2013年1月31日木曜日

友達がくれた、グールドのレコード。

先日、大学時代の友人と飲んでいた時、村上春樹の「小澤征爾さんと、音楽について話をする」について話をした(ややこしいな)。

僕は、クラシック音楽の中では断然ベートーヴェンが好きなので、グールドとバーンスタインで演ったピアノ協奏曲の話が印象に残ったと言うと、ああ、それならレコードで持っているから今度持っていくよ、と言ってくれたのだが、今日本当に持ってきてくれた。
しかも、じゃあ、ありがたくお借りします、と言うと、レコードばかり聴く僕のところにあったほうが、このレコードにとっても良いだろうから、と言って譲ってくれたのだ。
うれしいなあ。


グールドが亡くなった時に出た追悼盤で、4枚組の協奏曲全集だ。
立派な箱に入っている。
さっそく、小澤さんがいろいろ解説をしていた三番を聴いてみる。

一聴、ものすごくオンマイクな音。
小澤さんと春樹さんは「古色蒼然」と評していたが、遠くから全体を録るような録音より僕は好きだ。
レコードは「録音」を聴くものであり、生演奏の代わりではない、と僕は思っているので、自分がマイクになった気分で、それぞれの楽器にクローズに接することができるのがレコード演奏の醍醐味だ、とさえ思っている。
ホールのどこの客席からでもない、録音現場そのものの音。
それが僕の求めるオーディオの音だ。
その意味でこの録音は、今まで聴いた数多の協奏曲録音の中でも、最も好ましい音なのです。

小澤さんの解説にあるような、グールドとバーンスタインの音のやり取りのようなものは、僕の耳では残念ながら聴き取れなかったし、言われているほど奇異なテンポではなかったように思った、のも束の間、その印象は、一番好きな四番の第二楽章を聴いて、あっさり覆る。
冒頭の弦楽による強力なユニゾンは、同じ曲とは思えないほど遅い!
その間隙にグールドの夢のように美しいピアノが入ってきて、また力強い弦が。
そして、例のグールドのハミングがはっきりと聴こえてくる。

ピアノはあくまでも美しく自由に揺らぎながら旋律を縫い、オーケストラは、揺るぎなく荘厳に響く。そして交互にボールを渡し合う。
グールドのあの自由なテンポによく合わせられるものだ。

小澤征爾さんの解説では、カラヤンとグールドの演奏では、カラヤンが独奏者に合わせないため、入りが合わないようなところがあるが、それでも演奏の太い流れはカラヤンの方が上だという。
そんなこと言われると、そっちも聴きたくなっちゃうよね。

異常な遅さでスタートした曲は、第三楽章で、これまた聴いたこともないほどの速さにシフトアップして終了する。
いやー、これはすごいね!
何度も聴いてよく知っているはずの曲に、こんなに興奮させられるとは思わなんだ。


2013年1月10日木曜日

「この空のまもり」に見たニートの魂。



ハヤカワ文庫JAの「この空のまもり」。

ライトノベル界隈では、「ニート文学」とでも言えそうな作品ジャンルが確立していて、僕はこれがかなり好きだ。
これもそういった作品群のひとつ。

現在の経済の仕組みは商品価値とそれを生み出す労働力との差分を最大化することによって回転している。
どこまで行ってもそれは「搾取」の構造だから、このエンジンを回し続けるためには搾取元を探さなければならない。
グローバリズムというのはこの「調達の構造化」の最終局面だ。最初の「世界の工場」アメリカが成長しきって、副作用として調達コストが高くなり、バトンを日本に渡し高度経済成長を果たすと、中国・韓国がそれを受け継ぎ、今、アフリカ諸国の民主化が爆発的に進んでいるということは、その最終局面すらいよいよ終焉を迎え始めているということだ。
ユーロ危機もリーマン・ショックも日本の終わらないデフレも、その綻びの体現である。

グローバリズム・ローテーションの中で、役割を終えたはずの「年功序列」「終身雇用」「既得権益」などの日本型システムだけが堅持されたことで、金持ちの年寄りと仕事のない若者が生まれた。仕事のない若者は金持ちの年寄りに扶養され、ニートとなった。非正規雇用という低賃金労働のヴァリエーションが拡大され、不安定な労働市場が形成され、結婚や出産は、長期間の社会経験を必要とするか、恵まれた一部の人たちのものとなった。家や車は必要なくなり、設備投資はもはや富を生み出さず、消費は堅実になり、コモディティ商品だけが国際的な調達の成果で価格が下がっていく。
アメリカは同様の危機を国体の大きさを利用して、国内に格差を設けることで解消している。日本もその真似をしようとして一生懸命格差を拡大して、今や国民を守るための年金や医療などの社会福祉的体制は崩壊寸前だ。

ニートはこういったシステムの中から生まれ出た。
だから彼らには、旧来の価値観に染まった世代から努力不足の誹りを受ける謂れはもとよりなく、むしろその存在が、早く社会の構造を作り替えて行かないといろいろと手遅れになりますよ、という警告を発するカナリアだったのだ。そしてその知性的なカナリアであるニートたちこそ、社会変革の鍵になる、という発想が、ニート文学の骨格を支えている。
だから面白い。

ニート関連作品の嚆矢とも言える「東のエデン」(エデンの東ではない)というアニメーション作品では、先日発表された税大綱を大幅に進化させた相続税100%法案とか、画期的な政策を官僚が骨抜きにしないようにする、ちょっと思い切ったテロとか、なるほどと思わせるアイディアがてんこ盛りだった。

日本銀行の白川総裁は、長期化するデフレの原因は「グローバリズム」と「少子化」への対応が遅れているからである、と言っていた。そのココロは、通貨政策だけに目を取られずに上記のような大きな世界のうねりに目を向け、本質的な解決に向かうべきではないか、との指摘ではないかと思うのだが、いかんせん表現がカタすぎて真意が伝わらない。
いっそこの本でも安倍首相に読んでいただきたいところだが、表紙も含めちょっとお薦めしにくい。麻生さんなら読んでくれるかもね。


今回読んだ「この空のまもり」は、ニートたちが電脳世界に架空政府と架空軍を作って国家に改革を突きつけるというもの。
主人公の架空防衛大臣はもちろんニートで、隣に住む幼馴染の女の子を守るために電脳世界で小さな戦いを始めたところから、防衛大臣にまで登りつめてしまう。
で、戦いが大きくなったところで、自分の中に「愛国心という獣」が住んでいることに気付く。
うまいなあ。愛国心ってのは確かに「ケモノ」だよ。理性の対極にあるもの。
もちろんその獣はどんな人でも持っていて、だから内紛のもつれで仕掛けられた嘘をきっかけに戦いのさなか架空軍は暴徒と化してしまう。
主人公は、結局我々ニートは隣にいる大切な人しか守れないちっぽけな存在ではあるけれど、それ以上に大切なことなんてあるのかい?と、そんなに憎い外国人ってのは一体誰のことなんだい?と民衆に問うことでこの暴動を治めてしまうのだ。
どこにも所属せずに生きてきたニートたちは、弱い立場であるが故に数少ないリアルの縁を大事にしている。だから、頭の中だけにいる「愛国心という獣」に心まで奪われはしなかったのだ。
今の時代に本当に必要な冷静さって、こういうことじゃないのかな。
うーむ、やっぱり安倍首相に読んでほしいかなあ。

2013年1月9日水曜日

MILES SMILESに記録されているもの。

購入した中古レコードを聴いている。

まずはマイルズ・デイヴィスのMILES SMILES。
マイルズの傑作群の中では比較的評価の低い盤だと思う。僕もジャズ入門者に薦めようとは思わない。
しかしこのアルバムには、60年代後半のロック・ミュージックの嵐のような台頭に晒されたジャズの迷走と、それに対するマイルズの回答が込められているのだ。
そしてそれは、我々が芸術に相対するときに必要な心構えのようなものを示唆しているようにさえ思う。
マイルズ自身も音楽を含む文化が大きな曲がり角に来ているのを感じていたのだろう。60年代半ばに、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスらと新しいクインテットを結成して、E.S.Pというアルバムを世に問う。しかし、折り悪く、直後マイルズは病気に倒れ、しばらく休養をとらなくてならなくなってしまう。リーダー作が何枚もある売れっ子のマイルズは、まあ休んでいればいいだろうが、雇われの4人はそうはいかない。いろんなミュージシャンとステージに立つことになる。
時代は、閉塞するジャズへのひとつの回答として「フリー・ジャズ」に傾いていた。
オーネット・コールマンやセシル・テイラーなんかの音楽が人気を博していて、ロン・カーターを除く、マイルズ・カルテットのメンバーは彼らとステージを共にして、すっかりフリー病に冒されてしまうのだ。
恢復して、再び招集したメンバーたちとステージに立ったマイルズは、わずかな間で様変わりしてしまった彼らのプレイに驚き、憤慨する。おいおい、お前らのやってることは、簡単なことを難しそうに演奏しているだけだ。新しい芸術というのは、こういうのを言うのさ、と普段は細やかなコントロールで繊細なメロディを吹くマイルズが、力の限りトランペットを吹き上げて、彼らの甘っちょろい芸術観を粉砕しようとしたのである。しかし敵もさるもの、カルテットはマイルズの魂のブロウに感応して、フリーの階段を一段だけ降りて、マイルズの目指した新しいジャズの一部となろうとしている。
この相克の記録こそがMILES SMILESの正体である。ジャケットのマイルズの満足そうな顔を見て欲しい。勝負の行方は明らかなのである。

マイルズは、この後のMiles in the skyやキリマンジャロの娘、そしてネフェルティティとアルバムを追うたび、徐々に自身では作曲もしなくなり、トランペットもあまり吹かなくなっていく。マイルズが目指した、まさに「マイルズの音楽」という独立したジャンルが完成に近づいていくからである。オレが吹かなくてもオレの音になってこそ、マイルズ・デイヴィスの音楽なのさ、と言えるところまで追い込んでいるのだ。そしてそれは、このMILES SMILESで「フリージャズとの対決」を余儀なくされたことで、それがいくらフリーと銘打たれていても新しいフリージャズという括りを作るだけなのであって、本当に我々に必要なのは、真に我々にしか作り得ない音楽を作っていく事しかないんじゃないのか、ということに気付いたからではないかと思うのだ。
音楽に限らず、美術や文学にもおそらく共通する、それは芸術というものがこれほど長い間人間の心を魅了し続けてきた「動機」だろう。

2013年1月8日火曜日

久しぶりに中古レコードを買いに出かけた。

久しぶりに中古レコードを買いに出かけた。いつも行くのは狸小路7丁目のフレッシュエアーというお店。クラシックは極端に少ないが、ジャズ・ハードロック・プログレ・SSW・AOR・日本の古いロックやポップスなど、バランスが良く、手頃な価格で盤質の良いものが揃っている。
自分自身が成長していく過程でいろいろな音楽の存在に気付き、そのそれぞれから少なからぬ感銘を受けてきた。それは現在の音楽がどのように成立してきたのかという歴史を追っていて発見したもので、そうして培ってきた音楽の見方が、自分で曲を作る時の大事な指針になっているし、僕にとって音楽を聴くという行為そのものが、過ぎてきた日々のすべてで今の自分なのだということを再確認する大切な時間にもなっているのだ。
だから、こういうバランスの良い品ぞろえの店が有難いのである。

さて今回のお目当ては「ジャズ」だ。ここしばらく、まだ聴き始めて日の浅いクラシック音楽を集中的に聴いてきたのだが、ジャズギターが好きなのにレコードでは全然持っていないことに気がついたので、大好きなジム・ホールと初期のウェス・モンゴメリーを仕入れようと出かけた。

入店早々ジム・ホールのダイレクト・カッティング盤(演奏をテープに録らずにそのまま原盤にカッティングしていく方法)をいきなり発見!幸先いいぞ。
続いて名盤の誉高いウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリーのハーフ・ノート・ライブが!欲しかったんだよなあ、これ。

二枚の戦利品を手にふと横を見ると、あれ、この間はなかったマイルズ・デイヴィスの「キリマンジャロの娘」があるぞ。
ジャズ史に残る重要盤「ビッチズ・ブリュー」への重要なステップとされる盤だが、なぜかアナログの入手が難しい一枚。確かにこれだけ他の盤の4倍くらいする。うーむ。
さらにこの時期のマイルズの音楽性が変化していく様子がわかる「マイルス・イン・ザ・スカイ」「マイルス・スマイルズ」も揃っているではないか。こうなるとお目当てはギターなどと言ってはいられないのだ。もうまとめていくしかないではないかあああ。大散財ではないかああああ。

本当は、エリック・アンダーソンの未CD化作品などの掘り出し物なんかもあったのだが、今回はあきらめて、ジャズのレコード5枚をまとめてレジに持って行き、大枚はたいて家路を急ぐ。
さっそく初めて聴くダイレクト・カッティング盤であるジム・ホールの「無言歌」を湿式クリーナーで磨いてターンテーブルに載せる。

ジム・ホール、45歳の時の来日に合わせてキングレコードのスタジオで、日本の印象を元に作曲したオリジナルなどを演奏し、それをダイレクトに原盤に刻み込むという企画だったようだ。
これは生々しい音だなあ。目の前で演奏しているみたいだ。二曲目のエコーという曲は新幹線の「こだま」に乗っている時に思いついた曲だそうだ。こだま、でエコーね。そのまんまだね。
このタイトルの気軽さが、このアルバム全体を貫くトーンになっていて、いつものちょっと冷たいくらいなクレバーさよりも、むしろ程よい緊迫感漂うプレイがこのアルバムの身上か。こういうのもいいですね。
それにしてもダイレクト・カッティング、なんと曲間もカッティングマシーンを止めることは出来ず、片面分吹き込むまで演奏を止めることが出来ないんだそうな。どうりでちょっと曲間長いのね。つまりスタジオ・ライブなわけで、そりゃ納得の張り詰めたプレイなのですな。30,000枚の限定プレスだったそうなので、中古レコード店で見かけたらぜひ救出してやってください。

2013年1月7日月曜日

LPレコードとCDの音

グレン・グールドの弾いたブラームスの間奏曲集がアナログレコードで復刻されたので買ってみた。

曲自体は、6年ほど前にNHK-BSプレミアムのクラシック倶楽部で、アファナシェフが弾いているのを聴いて素晴らしいと思ったので、彼の録音でCDを買った。

そのCDの解説に坂本龍一氏がグールドによる同曲の演奏を「水墨画のような」と評しているのがどんな音なのか興味があって、坂本龍一編集盤を買ってこちらも聴いていた。

今回買ったレコードは、その坂本編集盤と同じマスターからカットされたもののようで、全く同じ音がする。

同じでいいのである。いや同じでなくては困るのだ。



はて、レコードとCDが全く同じ音なら、何故わざわざ扱いの面倒なアナログレコードを買うのか。
これはいくつか理由があるが、数年前までは、その時点でまだレコード同等の音が出ているCDが少なかったから、というのがメインの理由だったと思う。
 
レコードで聴いた懐かしい音楽をCDで買い直すと、確かにノイズは無いし、扱いやすいのだが、持っていた普及クラスのCDプレーヤーでは音の実在感に乏しく、大好きな佐野元春のCafe BohemiaをCDで買い直した時には本当にがっくりきた。
毎晩夢中になってヘッドフォンをかけて、ボリューム上げて、居ても立ってもいられなくなって、鏡の前でギターを持って「エア・モトハル」をやらずにはいられなくなってしまうほどの情熱は、その12cmの音盤からは届いてこなかった。

その後、CDの世界にも経験が蓄積され、いい音のCDが作れるようになってきた。この10年ほどは名盤のリマスターが相次ぎ、ずいぶん散財させられた。
それでも最後の一歩、アナログ信号が変換されずにそのまま出力されるレコードの優れた「ココロを震わせるチカラ」に及ばないように思う。

もうひとつの理由は、アナログ再生の技術が「枯れた」技術であるということにある。
同じ音を再生するために必要な技術が、アナログレコードの場合は既に充分成熟している。
新しい機構を採用した機種も開発されていはいるが、既存の技術で充分優れた音が出ていると思う。
そういったトラディショナルな機種はしっかりと作られた中級機と細部に拘り抜いた高級機との間で価格差ほどの音質差が出なくなる。だから僕にとってアナログはコストパフォーマンスに非常に優れたオーディオ・デヴァイスなのだ。

デジタルデータの音楽化にはまだまだ進化の余地があり、かつどこまでいってもそれはアナログよりも複雑な技術にならざるを得ないということなのだと思う。
だからもしかすると、コストを限りなくかけていけば、満足のいく音像が得られるのかもしれない。
 
事実、オーディオ試聴会でエソテリック社の精密なマスタークロック機器をCDプレーヤーに接続した時の音の変化は目を(耳を?)見張らせる効果があり、あの世界にはまだ無限の可能性があるようにも感じられた。
しかし、数百万円から下手をすれば一千万円を超えてしまうそれらの装置は僕のような男には逆立ちしても手の届かないものだ。そこに何の意味がある?

幸い、市場にはLPレコード黄金時代の名盤たちが手頃な価格で流通しており、驚くほど多くの新譜がアナログレコードで発売されている。僕はまだもう少し、子供の頃から音楽の素晴らしさを教え続けてくれたアナログレコードというメディアを大切にして生きていこうと思っている。