹氏の名前は、今でもオーディオ関連の本や雑誌を見れば、一定の頻度で目にする。
さぞや特別な評論家だったのだろうなあ、と思うが、この分野の書物は絶版で手にはいらないことが多いので、その瀬川冬樹氏が季刊ステレオサウンドに残した著作を集成したものが出るというので楽しみにしていたのだ。


一読して、現代の評論家たちと全く手触りの違う、生硬でありながらそのバックボーンに確かな教養を感じる文体に引き込まれる。

あっという間に読破して、いったいこの本の企画をした人間は、この文章のどこを読んでこんな陳腐なタイトルをつけたのか、と訝しく思う。

確かに、このタイトルは、ステレオサウンドで瀬川冬樹が最も長く書いた連載記事のタイトルだし、自らのことを「スピーカー派」と称して、音を変える最大のポイントはスピーカー選びにあるという持論を持つ人ではあった。

しかし、この馥郁と形容したくなるほどのこの文体の集成を、こんな即物的なタイトルで売ろうと思う編集者の常識を僕は疑う。

これに限らず、いろんな局面で編集者の無為、無教養に最近あきれることが多いのだが、まあそれは別の機会に話そう。


自らのことを「スピーカー派」と称する瀬川氏の文章を読めば読むほど痛感するのは、自分自身がどれほど根強い「アンプ派」であるか、ということだ。

子供の頃からオーディオ機器が好きで、FM fanとFMレコパルを欠かさず買っては、テクニクスとかパイオニアとか、美しいというならこれが一番だろ、と本当に思っていたオーレックスのアンプを見ては、そのカッコよさにため息をつき、そしてそれを手に入れるために必要な金額を見てはまたため息をついた。

ちょうど国内で、スピーカーの598戦争が起こっていた頃で、どのメーカーも同じような顔つきのスピーカーを作っていたからかもしれないが、スピーカーにはあまり興味がわかなかった。
その中ではYAMAHAのNS-1000Mというスピーカーが異彩を放っていてカッコいいと思ったが、大きな電器店で音を聞かせてもらった時、あまりにもゴツゴツした、輪郭だけが飛び出してくる異様な音に感じられて、その時使っていたONKYOのエントリークラスのスピーカーの方がよほど好ましい、と感じた。


長じて、オーディオ評論家の書いた本を読んだり、同じ趣味の人と話す機会も増えたが、誰もがスピーカーがまず第一で、アンプは、そのスピーカーをうまく鳴らすために選ぶべきだという意見をお持ちのようだった。

そのこと自体に異論はない。
しかし「スピーカー派」の人に多いのだが、理想のアンプってのはStraight Wire with Gain(増幅する電線)なんだから・・という出発点からオーディオ機器を組み上げていく考え方には強い違和感がある。

僕は学生時代の自分たちだけでステージを手作りするサークルでの活動を出発点にして、その後何十年にわたってバンド活動をしてきた。
スタジオでレンタルしてエフェクターを接続したギターアンプを調整して、自分好みの音を作る難しさは、オーディオ機器の調整などとは次元の違う精緻さが要求される。

ジャズドラマーあがりのジャズ喫茶店主である一関ベイシーの菅原さんが、アンプやクロスオーバーネットワークのつまみを「指でつつく」と書いているのを見て、わかるわかると大きく頷いてしまった。

自分の楽器音に関する調整というのは、ツマミを1mm動かしてピタッと合った時の音と、それ以外の音がまったく違うと感じられるデリケートなもので、だから多くの現代音楽の楽器演奏者は、音を、色とかカタチのようなものを脳内に作って判別するようになる。

よくオーディオ好きな人が「耳が良い、悪い」という表現をするが、それはこの音というカタチのないものを、どのように脳内で形作るかという能力の有無のことを言っているのだと思う。


僕たちはコンサートを見る時にだって、純粋な聴衆としては聴いていなくて、無意識に自分の手元で鳴っている楽器の音をイメージしながら音楽を楽しむ人種だ。

そしてその音を作っているものこそ、アンプやイコライザーや、空間処理のプロセッサのツマミの「1mm」なのだ。
だから、それを部屋に持ち込んで聴くオーディオの操作で言えば、一番大事なのはアンプなのであって、その意味で僕自身はどう転んでも「アンプ派」なんだと思う。


2013年6月20日木曜日

コニー・ウィリスが「犬は勘定に入れません」にしのばせた「ユーモア」の本質

コニー・ウィリスのオックスフォード大学史学科シリーズの第二作目「犬は勘定にいれません」



2057年、オックスフォード大学は、空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の復元計画のために大わらわ。
計画の責任者兼スポンサーのレイディ・シュラプネルは人使いが荒く、とにかく強引で、 こき使われる学生も職員も疲労困憊。
そのなかでも失われた「主教の鳥株」の行方を探せと命じられた史学部の大学院生ネッド・ヘンリーは、ネットで20世紀・21世紀間の時間旅行を繰り返させられ、とうとう重症のタイムラグ(時間旅行酔いのこと)に陥ってしまった。

2週間の絶対安静を言い渡されたが、そのくらいでレイディ・シュラプネルが解放してくれるとも思えない。
ネッドの身を案じたダンワージー教授は、ちょっとした任務を与えて、ネッドを19世紀のヴィクトリア朝へ逃がすことにした。
ところが、タイムラグで聴力も思考回路も麻痺しているネッドは、 そのちょっとした任務すら把握できていなかった。


というわけで、冒頭、時間酔いでふらふらになっているネッドくんの主観で物語が語られていくため、読んでいる側も、どうもよくわからない。
わからなくていい。
そして任務の中核になるアイテムがどっか行ってしまっているのに気づいて、一緒に慌てればいい。

ここで慌てておかないと、この後が面白くない。


そして、簡単なはずのミッションが、俄然困難なものになってから、サポートに力を発揮するヒロインのヴェリティがいい。
なにしろユーモアの理解度が高いってのが実にいい。

ユーモアってのは、教養をベースにした「ひけらかし」だし、ある種の不適切さを燃料に発火する害のない悪意のことだから、そういう無意味さを楽しむというような性向は、どちらかというと男性的なものだと思う。

100万円の真空管アンプを買って、あれやこれや真空管を取り替えて「うーん、音が違う」などと呟いたり、古くてカビ臭いレコードを買い集めて回ったうえに「うーん、やはりオリジナル盤は・・」などと唸ったりするのは、この性向の延長にある。

この不可思議な性向を理解してくる女性がいてくれたら・・というのは実は男性が無意識に胸に秘めている願望でもある。

そしてその流れに乗っかって、ユーモアの応酬を楽しんでいると、ラスト近くで、
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「ネッド」
ヴェリティが緑がかった茶色の瞳をまんまるにしてあとずさった。

「ハリエット」
僕はすでに輝いているネットの中へとヴェリティを引き寄せた。
そして、百六十九年間にわたるキスをした。
------------------------------------------------------
と不意打ちがくる。
(男性であるネッドだけが、この期に及んで、まだセイヤーズを引用して「ハリエット」と呼びかけていることに注意。これこそが、ユーモアが男性的なものである証拠である)

まいったなあ。

SF小説というのは、ジャンル小説なのであって、気を抜くとすぐに類型的なものに堕してしまうものだ。
本作は、イギリスの古典文学に材を採り、喜劇という最古の物語プロットを借りて、世の中でもっとも陳腐なものになりやすい「男と女」というテーマを描いたものだ。
それでもなお、ステレオタイプを許さないのが天才ウィリス。

第一級コメディの筆致に、がははと笑いながら身をゆだねて、その奥にしのばせた女性作家ウィリスの目から見た「ユーモア」の本質への冷たい眼差しをちくりと感じる。
これもまた小説の楽しみなんだなあ。

2013年6月18日火曜日

コニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」で、タイムパラドクスが起きない本当の理由

コニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」は、タイムトラベルが可能になった時代のオックスフォード大学の史学科を舞台にした物語である。
そこでは歴史研究のために史学生(ヒストリアン)が、時間を遡って「現場」を観察する。

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ウィリスの考案したタイムトラベルは一風変わっていて、何も持ち帰れないし、歴史が変わるようなことは出来ないようになっている。
なんかすると歴史が変わってしまうような場所には、そもそも行けないようになっているのだ。

だから時間テーマのSFの基本的なディレンマである「タイムパラドクス」はここでは物語を進めるエンジンになってくれない。
その代わり、タイムパラドクスを未然に防ぐために時間そのものがタイムトラベル装置に干渉して生じさせる「ズレ」と、予め知っているはずの歴史が、しかしやはりそれは文字だけの情報であって、現地に立ってみると意外なほど実態が違い、うまく物事が運ばないという案件が生じて、物語を面白く進めてくれる。

ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)というのは、イングランド王国を征服したウィリアム1世が行った検地の結果を記録した世界初の土地台帳の通称である。1085年に最初の台帳が作られた。
本来、ドゥームズデイ(Doomsday)とは、キリスト教における「最後の審判」のことで、全ての人々の行いを明らかにし罪を決定することから、12世紀ごろからこの台帳をドゥームズデイ・ブックと呼ぶようになった。つづりが変わっているのは、dome が「家」を意味するからであろう。(wikipediaより)

本作では、まさに当時の人にとっては最後の審判にも思えただろう厄災を描いていて、それを暗示したタイトルになっているのだ。


タイムトラベルを主題にした物語は、たいていの場合時空を超えた愛の哀しい定めか、のっぴきならないトラブルの原因を過去に戻ってやり直すかに類型化される。
しかし、天才コニー・ウィリスはそんなステレオタイプを許さない。

ここに描かれているのは、過去におこったことを知っているはずの、そして観察者として時代を覗き見ているだけのはずのタイムトラベラーさえもぐぐっと巻き込んで、それでもなお、簡単には左右されずに厳然と存在する「人間」という存在なのである。
だから、本当は「タイムパラドクスが起きない」のではなくて、人間という存在はそんなものに左右されるようなヤワな存在じゃないんだ、ということなのではないのか。


そして本作では、災厄の時代に送り込まれた史学生を救うはずのハーバード大学の史学科も、同時に大きなトラブルに見舞われてしまう。
命を救うために極度に進化したテクノロジーがあっても、それを運用するのが人間である以上、そこに起こる不都合は、疫病は神罰であると心底信じている中世のパンデミックのそれとほとんど変わらないことが、巧みな構成で描写されていく。

そして我々は、ひとつひとつ手を抜かず描き込まれた、近未来社会とタイムトラベルした先の中世で失われるいくつもの命を通じて、やっぱり重要なのは「人間そのもの」なのだ、と思い知るのだ。


しかし、ウィリスが描き出す「状況の動かなさ」っていうのは、僕らが明け方に見る悪夢によく似ている。ウィリスっていう作家は現代に生まれた新しい「プルースト」なんだな。

それにしてもなんと多くの命が失われる物語か。
その度に身を切られるように辛くなる。

憎まれ役の登場人物も、あまりにうまく描かれているので、こいつになんか罰が当たればいいのに、と思っていたらあっさり死んでしまった時の、あの気持ち。
なんかいつかどこかで経験したような苦い気持ちだった。

こんな重たいストーリイを軽妙でユーモラスなタッチで駆け抜けていく技量や、キャラクタ造形も凄いのだろうが、そういう文体技量云々の話を、この物語は拒絶している。

そういった表層的なものに目を奪われて大切なことを見失った、現代(現代だけがこの物語に登場しない時制なのだ)という時代の危うさこそが、この二重時制の物語の主題なのだ。
そう思う。

2013年6月16日日曜日

映画『あの胸にもういちど』〜マリアンヌの黄色いヘッドライト

『あの胸にもういちど』はフランス耽美派の作家マンディアルグの小説「オートバイ」をジャック・カーディフが映画化した1968年の作品。


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レベッカを演じるのはローリング・ストーンズのミック・ジャガーの恋人で、当時22歳のマリアンヌ・フェイスフル。

64年にミックとキースが共作したデビュー・シングル「As Tears Go By(涙あふれて)」が全英1位を獲得。ポップ・アイコンとして一世を風靡した。


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この映画でマリアンヌ・フェイスフルは、素っ裸の上から黒いレザースーツをきゅううっと着て大型のバイクに乗り、サドルの上で跳ねながら疾走していく。
この時のマリアンヌ・フェイスフルが、初期ルパン三世の峰不二子のモデルであるのは、もはや定説だ。



Harley-DavidsonのFat Boyの美しいフォルムが彼女によく似合って、フランスでもこの映画の公開後、時ならぬハーレー・ブームが起きたという。

僕もこの映画でのハーレーは本当にかっこいいと思う。

僕は子供の頃「750ライダー」という漫画を読んでバイクに憧れて、いつかはナナハンに乗るぞ、と決めていた。
だが、長じてみるとどうやら自分には大きなバイクに乗る運動神経は無さそうだと気付き、自分以上にそれをよく知っている家族にも猛反対されてバイクに乗るのを断念したのだ。
そんな自分の夢を葬り去る鎮魂のために、ディアゴスティーニのハーレー・ファットボーイモデルの1/4模型を大枚はたいて注文して作成したことがある。
そのハーレーが出来上がった時、部屋を暗くしてライトを付けてみると、マリアンヌのファットボーイと同じようにライトが黄色く点灯して、感激した。



ところが、ディアゴスティーニの掲示板では、「バイクのライトが黄色いなんてありえない」とか「実車のファットボーイ・ユーザーだが、黄色いライトのハーレーは歴史的にも存在しない」などという流言飛語が飛び交って、せっかくカッコいい、その黄色のライトを白色に交換するのが大流行していたのである。
それ自体は個人の自由だと思うが、「交換するのが面倒だから黄色のままでいいや」と思うのと「マリアンヌのファットボーイと同じでカッコイイ」と思うのでは随分違うと思うので、僕はこの映画には感謝している。


さてそのマリアンヌ扮するレベッカが愛するドイツの大学教授ダニエルを演じたのがフランスのトップ・スター、アラン・ドロン。当時31歳。
この『あの胸にもういちど』では知的で冷酷なサディストを魅力的に演じている。

大学での授業で、結婚という概念にとらわれないフリーラブについての定義をドロン扮するダニエル教授と学生達が議論するシーンが出てくる。
それは愛のない欲望なんだ、とダニエルは結論付けている。

そして、レベッカはダニエルの元に向かうのは鳥の群れの本能のようなものだと言っている。もちろん新婚早々の若妻である自分が夫が寝ている間に恋人の元に向かうのはモラルに反するのは承知している。
しかしダニエルに逢いたいという感情を抑えることができず、その行動は本能、つまりダニエルの言う「愛のない欲望」に基づいたものであるということになる。

社会的に褒められた関係ではもちろんないわけだが、あまりにも美しいアラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルによって演じられる、その不道徳は、それ故に現実感のない輝きを放っていて、眩しい。

だから、野暮な言葉で評論するのはやめて、その輝きに見蕩れようじゃないか。
ではどうぞ。







ジュデダイア・ベリー「探偵術マニュアル」:神秘的で、そして悲しき架空の魔法世界でハードボイルドする事務員の物語

雨が降り続ける名もない都市。
「探偵社」に勤める記録員アンウィンは、ある朝、前触れもなく探偵への昇格を命じられた。
記録員の仕事を心から愛するアンウィンは、抗議のため上司の部屋を訪れるが、そこで彼の死体を発見してしまう。
なりゆきで、そのまま探偵として捜査を開始するはめになるのだ。

時を同じくして都市随一の探偵シヴァートが失踪。
彼はアンウィンが記録を担当していた探偵だった。
謎の女が依頼に訪れ、アンウィンは事件の迷宮に足をとられる。

行方不明になったシヴァートのあとを追ううちに、シヴァートが昔手がけた事件が実はまだ進行中であることが明らかになってくる。

ジュデダイア・ベリーのハメット賞受賞の驚異のデビュー作。


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夢と現実、過去と現在、敵と味方が渾然一体で、これはもうどんでん返しですらない。
結局事件の解決は、夢の中で「行われる」(夢で見るのではない)。

さらに要所要所で鍵を握るのは、サーカスの魔術師。
神秘的で、そしてちょっと物悲しい架空の魔法の世界は、そのままこの物語世界のようだ。

ハードボイルドなはずの探偵物語は、本来事務を得意とするトホホホな主人公によって右往左往する。(なのに、この物語からはハードボイルドな薫りが色濃く立ち込めている。この筆力はただごとではない、と思う)

片手に拳銃、片手にランチバスケットの助手のエミリー・ドッペルがかわいい。かわいいが、ちっともあてにならない。

なんて素敵な道具立てを揃えたのだろう。
映画で観たい。ぜひ観たい。

夢と現実を行き来するだけでなく、夢の中の夢まで出てきて、本来論理的な道具である「言語」なんかを使って、よくここまでの不思議世界を表現できたものだと感心しきり。

アクロバティックな物語構成だが、それもこれもアンウィンという語り手の生真面目さが成立させているのだ。

だが普段のスピードで読むと必要な情報を読み飛ばしてしまうことがあるかもしれない。二行戻って、ああなるほど、というような読み方がいい。

心急かされない状況で無心に読みたい一冊。

2013年6月15日土曜日

虚構の世界は現実ほどの謎には満ちてはいない - デイヴィッド・ゴードン「二流小説家」

デイヴィッド・ゴードンの2010年に発表した小説デビュー作にして、アメリカにおけるミステリーの最高峰、「MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞」の2011年度ベスト・ファースト・ノヴェル(最優秀新人賞)ノミネート作となった「二流小説家」は、日本のランキング誌でも軒並み上位を独占した人気作だ。

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ハリーは冴えない中年作家。
シリーズ物のミステリ、SF、ヴァンパイア小説の執筆で何とか食いつないできたが、ガールフレンドには愛想を尽かされ、家庭教師をしている女子高生からも小馬鹿にされる始末。
だがそんなハリーに大逆転のチャンスがやってくる。

かつてニューヨークを震撼させた連続殺人鬼から、告白本の執筆を依頼されたのだ。
ベストセラー作家になって周囲を見返すため、殺人鬼が服役中の刑務所に面会に向かう。
そこで、依頼主であるダリアンに「刑務所にファンレターを送ってくる"俺の女性ファン"に会い、そいつらをモデルに官能小説を書いて、俺に読ませるんだ。そうすれば、告白本のインタビューを受けさせてやる」と、取引を持ちかけられる。
ハリーは、その申し出を受けることにしたが、そのとたん事件に巻き込まれていく。

ここから二転三転していく展開は、時間制約型の純粋なサスペンスで、謎解きそのものを楽しむ風味は薄味かもしれない。
しかし、事件の全体像は複雑で意外。かなり意表をつかれた。
そしてその入り組んだ事情にハリーは、もうこれ以上ないほど翻弄される。

そしてその翻弄の結果たどり着いた作家的心境こそが、この長い物語の終着点である。

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「推理小説を書くにあたっていちばん厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」

「真の不安と危機感とは、先の見えない“いま”をいきていることからこそ生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰りかえされることがない。ぼくらにわかっているのはただひとつ、それがいつかは終るということだけだ。」
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少しでも(小説ではなく)文学に心を寄せた経験のある者ならば、この最終80節のハリーの心情の吐露に少なからず心が動いたのではないだろうか。

私は激しく動揺した。
そして、出会う小説のほぼすべての「最初の一行」の出来や「最後の一行」の後の読後感に拘泥していた自分の読み方の甘っちょろさを後悔した。

文学とは読み手の生の投影に他ならない。
終わりのある「虚構」によって、明日も続いていく日々を組み上げる作家という仕事の苦難と覚悟。
それが原題の「Serialist」(連載作家)の真意だろう。

文学とは書き手と読み手の両方によって完成される。
それがどんな本であろうとも、その覚悟を持って読む時、今まで以上に豊穣な果実が得られるのだろうと思う。

どん詰まりの現代社会が産み落とさせたお伽話 - スティーヴ・ハミルトン「解錠師」

ここ数年国内小説のランキングには正直首を捻ることが多いが、海外作品はだいたい受賞ものやランキング上位作品は当てになる。

この解錠師という作品は、本国ではMWA賞の最優秀長篇賞とCWA賞のスティール・ダガー賞を獲り、翻訳でも、このミスと文春の海外ミステリ・ベストテンで1位を獲得した作品だが、評価どおりの見事な出来だと思う。


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原題は「Lock Artist」。
鍵の芸術家、とは洒落てるよね。


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この小説は、金庫破りの天才少年の手記の形で語られる。

18歳の誕生日を目前にした寡黙な少年。
抜群の解錠技術に加え、その寡黙さゆえに絶大な信頼を得る少年犯罪者。
しかし彼は喋(しゃべ)らないのではなく、喋れないのだ。

手記は二層の時間に分かれ、それを交互に配する形をとる。
一は彼の現在、二はロック・アーティストとして修業を積んだ苦難の日々。

「声を喪(うしな)う」にいたった酸鼻な過去が明かされるのは、末尾近く。
そして、手記が誰に向かって書かれるのかも、そこで明らかになる。
彼は鍵を解錠するように、過去の封印を解除することに成功した。

犯罪小説であり、恋愛小説であり、闇に閉じこめられた少年の解放の物語でもある。
ジャンル的にはクライム・サスペンスなんだけど、全編なんとも甘酸っぱくて。
ラストも、え、今時そんな素直で素敵な終わり方でいいんだあって感じで、越前敏弥さんのスムースな訳も手伝って、それはそれは楽しい読書だった。


だから、これについては、なんだかいつものように色々分析とかしたくない。
これはそういう物語。

そう、これは人間社会がどん詰まりに近づいてしまったからこそ必要とされているお伽話なんだな。

この本はどんなことがあっても、シーリア・フレムリンの「泣き声は聞こえない」と一緒にそっと本棚の奥にしまっておこう。
それがここにあるとわかっているだけで、心が少し強くなるから。


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2013年6月14日金曜日

「ミツバチのささやき」は、まるで詩のように

淀川長治氏は、この「ミツバチのささやき」という映画について、こう言っている。
「この映画は詩であるから何度とりだして見つめても聞きいっても飽きることはない」と。
まことにそのとおりだと思う。


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しかし僕の短い映画歴の中で、おそらく最も繰り返し観たこの映画との出会いが、「となりのトトロ」を十全に理解するためであったことを、まず告白しておかなければならない。

宮崎駿監督は、「となりのトトロ」を作るにあたり、とある意図を持ってミツバチのささやきの基本構造を使っている。

都会からの移住してくる一家。
知識人で研究者の父。
母の不在。
仲の良い姉妹。
精霊との邂逅。
そして妹の失踪。

この双子のようによく似た構造の映画の決定的な差異が、スペイン北部カスティーリャ台地の荒涼とした荒地と、初夏の所沢の豊穣な自然である。

スペイン北部もかつては豊かな森を持つ地であった。
森は十字軍の遠征で大量に必要とされた資材を得るために伐採され、強国として海洋を支配した繁栄の時代に致命的に伐り尽くされたのである。

宮崎駿監督は、となりのトトロという、精霊と子どもたちが心通わせる豊かな日本の原風景を描いた映画の時間軸の外側に、そっと忍ばせておいたのだ。
「しかしその豊かさも近視眼的な繁栄に目を眩ませていると簡単に失われて取り戻すことはできなくなってしまう」という警告を。


そしてそれはもともと「ミツバチのささやき」という映画の中にビルト・インされていた警句でもあった。



はるか以前の繁栄のために失われた自然。そしてもうその繁栄も失われて久しいというのに、4年にもわたって内戦を戦い、今もまだ不和は続いている。

それでも悪霊を追い払い、収穫を祈願してみなで火の上を飛び越える「サン・ファンの火」という古いケルトの習慣に起源を持つ行事は時を超えて人の心の中に生き、続いている。

そして子どもたちは変わらず精霊の存在を信じている。

だから映画がアナ・トレントの目を借りて世界を著述するとき、それは合理主義に席巻される以前の姿を取り戻す。


そして映画は、ミツバチの巣箱の「支配者」である父の視点に切り替わり、世界はくすんだ現実にたちまち戻ってしまう。
彼らの住まう家も、ハチの巣と同じ六角形の窓を持ち、父の支配がここにも及んでいることを暗示している。

いや、現実の世界そのものが合理の支配を受ける「ミツバチの巣箱」なのだ。



この映画の原題は「蜜蜂の巣箱の精霊」である。
精霊とは言うまでもなく、アナの目から見たフランケン・シュタインであり、現実では小屋に身を潜める男のことである。
そして彼は現実の巣箱にからめとられ、命を奪われる。

アナは精霊の死を機に、残酷な現実から逃げようとする。
しかしこれは彼女が現実を受け入れ始めたということに他ならない。
そしてその二重性に耐えかねたかのように、アナは深い眠りにつく。まるで繭の中の眠りのように。

目覚めた時、アナは力強く自分の足で立って明日を見る、しっかりした眼差しを得ていた。
同時に、母の心も再生し、家族が再構成されていく。
しかしそのモーションの中で、適切な儀礼を得られなかったイザベルの心の歪みが「私はアナ」という台詞で表わされ、現実というもののままならなさを痛いほど突きつけられてしまう。
それもまた現実なのだ。


そしてこうやって懸命に言葉にしようとすればするほど、この映画の詩情から遠ざかってしまうのを感じる。
でもその距離こそがこの映画の価値なんだと心に確かめながら、もう一度、そしてもう一度と、この詩のような映画を何度もとりだしては、見つめて、そして聞きいるのだ。