2014年3月31日月曜日

ドストエフスキー「白痴」に見える恋の真の姿

ドストエフスキーの五大長編のひとつ「白痴」を読了した。
これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。

白痴 1 (河出文庫)
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ドストエフスキー
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まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。

まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。

さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。


「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。

僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。


ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。

無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。

実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。

そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。

2014年3月28日金曜日

「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」がめっぽう面白い

音楽評論家、湯浅学さん編集による「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」がめっぽう面白い。

1979年からの10年間とは、自分にとって中学三年生から社会人一年目にあたる。
間違いなく、一番音楽を聴いて、一番純粋に感動した時期だと思う。

だからページをめくるたびに音楽が聴こえてくる。

以前、故大瀧詠一が、無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、「レコードリサーチ」というカタログの1962~66年を持って行けば、全曲思い出せるから、ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らすことができる、とお答えになったと聞いた。

とうていそこまではいかないが、いくつかのアルバムのジャケットを見た時、本当に断片的にメロディが聴こえてきた。
特にはっきり聴こえてきたのがREBECCAのPOISONとBOØWYのPSYCOPATHの二枚だった。
どちらもレンタルしたレコードをカセットテープに録音して何度も聴いたお気に入りのアルバムだった。

「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」のレコード評では、BOØWYのアルバムではなんといっても「JUST A HERO」が頂点で、バンドサウンド回帰の次作BEAT EMOTIONが、欧州ポップの前作を超えられなかったところからBOØWYの終焉へのプロセスが始まったと書かれていた。

おいおい、ちょい待てや。最高傑作は「PSYCOPATH」やろ。
と、思ったら矢も盾も、でTSUTAYAにGO!なのであった。

TSUTAYAでは、BOØWYがJ-POP、REBECCAが昭和歌謡にカテゴライズされていた。なんとなくわかるような気もするが、正しくもないような気がする。

で、借りてきた「JUST A HERO」と「PSYCOPATH」を改めて聴き比べる。

JUST A HERO
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PSYCHOPATH
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レコードからカセットテープに録音することで、実にいろんなものが失われていたのだと再発見した。
特に「歌」は、声が消えていく場所にいろんなニュアンスを込めることが多いが、テープの音の記憶では、このあたりの印象が平板で希薄だった。
こんなに豊かなニュアンスを込めて歌っていたのか。

音が伸びている時のヴィブラートが表側の個性だとすると、減衰時にしゃくりあげたり、パッとカットオフしたりするテクニックは、楽曲そのものの勢いのようなものを左右する。

そこに注目して聴くと、「JUST A HERO」での氷室京介の歌には、確かにここが全盛であるというサインがある。
英語も日本語も取り混ぜてすべて氷室的発声で語りきったその「歌」は、日本語ロック歌謡のひとつの到達点であることは誰にも疑えまい。

「PSYCOPATH」は、といえば収録された楽曲の素晴らしさは、やはり群を抜いていると思うし、何よりギターが素晴らしい。
一聴布袋氏の音とわかる図太いトーンはここで確立されている。
またギターの印象的なリフが類型的でなく、もはやどこを取っても伴奏とは呼べないほどだ。
逆に言えば、この演奏に歌を載せるのは難事業で、さしもの氷室氏も少し乗り切れていない印象がある。
当時の僕にはそこが聴こえていなかった。

それでもやはり、聴き終えた後にどっしりとした印象を残すのは「PSYCOPATH」であるという感想は変わらない。
音楽とはそういうものなのだろう。

音楽とは純粋に客観的な評価ができるような芸術ではなく、その音楽とともに過ごした時代の空気から逃れることは出来ないのだ。
だって、音は空気の振動から出来ていて、それが僕らの体に染みつくことで心まで震わせるんだから。
頭で覚えたんじゃなくて、体に染みついたものはそう簡単には忘れられないよ、ね。

2014年3月27日木曜日

ジャック・ジョンソン「スリープ・スルー・ザ・スタティック」が教えてくれる“失われた鍵”のありか

Amazonで買ったジャック・ジョンソン「スリープ・スルー・ザ・スタティック」のアナログ盤が届いた。


マットな質感の良いジャケで、ダブル・フォールドになっている。
全14曲を収録するためにレコードは二枚組になっているから当然の仕様だ。


ダブル・フォールドの中面には全面に歌詞が印刷されている。
このアルバムは、環境意識の強いジャック・ジョンソンの発案で、太陽光発電によって得られた電力のみでレコーディングされたものだが、残念なことにレコーディングについての詳しい情報は記載されていない。


各レコードは、このような紙袋に収納されている。最近はあの半透明の内袋はめったにお目にかからない。紙袋のメリットは静電気の発生が抑えられることだが、このレコードでは盛大に静電気が発生していて、袋から取り出すのに苦労した。まさに「スタティック」であったわけだが、まさか故意にではないだろう。

いつものように洗浄液「ニーノ・ニーノ」とベンコット・ワイピング・ペーパーでクリーニングしてからターンテーブルに置く。


ライトの下に置くと、クリーニングで取りきれないほどこびりついた指の油脂が見えると思う。さらにターンテーブルを廻してみれば、盤面に映り込むライトの光が歪む。盤が反っているのである。これが現在のアメリカのレコード製作のレヴェルなのだ。
気にならないといえば嘘になるが、もう慣れた。
それでもアナログで聴きたい音というのがある、ということだ。


針を落とせばわかる。
CDで聴いてみて直感したとおりの音だ。
音が波であったという事実を体感させてくれる実在感がある。
たった三つの楽器と人の声で出来たこの肉体的な音楽の真相を感じ取るためにどうしても必要な音がここにある。

ことにエレクトリック・ギターの音が素晴らしい。
ギターアンプが震えている空気感が伝わってくる。
最終曲「LOSING KEY」にはジャック・ジョンソン自身の手によるギターと、ボーカルのユニゾンが入っているが、このギターと声が響き合って胸が苦しくなっちゃう感じはCDからは感じ取れなかったものだ。
もしかしたらこのドキドキが現代の商業音楽業界が失いかけている「鍵(LOSING KEY)」なのかもしれないな。

2014年3月23日日曜日

そして僕は再び、ジャック・ジョンソンに出会う

ハロルド作石の「BECK」はマジで傑作だったと思う。

音楽漫画ってのは、実際の音が聴こえない分音楽のイデアが伝わってくる。
コユキのボーカルがどんだけ凄いのか、実音がないからこそ伝わってくる。

コユキを音楽の道に引きずり込んだ破滅型の天才ギタリスト竜介が、まともな音楽を聴きたいと言って駆け込んだバーでジャック・ジョンソンをかけてもらうシーンがある。
僕は、この時はじめてジャック・ジョンソンの名前を知った。

すぐにCDショップに行って、デビュー盤の「ブラッシュファイアー・フェアリーテイルズ」を買ってきた。一曲目がタイトル・トラックで、この曲に完全にヤラれた。

しかし、二枚目、三枚目とどうしてもこの一曲を超えられない。そう感じていた。
四枚目が劇場版「おさるのジョージ」というアニメ映画のサントラで、僕はジャック・ジョンソンが全曲書き下ろしたと聞いて、映画まで観たんだ。
で、それを聴いてもういいかな、と諦めがついちゃって、ここで聴くのをやめてしまった。

昨日久しぶりに古いハードロックが聴きたいなあと思ってTSUTAYAに出かけたが、アイアン・メイデンのどのベスト盤にもプロウラーが入っていないことに、僕のハードロック観が世界中から否定されてような気がして急にテンションが下がった。
突然音楽的興味が正反対に振れて、そういえば、その後のジャック・ジョンソンはどうしたんだろうと思って見てみると、けっこう出てる。聴いていないアルバムが3枚もあった。
まとめて借りてきて朝から聴いた。

結局「おさるのジョージ」の直後にリリースされたアルバム「スリープ・スルー・ザ・スタティック」が一番良かった。
サウンドがいい。

ピアノとエレクトリック・ギターというのはどうしてこんなに相性がいいのか。
思えば一枚目もこういうサウンドだ。
二枚目からオーガニックなサウンド志向が強まっていったが、アコースティック・ギターはバンドサウンドの中に入るとどうしてもパーカッシブな役割に染まっていく。
ところがジャック・ジョンソンのサウンドの魅力はちょっとルーズなリズムにあるわけで、アコギだとタイトになりすぎる。

「スリープ・スルー・ザ・スタティック」は買うしかないと思って調べると、アナログも出てる。さっそく発注をかけよう。久しぶりのレコードだ。

2014年3月9日日曜日

絶望の果ての「期待」:米澤穂信「クドリャフカの順番」

琴線に触れる、という言葉を聞いてすぐに頭に浮かぶのは米澤穂信の「クドリャフカの順番」という小説だ。

張り詰めた琴の弦には、軽く触れただけで美しい音が出る。
僕たちはそれぞれの心に、それぞれの人生が張った響きやすい場所を持っていて、何気ない言葉がその琴線に触れてしまうのである。
帯に「泣ける小説」と書いてある本をよく書店で見かけるが、心根が冷たい性分の僕は、可哀想な境遇に同情するということが、どうにも苦手で、この手の本では涙は出てこない。
そのかわり、自分の才能に絶望し、でもそれを認めたくなくて頑張ろうとする心の叫びが聴こえてくると、嗚咽を伴った涙がふいに心の深いところから湧き出してきて、抑えることができなくなる。


「クドリャフカの順番」は、「氷菓」というタイトルでアニメ化までされた彼の「古典部シリーズ」の第三作にあたる。このシリーズは発表時ライトノベルに分類され、角川スニーカー文庫に所蔵されていた。しかし続編が出る度にスケールアップして、現在は角川文庫のほうに所蔵し直された。

クドリャフカは、スプートニク2号に載せられ、宇宙に初めて飛び立ったライカ犬の名前で、地球に帰投する設計になっていなかった宇宙船に乗せられたクドリャフカの「順番」という言葉には、それ自体になにやら切なさが伴うが、この意図に関して本編内では触れられていない。

シリーズの最初から重要な要素になっている学園祭「カンヤ祭」が、本作の舞台である。
主人公折木奉太郎は、「やらなくていいことはやらない。やらなければならないことなら手短に」という信条を持つ省エネ志向の高校生だが、シリーズ二作目の「愚者のエンドロール」において、他者の「期待」にほだされるカタチで自分の才能を信じてみようとする。そしてこの試みはその「期待」が言葉通りの意味でなく、第三者の思惑に乗せられた結果であったことを知り、大きな挫折を経験する。
この挫折は折木奉太郎を一段大きく成長させており、今作「クドリャフカの順番」において、実に落ち着いた探偵振りを披露してくれる。
そしてこの成長が、親友福部里志の心を屈折させる。

平行して福部里志に思いを寄せる伊原摩耶花という漫画部の少女が、先輩との確執を通して、才能というものの残酷さを思い知るエピソードが描かれる。
そして彼女が悟った才能への嫉妬という感情が、福部の秘めた想いに気付かせる。

もう全編ただ切ない。


僕自身の話をすれば、小学生の時、買ってもらったばかりのナショナルのラジカセで聴いた西城秀樹の「ブルー・スカイ・ブルー」になんだかとても黙っていられない気分になって、家の近くの海岸まで自転車を飛ばして、大声で歌った。

そのころはただ歌っていれば幸せだったのに、大学の音楽サークルに入ってみたら、もうプロデビューしている先輩がいて、その人がふらりと新歓コンサートに立ち寄ってピアノを弾きながら歌った歌に、才能ってこういうものかと感じて、落ち込みはしなかったけど、自分のやっていることのだいたいの限界が見えてしまった気がした。

同年代の多くの部員がプロと同じような声域で歌っているのを見て、正直嫉妬した。ギターも好きでずいぶん練習したつもりだけど、速いフレーズはいつまでたっても弾けるようにならなかった。

才能への嫉妬、が僕の琴線であることはずいぶん前から気付いていた。
会社では一生懸命仕事をすれば、運不運はあるけれど、それなりに評価はしてもらえた。パートナーにも恵まれ、可愛い娘の父親にもなれた。
だから普段、その感情は僕の心の奥の深い場所に眠っているけれど、時々、こんなふうに物語の何気ない言葉に触れられて、甲高い音を立てる・
今回僕の琴線を弾いた言葉は「期待」だった。

米澤穂信がこの物語で「期待」という言葉を使うとき、いつもその背後に「絶望」のはてに絞り出した言葉なんだよ、という意味合いを忍ばせている。
そして、最後にその「絶望」を彼らは受け入れる。
僕自身がそうしたように。
だからこの本の最終ページを閉じた時、僕は、それでも生きていくことってけっこう悪くないよ、と心の中で呼びかけたんだ。