1981年に発表されたマーティ・バリンのファースト・ソロ・アルバム『Balin(邦題:恋人たち)』は、サンフランシスコ・サイケデリック・ロックの伝説が、時代の潮流であったAOR(アダルト・コンテンポラリー)へと鮮やかにシフトした歴史的名盤である。
ジェファーソン・エアプレインやジェファーソン・スターシップで鳴らした圧倒的な叙情性とエモーショナルなボーカルが、洗練されたスタジオ・ワークによって極上のポップ・ミュージックへと生まれ変わっている。
マーティ・バリンの歩みと本作における位相
マーティ・バリンは、1960年代後半のカウンター・カルチャーを牽引したジェファーソン・エアプレインの創設者であり、メイン・ボーカリストのひとりであった。彼の持ち味は、サイケデリックな爆音の中でも埋もれない、ソウルフルで哀愁を帯びたハイトーン・ボーカルと、卓越したメロディ・センスである。70年代にバンドがジェファーソン・スターシップになってからは、「Miracles」や「With Your Love」といった特大のバラード・ヒットを連発し、グループに商業的な大成功をもたらした。
しかし、常に芸術的な自由と完璧主義を求めたマーティは、スターシップの過密なスケジュールや人間関係に疲弊し、1978年にバンドを脱退する。数年の沈黙を経て、満を持してシーンに復帰した彼が、自らの名前を冠して世に放ったのが本作『Balin』である。ロックのダイナミズムから一歩引き、当時のウェストコーストを席巻していた都会的でメロウなサウンドを全面的に取り入れた本作は、彼が「稀代のラブソング・シンガー」としてのアイデンティティを完全に確立した瞬間を捉えている。
アルバム『Balin』の音楽的特徴
本作の完成度を決定づけている音楽的特徴は、主に以下の3点に集約される。
名匠ジョン・ハグによる洗練されたAORプロデュース
プロデューサーには、後に多くのポップ/ロック名盤を手がけるジョン・ハグを起用。ボストンやロサンゼルスの流麗なスタジオ・ミュージシャンを配し、歪んだロック・ギターを排した、透明感のあるシンセサイザーとシャープなリズム・セクションでサウンドを構築している。
ソウル・ミュージックへのアプローチと「静」のダイナミズム
マーティのルーツであるR&Bやソウルのフィーリングが、AORのフィルターを通して緻密にコントロールされている。声を張り上げるだけでなく、ブレスやファルセットを巧みに操る「静」の表現力が、楽曲の叙情性を何倍にも引き上げている。
Jesse Barishとの強力なソングライティング・パートナーシップ
スターシップ時代の「Count on Me」などを手がけた名ライター、ジェシー・バリッシュが本作にも深く関与している。マーティのボーカルの魅力を知り尽くした彼による、キャッチーでありながらどこか切ないメロディ・ラインが、アルバム全体のトーンを決定づけている。
主要楽曲の分析
1. 「Hearts(邦題:ハート悲しく)」
アルバムの幕開けを飾り、全米チャート8位の大ヒットを記録したマーティ・バリンの生涯の代表曲である。ジェシー・バリッシュのペンによるこの美しいバラードは、繊細なアコースティック・ギターのアルペジオと、ドラマチックに盛り上がるストリングスが完璧に融合している。愛の喪失と未練を歌うマーティのボーカルは、サビに向けてエモーションを爆発させ、聴き手の胸を締め付ける。80年代AORを代表する至高の1曲である。
日本では、稲垣潤一さんがデビューアルバムでカバーしている。日本語詞は湯川れい子先生。マーティのアルバム『Balin』も国内盤のライナーは湯川先生が書いていらっしゃる。
2. 「Atlanta Lady (Something About Your Love)」
「Hearts」に続いてシングルカットされ、スマッシュ・ヒットを記録したミディアム・テンポのナンバー。都会的な夜の情景を想起させるエレガントなピアノと、レイドバックした心地よいリズムが特徴である。南部アトランタの女性への憧憬を、マーティが包み込むような優しい歌声で表現しており、ウェストコースト・ロックの爽快感とR&Bのアーシーな感覚が見事なバランスで同居している。
3. 「Spotlight」
アルバム中盤に位置する、本作の中では比較的アッパーなロック・チューンである。ベースラインのキレとカッティング・ギターが心地よいグルーヴを生み出しており、ファンキーからハード寄りのロックが好きなリスナーの耳にも確実に留まる構造美を持つ。きらびやかな時代のステージの光と影を歌うマーティのボーカルには、かつて巨大バンドのフロントマンを張っていた男ならではの説得力が宿っている。
4. 「You Left Your Mark on Me」
瑞々しいギター・ポップの意匠をまとった、爽快感溢れるナンバー。シンセサイザーの軽快なフレーズと、弾むようなビートがアルバムに程よいアクセントを与えている。切ないメロディでありながら、ドライヴ感のあるアンサンブルによって不思議とポジティブな後味が残り、マーティのメロディ・メーカーとしての引き出しの多さを実感させる好トラックである。
総評:サイケの闘士が到達した、大人のためのポップ・ユートピア
『Balin』は、60年代のカウンター・カルチャーの荒波を生き抜いたマーティ・バリンが、80年代という新しい時代の音を完璧に味方につけて証明した、大人のためのポップ・ミュージックの理想郷である。ジェファーソン時代の過激なエッジを期待する向きには一見、商業的洗練と映るかもしれない。しかし、ここに収められた歌声に耳を傾ければ、彼が抱き続けてきた「歌」への純粋な情熱と叙情性は、何一つ失われていないどころか、より純度の高い形で結晶化していることが理解できるはずである。西海岸ロックの歴史を語る上で、決して避けては通れないマスターピースである。




















