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2019年7月19日金曜日

『天気の子』と京アニの悲劇

京都アニメーションを襲った許されざる暴虐は、これからも長く人々の記憶に残り続けるだろう。
犠牲になった方々に、心からの哀悼を捧げます。

それにしてもこの凶行が、きっと彼らもその公開を楽しみにしていたであろう、新海誠監督の新作「天気の子」の全国一斉公開の前日に行われたことを思うと被害者の無念にやるせない気持ちになる。

そんな思いで、今日映画館に向かった。


新海誠は「モノローグ」の人である。
モノローグゆえに、彼の映画は「私小説」でもある。
この映画も彼らしいモノローグで幕を開けた。

デビュー作「ほしのこえ」から「秒速5センチメートル」までの初期3作品では、概ね登場人物たちは完全な幸せを得ることはなく、その「伸ばした手の先に夢があるのに、なぜか手を伸ばしきれないもどかしい感じ」に古いファンは強い共感を持っていたと思う。

前作「君の名は。」では、その表現は一歩先に進んで、ついに主人公たちの願いを成就させるに至った。
我々オールドファンは、ある種の寂しさを感じながらも主人公たちの幸せに喝采を送ったし、だからこそまるでこの理不尽な現実世界で自分自身が幸せになれたような気がして、心から嬉しかったんだ。
そして新作もこの路線上にあって、さらにその完成度を高めているように感じた。

一部、声優に起用された女優さんへの批判が公開前に話題になったが、観てみればむしろそこは出来がいいくらいで、逆に重要な役で起用された男性俳優陣の演技に違和感があった。

「君の名は。」では、「言の葉の庭」のユキちゃん先生が登場し、最高のファンサービスを見せてくれたが、本作でもとっておきのサービスが待っている。ぜひ劇場で確かめてほしい。
アクションシーンで涙が出てくる見事な演出に感動して、心地よい疲労のようなものを心に抱えて外に出たら、予報は曇りだったのに、映画で観たような雲から実際に雨が落ちてきて、ちょっと不思議な気持ちでした。


本作では、異常気象が大きなテーマとなっているが、長いスパンでみると地球の気候は非常に大きな変動を繰り返していて、決して現在の気候が地球にとっての常態という訳ではない。
そのことはブライアン・フェイガンの『歴史を変えた気候大変動』で学んだ。

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地球温暖化が「問題」であるとする態度は、それが人類にとって害があるからで、実際には「現象」に過ぎない。だからこそ、我々はそれが問題であると騒ぎ立てるのに、工場で物を作るのをやめようとはしないで、お金でCO2の排出権を売り買いしたりするのだ。

このような問題への態度を、アニメーション作品が思い起こさせてくれる。
現代においては、もともと文学が果たしてきた役割の一部を、明らかにこの分野の作品群が担っていて、そんなことを思うとまた、京都アニメーションを襲撃した彼への怒りがこみ上げてくるのだった。

2017年6月17日土曜日

『映画 聲の形』に刻まれた音の形

TSUTAYAさんが、新作も100円という信じられないバーゲンをやってくれてたので、『聲の形』を借りてみました。

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原作は大今良時さんの少年漫画『聲の形』。
そのオリジナル版は、第80回週刊少年マガジン新人漫画賞の入選作でした。
しかし入選はしたものの、聴覚障害者へのいじめというきわどいテーマのため、入賞の副賞としての雑誌掲載は見送り。
デビュー作は、あのマルドゥック・スクランブルのコミカライズとなりました。
その後、編集者の尽力で、『聲の形』は、全日本ろうあ連盟などとの協議を重ね、リメイクしての連載の運びとなります。

それでもやはりデリケートなテーマです。
不安を拭い切れない編集部が様子を見ようと、読み切り版のリメイクを作らせ、それを先行掲載したところ、批判的な意見もあったようですが、それをはるかに上回る歓迎の声が寄せられ、長期連載となったものです。


アニメーション制作は京都アニメーションが担当し、けいおん!の山田尚子さんが監督。
開始早々、主人公らしき男の子が、大金を母親らしき女性の枕元に置き、最終日と書かれた日以降を破り取った意味深なカレンダーを持って大きな橋の欄干の上に立つという展開。


川辺で少年たちが遊ぶ花火にを見て、自殺を思いとどまるシーンのあと、少年時代に時間を巻き戻してオープニングへ。
音楽はTHE WHOの『マイ・ジェネレーション』


とくれば、カンのいい人はすぐあれか!とお思いのことでしょう。
そう。モッズ映画の大傑作『さらば青春の光』です。
旗まで持ってるしね。

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タイトルロゴにそっくりなTシャツもこっそり着せたりしてますね。


映画『さらば青春の光』では、ラストシーンで海岸からスクーターを乗り捨てさせ、青春時代の終わりを暗示させています。
このラストシーンは山田監督の手がけた『劇場版 けいおん!』にも引用されています。
大好きなんでしょうね。
そしてこのラスト、自殺を示唆してはいるものの、映像だけ観ていると結局男がどうなったのかは描かれてないんですね。



で、もう一度観ると、冒頭に、夕日の中、男がこちらに向かって歩いてくるというシーンがカットインされていることに気付くんです。


この冒頭部とラストを繋いで、死と再生の円環を示唆する表現こそは、 青春時代は終わったが、ここから本当の意味での彼の人生が始まるという暗示であり、これを引用した『聲の形』では、物語全体の構造を提示する重要なパートと言えます。
山田監督は、テレビ放送されるアニメ番組の「歌付きのオープニング」という形式を最大限効果的に利用するべく、多少の唐突感を承知の上でロック・クラシック『マイ・ジェネレーション』を投入したのでしょう。
まるでオペラの序曲のように。


そして劇伴を手がけているのは、今や日本のエレクトロニック・ミュージックを代表するアーティストの一人であるagraphこと牛尾憲輔。
電気グルーヴや石野卓球との仕事で有名ですよね、と言えば、だいたいどんな音の感じかお分かりいただけるかと思います。
この映画、このエレクトロニック・ミュージックの劇伴が決定的にイイんですよ!

メロディではなく、ノイズが織り成すテクスチャーという感じ。
補聴器を通して聴く世界の音がどんななのか、僕にはわからないけど、小さなアンプで増幅された帯域の狭い実音とノイズが混じったフィルターを通して感じられる世界を、きっと表現しているんだと思うんですね。
なにしろ耳の中に音源を直接挿れているわけだから、当然繊細なボリューム・コントロールになるわけで、劇中、少女の耳から補聴器が引き抜かれた時に血が滴り落ちるシーンと相まって、音楽が繊細で壊れやすいもののように丁寧に、慎重に配置されているという印象を受けました。

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そのような音の演出の中で、言葉では伝わりきれないそれぞれの壊れやすい心が、無意識の反応や、ふとこぼれる言葉に、どうしようもなく食い違っていく。
人間ってホントにいろいろで、本音をぶつけ合ったくらいでは分かり合えない。
それにしたってあんまりだろ、という人々の中で、食い違いの振幅は大きくなり続け、やがて振り子の糸が切れてしまう。
悲劇が起こっても明日はやってくる。
壊れたからこそ再生できるものがある。
そして『マイ・ジェネレーション』によって暗示されていたとおり、物語にも再生のときがやってくるのです。

そしてラスト、すべてのドラマが終わって流れてくるaikoさんの歌。



 
ロック・クラシックから、エレクトロニック・ミュージック。
そして鉄板のラブソングへ。
この落着点がなかったら、この危うい物語を吸い込み続けた僕らは過呼吸でどうにかなってしまったでしょう。
このまったく性質の異なる音楽を乗り継ぐことで物語を成立させた山田尚子監督のセンスは、アニメ文化というある意味閉鎖的なマーケットで磨かれてきた様式美の、ひとつの到達点といえるのではないでしょうか。
素晴らしい。

2013年10月24日木曜日

名探偵コナン「絶海の探偵(プライベート・アイ)」

少年時代から、ながいことSFを主食にして生きてきた。
二十数年前、会社の先輩がくれた「占星術殺人事件」を読んで以来、ミステリも読むようになったが、社会の巨悪を暴く、みたいなやつはやっぱり面白いと思えなくて、合理的なのに自分の目に見えていなかった真実を名探偵が暴いてすっきりする、所謂本格と呼ばれるジャンルばかり探して読んでいた。

1992年に少年マガジンで金田一少年の事件簿が始まり、横溝正史の創作した名探偵金田一耕助の孫を主人公に据え、さらに最初の事件に占星術殺人事件のトリックを援用までして、まさに本格推理小説を漫画の世界に持ち込んだ。

この試みは成功し、ライバル誌サンデーでも、これに対抗するカタチで1994年、名探偵コナンの連載が始まることとなる。
作者青山剛昌は、この作品をロングセラーにするための美点を周到に用意した。
有名非実在人物の孫というどこかで聞いたようなものではない、設定に加えられたオリジナリティーの高い一捻り。
漫画世界にふさわしい明るさ。
多少偶然性の高い要素を持ちつつもオリジナリティーのあるトリック。
そんな拘りぬいたミステリ要素を、あくまでもスパイスとしてブレない「ラブコメ」コンセプト。
読者のアンケートハガキを分析して作品コンセプトにまで介入してくるような体質を持たない雑誌に掲載されていたことも幸運だったと思う。

僕自身もミステリに飢えていたその時期に何気なくコミックスを買い始めてから、2013年現在での最新刊80巻に至るまでずっと新一と蘭の行方を追いかけてきた。
1997年から始まった劇場版アニメーションの公開も毎年続き、今年春に公開された「絶海の探偵(プライベート・アイ)」で17作目になる。

長い旅だ。
長い旅の道中にはいろいろなことが起こる。
作者青山剛昌は、コナン役の声優高山みなみと結婚し、離婚した。毛利探偵役の神谷明氏の降板というハプニングもあったが、名優小山力也が後継の大役を見事に果たしている。最近阿笠博士役の声優さん、少し声が少し出にくくなってきたようで、心配だ。


さすがに毎週のテレビアニメは観ていないが、毎年の劇場版はDVDが出ればレンタルで観る。テレビドラマを編集しただけの劇場版なんかは裸足で逃げ出すようなハイクオリティな映画魂を見せてくれる作品ばかりだ。
今年の「絶海の探偵(プライベート・アイ)」がTSUTAYAの最新作のコーナーに並んでいたので借りてきて観た。


今作は問題作である。
イージス艦を舞台に、日本に潜り込んだ「あの国」(と映画内で言っている)の工作員にからむ殺人事件を扱っている。

明らかに時事問題なのである。
いつものように実在する事件との類似は慎重に避けられてはいる。
しかし時勢が時勢だ。
あの国ってあそこだよね、と誰でも思う。

今までの劇場版にはそういう作品はなかった。
ただでさえ、探偵物の殺人事件なのだから中心的な興味の対象になりやすいところを、あくまでもラブコメのスパイスに使う、というところがこの物語の、延々と小学1年生でいつづけるコナンくんのサザエさニズムを支える要諦なのだ。

これが今回壊れているから、前半部のサスペンス部、意外な解決部ともによく出来ていて、中盤、過去最高の毛利蘭の空手アクションも投入されていて、後半これまたお約束の蘭ちゃんの危機をコナンくん(新一)が救うパートも非常に盛り上がるのに、終わってみると全体のバランスがしっくりこないのである。



今回から脚本家が変更になり、相棒とかTAKE FIVEのようなテレビドラマの脚本を書いている櫻井武晴氏になっていることもその要因の一部なのだろうか。

それにしてもゲスト出演の柴咲コウさん。その作画はまずくね?眉毛太くすればいいってもんじゃないっしょ。




はたまたこんな感想自体が古いファンのボヤキに過ぎず、老害を晒さずおとなしくしているべきなのだろうか。
そうかもしれない。
その証拠に今作は全17作中、最も興行収益が高かったのだから。

2013年8月9日金曜日

魔の山の変奏曲としての宮崎駿「風立ちぬ」

宮崎駿監督による5年ぶりの新作長編「風立ちぬ」。
僕はトーマス・マン「魔の山」の変奏曲として観た。



「風立ちぬ」では、堀越二郎の婚約者菜穂子がサナトリウムで結核治療を受ける。
「魔の山」では、主人公カストロプが、やはり結核治療のためサナトリウムで7年という長い時間を過ごす。

さて「魔の山」の要諦は、ヨーロッパの縮図とでもいえる多彩な患者たちに囲まれて、カストロプが成長していく教養小説(ビルドゥングス・ロマン)としての側面にある。

死の存在を傍らに意識しながら生きる時、その時は止まっている。
不明確で多様なはずの未来が、そこにはないからだ。
だから当時不治の病であった結核治療のためのサナトリウム(=魔の山)では、時間は止まっている。
そしてその特殊な状況が、人間という存在の儚さとそれゆえの万能を認識させ、自分という存在への執着を逃れたところから見えてくるものがあると教えてくれる。

ところで「風立ちぬ」にもカストロプ氏が登場する。(こちらはドイツ人カストルプ、ということになっているが)
「魔の山」の主人公を演じていた頃は青年であったが、中年に成長したカストロプは軽井沢のホテルで二郎に忠告している。
山を降りると「忘れてしまう」と。

ただ美しい飛行機を作りたい一心で勉強し、ついに夢をかなえて飛行機を作るも、作っているのは戦闘機で、依頼主は殺戮のための高性能を求めるばかり。
ギリギリの条件を満たすべく作った試作機はあえなく空中分解する。
そんな傷心の二郎を、確かに軽井沢の山の一時は癒してくれた。
そう「忘れてしまう」ことができたのだ。


だが、それは二郎の望む未来ではなかった。
カストロプは、魔の山からやってきて二郎を引き止めようとするが、二郎はその若さと情熱でその誘惑を振り払い山を降り、やがてゼロ戦のベースになる九式単戦を完成させる。

菜穂子も同じだ。
二郎の夢と同調して、自ら山に入り、そして山を降り、また戻っていく。
二郎は「わたしたちには時間がないのです」と言い、自らのスピードを上げ、どこまでも進んでいく。
まるで極限までスピードを上げれば、残された菜穂子との時間を永遠にできるとでも言うように。

病に未来を奪われることで得る成長よりも、自分で選びとる未来のほうが尊い。
僕もそう思う。


そのような「魔の山」の変奏の後ろ側で、宮崎は自らがずっと描き続けていた「科学への嫌悪感」と「飛行機への愛着」の、そして「遅れてきた軍国少年だった子供時代」と「戦争への嫌悪感」への折り合いについても解答を出そうとしているように思える。

長編第一作である「風の谷のナウシカ」では、機械文明が進んだ遙かな未来、人類が住めないほど汚れてしまった地球を、生命そのものを改造することで浄化しようとした人類の傲慢を描いたものだった。ナウシカは、改造され汚れてしまった生命さえも愛することで、その人類の傲慢ごと抱きとめてみせる。

続く「天空の城ラピュタ」は、過去に栄えたが「土から離れる」ことで滅ぼた文明の末裔を描く。しかし、空を飛ぶことへの純粋な憧れを男の子の夢として描き、それは「人類の夢」だから「何度でも蘇るさ」と古代文明の末裔に言わせている。そしてその力を手にした者はこうも言うのだ。
「見ろ、人がゴミのようだ」と。

ナウシカという穢れ無きヒロインに抱きとめられた人類に深く内在する矛盾を、再び二項に分離して対置して見せて、生きていくのは綺麗事じゃないんだぜ、と宮崎駿は語りかけているようだ。

この頃の宮崎駿は、どんどん進んでいろんなものを破壊していく「文明」そのものを忌避しているように見えた。
「もののけ姫」では山を切り拓いて祟り神を作り、「千と千尋の神かくし」では河を汚染して神サマの居場所を奪うものとして。

しかし文明とは本来人間の生活を豊かにするためのものだ。
それがなぜ、我々の住むこの大地を脅かすような結果をもたらすのか。
この二項対立は、宮崎本人の心のなかで戦闘機が大好きな少年の心と戦争を憎む気持ちの相反として像を結んでいる。
もっと速く飛ぶことが敵の戦闘機を撃ち落とすためになったり、もっと遠くまで飛ぶことが爆撃できる地域を広げるためになったりするのはなぜなのか、と。

「紅の豚」という作品がある。
苛烈な戦闘機乗りとしての人生で多くの仲間を喪ったボルコ=ロッソは、豚に姿を変え国のために飛ぶことから逃げ続ける。
それでも飛行機から降りることは出来ない。
「飛ばねえ豚はただの豚さ」と言い、国なんかのために死んでいった報われない仲間たちのために飛び続ける。
そして、地位と金を得る男になるぜと言って結婚を迫るアメリカ人パイロットに、マダム・ジーナは「あたしの国では、もう少し人生が複雑なの」と言う。

そう、人生は複雑なのだ。
美しく飛ぶ飛行機にため息をつきながら、その航続距離が、搭載能力が、戦争に転用された時より多くの人を殺傷するために使われてしまうという事実を、幾多の戦争を経てきた僕らはごまかして生きてはいけないのだ。

それごと受け止めて、それでも美しいものは美しい、という気持ちまで否定せずに、魔の山にも逃げ込まずに、真っ直ぐ前を向いて歩いて行こうぜ、と宮崎駿は僕らに語りかけているような気がする。
どちらかの側に立って、それは俺のせいじゃない、と相手の批判だけを繰り返すような生き方を君たちは選んじゃいけない、と言われたような気がして、観終わって映画館のシートでしばらく放心した後、心をキリリと締め直して家路を急いだ。

2012年6月22日金曜日

宮崎駿の「知の演出」と宮崎吾朗の「感性の演出」|『コクリコ坂から』にみる父子の相剋と声の魔法

『ゲド戦記』に込められた父・宮崎駿への壮絶なラブレター


宮崎吾朗監督の前作『ゲド戦記』は、世評に言われるほど悪い作品ではなかったと思う。あれは、父である駿氏への壮絶なラブレターであった。駿氏が世に問うた名作へのオマージュに溢れており、長大なル=グウィン原作の小説の中から、吾朗監督は特に「父と子の物語」を抽出して描きさえした。

しかし、だからこそなのだろうか。試写会で観た自分へのラブレターに、父は「大人になっていない」という酷評をもって応えた。両者の気持ちを思うに、勝手ながら胸が痛む想いだ。

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作品を通じて会話する、不器用な親子の距離感

その後の宮崎駿氏の作品には、この経験が色濃く反映されている。

  • 『崖の上のポニョ』

海底世界の父から逃れてはじめて自己を実現する物語

  • 『借りぐらしのアリエッティ』

尊敬するパパエッティとの借り暮らしの枠を自ら打ち破り、種族の未来を切り開く物語

作品を通じて会話する親子。なんという不器用な関係か。 前作から5年、またしても吾朗氏は「父なる存在」に振り回されるものたちの物語を描くこととなったわけだ。しかも今回は、脚本をその父自身が書いた作品の演出を行うこととなったのだから、これはもう試練というしかない。


駿脚本の進化と、映画の真のクライマックス

しかし、その駿氏の脚本こそが進化していた。
『ポニョ』や『アリエッティ』では、いわば「ステレオタイプな父性からの逃避」を描いては見せた。
時を経て描かれた『コクリコ坂から』の世界は、父性とか母性ではなく、連綿とした命の連鎖そのものがそこにあるのだ、という地平に到達している。
そしてそれは血ではなく、心で紡いでいくのだというメッセージに結実しているのだ。

風間くんは、カルチェラタンの取り壊しの是非を話し合う学生集会で、「古いものを壊していかなければ、新しい時代はこない」と主張する多数派に対し、こう叫ぶ。
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じだ。人が生きて死んでいった記憶をないがしろにすることだ。」
この台詞は、主人公たちの複雑な生い立ちと相まって、観ている我々の心に大事なことを問いかける、この映画の真のクライマックスである。善と悪、美と醜を二分法で語る未熟や、自分の中にある言葉でしか他者を斟酌することのできない人間の知性の不調法。
人とはなんと不器用な存在か。

ドキュメンタリー『ふたり』にみる、イラスト1枚の真剣勝負

吾朗氏は、再度の監督起用に反対だった駿氏を、自身で描いたコクリコ坂のイメージイラスト一枚で黙らせたほどの才能のある人だ。それでもやはり監督としてはまだ二作目。業界での経験も浅い彼は、この深みのある脚本にはずいぶん手を焼いたようで、その苦悩の様子や、その結果生まれた駿氏との真剣勝負とも言える交流が、NHKの制作したドキュメンタリー『ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争』に描かれている。
その中で、行き詰まる息子を見かねて、やはりこちらも自身で描いたイラスト一枚でスタッフのモチベーションを一気に盛り返してあげたりする。やっぱ親子なんだね。

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父の「知性の演出」に対し、子が放つ「感性の演出」という武器

しかし、この様子をテレビ放送で観たとき、吾朗氏は自分自身の本当の才能に気付いていないように思えた。 『ゲド戦記』のハイライトシーンは、と聞けば、多くの人が「テルーの唄」と答えるだろう。あれは本当に凄かった。広い映画館の空気が一瞬で変わってしまった。
僕にとって『コクリコ坂から』で最も印象的なシーンは徳丸理事長のカルチェラタン視察だが、あの大きな心のゆらぎを作り出すきっかけになったのも、カルチェラタンの住人たちの合唱による「紺色のうねりが」だ。特に冒頭4小節の女学生によるソロパートの美しさには、完全に心をもっていかれた。

宮崎吾朗監督の「声」の演出は凄いと思う。手嶌葵という奇跡の声を発掘し世に出した功績は大きく、だからこそ声の登場に関する彼の演出はいつも完璧だ。いわば「感性の演出」。 一方、父・駿氏の脚本はいつも宗教観や文学、哲学の素養を下敷きにしたもので、言ってみれば「知の演出」だったりする。
それをなぞろうとして苦労しているということなのだろうが、そんな必要はあるのだろうか。
人間の声の力、その一発でこれだけ心を動かす作品を作る力を持っているのだ。

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2012年6月21日木曜日

映画『コクリコ坂から』に隠された宮崎駿のメッセージ|「樽の中の哲人」が現代に鳴らす警鐘

芳しい「昭和」に青春を生きた我々と同世代の人たちとジブリ作品の話をしていると、「うーん、あれもいいし、これもいいね」と任意のお気に入り作品を挙げた後で、何故か声をひそめて、「でも一番好きなのは『耳をすませば』だけどね」と付け加える人が多い。
何を隠そう私もその一人だ。
2011年のジブリ作品『コクリコ坂から』(宮崎吾朗監督作品)の作品世界には、その『耳をすませば』によく似た風が吹いている。



原作からの最大の変更点「制服の自由化」から「カルチェラタンの死守」へ

『コクリコ坂から』は同名の少女漫画を原作としているが、今回脚本を担当した宮崎駿氏は、またも大幅なストーリーの改変を行っている。
最も大きな改変は、学校を舞台にした学生たちの「運動」が、原作の漫画では「制服の自由化」であるのに対して、映画では「カルチェラタンと呼ばれる部室棟の取り壊し反対」になっている点だ。
「制服の自由化」については、おそらく原作を読んだ時に駿氏は「なんでわざわざこんなものをテーマに描くんだ?」と思っただろう。
学生服は軍服に、セーラー服はその名の通り水兵服に起源がある。普通の表現者なら、話の展開上主人公たちには最後まで制服を着ていて欲しいだろうから。この自分たちの由来を暗喩する制服の存在のおかげで、彼らの複雑な親子の関係の中に真摯さのようなものを湛えさせているという意味で、この改変は成功していると思う。

学生街「カルチェラタン」と宮崎駿が憂う現代の「教養の欠如」

そして、カルチェラタンだ。
カルチェ・ラタン(Quartier latin)とはフランス語で「ラテン語を話す(=教養のある)学生の集まる地域」の意味で、ソルボンヌ大学を擁する学生街を指す。
また、学生紛争の時代に中央大学や明治大学で起きた安保への反対運動の一環で、神田周辺をバリケードで占拠しようとした試みを「神田カルチェラタン闘争」と呼ぶが、ソルボンヌ大学では1968年に学制改革を求めて学生主体の闘争が起き、実際にカルチェラタンを解放区とした。さらにその運動は後に労働者のストライキや工場占拠に波及し、フランス5月革命の引き金にさえなったのだ。
そして、おそらくここに駿氏の問題意識があるのではないか。
「教養の欠如がいろんな問題の遠因となっている」
きっと、彼はそう考えている。民衆の思考停止を憂いていて、どこか他人事なこの国にあがる閧(とき)の声を聴きたいと思っているのではないか。だから徳間、いや徳丸理事長がカルチェラタンを視察に来た際、樽に住む哲人=ディオゲネスの名前なんかを口走らせたりするのだ。

徳丸理事長のモデル・徳間康快氏と「樽の中の哲人」ディオゲネス

シニカルの語源となったキュニコス派の哲人、ディオゲネス。
ことあるごとに言葉の力で金持ちや政治家や大物哲学者(特にプラトンは目の敵だった)につっかかっていった清貧の人。清貧のあまり樽に住んでいた。アレキサンダー大王の呼び出しを無視して、興味を持って御自らディオゲネスに会いにきた大王に「望みはないか」と聞かれて、「そこに立たれると日が当たらないのでどいてくれ」と言ったというエピソードまである。
プラトンのイデア論を現実世界で役に立たない思考ゲームと切り捨て、「僕の目には”机そのもの”なんてものは見えないね」と言った。
プラトンと対立したことから教養を嫌悪していたと解説されることがあるが、本質は強者に迎合しないことにあったのではないかと思う。

徳丸理事長のモデルとなった徳間書店の創業者、故・徳間康快氏は、自分の母校である逗子開成高校が八方尾根での遭難事故で被害者家族と決定的な決裂をし、経営が傾きかけた時、自ら理事長に就任した。多くの理事や職員が責任を回避しようとして徒に長引いていた事態の早期収拾に動き、その後幾多の改革を経て、地域有数の名門校へと変革させた人だ。
何かと豪快な人柄で有名な人だが、SF小説の愛好家の僕としては、康快氏がSFジャンルでのトップ企業・早川書房が折り合いの悪い小説家を締め出して冷や飯を食わせてると聞き、新しい雑誌を作って徳間書店から彼らの作品を率先して出版していたというエピソードが好きだ。あの頃は徳間文庫をよく買っていた。
こんな康快氏をモデルにした『コクリコ坂から』の徳丸理事長は、だから物わかりのいい大人などではなく、むしろ大人の事情のようなものに迎合せず、自分のやり方を貫く「樽の中の哲人」そのものなのだと思う。

涙腺決壊必至の名シーン|カルチェラタンで響く賛歌と「諸君!」の一言

そして、僕にとっての『コクリコ坂』のツボはここにあった。
徳丸理事長を迎えるカルチェラタンの面々が一通りの見学の後、タイミングを見計らって歌い出される歌。

最初の女性のソロが素晴らしい(おそらく手嶌葵さんでしょう)。たった4小節ほどの清廉な歌唱に心を持って行かれる。そして折り重なって行く声。
宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩から翻案された歌詞が、心の中の水位を徐々に上げていく。

「水平線に没するなかれ」という印象的なリフレインで歌がクライマックスを迎え、終了したその直後に発せられた徳丸理事長の「諸君!」という見事な呼応が聴こえた瞬間、僕の胸の中でなにかが、まるで振り子のように揺れて大きな音を立てた。
そして、理由もわからないまま涙腺が決壊し、嗚咽していた。チャプター12を何度繰り返して観たことだろう。そしてそのシーンを観るたびに、感動の波は何度でも僕の心に現れるのだ。

誰もが抱える「理解されたい」という願いを肯定してくれる映画

僕の心を揺らしたものは多分、「理解されたい」という願いだ。この徳丸理事長に、肩をタップされたい(叩かれたい)という思いだ。
物語の主人公たちのような複雑さなど欠片もないのに、やはりそれなりに悩み多かった両親や友人たちとの関係。そして今度は自分が親になって直面する、楽しくも悩ましい我が子との日々。
そんなものを飲み込んで繰り返し続いていく平凡な日々を讃えてくれる存在である「樽の中の哲人」に、僕は「それでいいんだよ」と言ってもらいたかったのだ。

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2012年6月20日水曜日

映画『借りぐらしのアリエッティ』深層考察:宮崎駿脚本に隠された「死の気配」と「秘密の花園」のオマージュ



2010年に公開されたスタジオジブリ制作、米林宏昌監督の映画『借りぐらしのアリエッティ』。本作の上映時間は94分と、他のジブリ作品(例えば『崖の上のポニョ』の101分など)と比較してもやや短めに作られている。
一見すると、小人の少女と人間の少年の交流を描いたシンプルな物語に思えるが、実はその奥には宮崎駿氏が仕掛けた重層的なテーマが隠されている。
本記事では、作中に引用された児童文学『秘密の花園』とのつながりや、作品が内包する「生と死」、そして「現代社会におけるエコロジー」へのメッセージについて考察していく。

宮崎駿脚本の特徴:生と死を繋ぐ「トンネル」

これまでに宮崎駿氏が手掛けてきた脚本の多くは、異なる二つの世界を行き来する「複線構造」を持っていた。その二つの世界は、いわば「生」と「死」の世界であり、それらは常に「トンネル」のような境界線によって繋がれてきたのである。

『風の谷のナウシカ』の腐海の底
『天空の城ラピュタ』の坑道
『となりのトトロ』の木のうろ
『千と千尋の神隠し』の廃屋
『ハウルの動く城』の洞窟
『崖の上のポニョ』のトンネル

主人公たちはこの境界線を越え、その向こう側で自身の存在意義を見つけ、成長して帰還する。観客はその不可思議なプロセスを通じて、論理を超えた深い共感を覚える仕組みになっていた。

しかし、『借りぐらしのアリエッティ』の表向きのストーリーには、目に見える形での「死の世界(あるいは異界)」が明確には提示されない。そのため、初見ではラストの少年の言葉にどこか物足りなさや、共感のしにくさを感じた。

少年・翔が読んでいた『秘密の花園』が意味するもの

この「納得のいかない感覚」を解消する鍵は、作中のある小道具に隠されている。それが、心臓の大きな手術を控えた少年・翔が病床で読んでいるバーネットの児童文学『秘密の花園』である。

秘密の花園
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これこそが、宮崎駿氏が本作に忍ばせた「死のにおい」の正体ではなかったか。

『秘密の花園』のあらすじと本作への影響 

親の愛情をほとんど知らずに育ち、病床にある少年・コリンは、いつも「僕は死ぬんだ。放っておいてくれ」と絶望している。しかし、主人公・メアリーの力で見捨てられていた花園が再生していくのと歩調を合わせるように、コリンもまた生きる力を取り戻していく。

『借りぐらしのアリエッティ』の翔もまた、大手術を前にしながらも、母親は海外に仕事で行ったきり戻ってこないという孤独な環境に置かれている。死の影に怯えながらも、周囲に対して「いい子」を演じてしまう抑圧された少年だ。
そんな彼が、母親が幼少期に見たという「小人」の伝承が残る古い実家で、実際に小人(アリエッティ)の影を見つける。この出会いこそが、彼にとっての『秘密の花園』の再生であり、「生」との繋がりを取り戻すきっかけとなるのである。

少年の心の中で「生」と「死」のドラマが裏側で繋がっていたからこそ、物語の終盤における彼の台詞には重みが生まれる。
一見すると分かりにくい構成だが、外部の作品世界(秘密の花園)を巧みに引用することで、観客の心象風景を一瞬で変えてみせる脚本の深さは実に秀逸だと思う。

「借りぐらし」という言葉に込められた現代エコロジーへの風刺

本作のもう一つの大きなテーマは、表側のメッセージでもある人類の「借りぐらし」についてである。
作中の小人たちは、人間の家に寄生し、人間の物資をほんの少量ずつ「借り」ながら暮らしている。この「借りる」という行為は、かつて日本社会にもあった「お隣にお醤油や砂糖を借りる」ような、返却を前提としない互助的な借用である。
そしてこれは、「我々人類と大自然との関係」の暗喩(メタファー)に他ならない。

エコロジー(Ecology)の語源から見る人間と自然の断絶

「エコロジー」という言葉は、ギリシャ語で「家」を意味する「オイコス」を語源としている。

  • オイコノミー(Economyの語源)

 家業(古代ギリシャの最小経済単位)を上手くいかせるための技術的方法論。

  • オイコロジー(Ecologyの語源)

 都市国家の中で、多くの家業が共存共栄していくための社会的方法論。

本来のエコロジーは、多種多様な生物が自然界で精緻なバランスを保ちながら共存共栄するシステムを指していた。しかし、人間社会が進化し、企業体が経済の中心となるにつれ、人間は自らの存在を自然界から孤立させてしまった。

「借り」から「簒奪(さんだつ)」へ

映画『愛と哀しみの果て』の中で、アフリカの少数民族の族長が残した「水は誰のものでもない」という言葉の通り、かつての人類の祖先は、自覚と自制を持って自然の恵みを「借りて」生きていた。

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しかし、現代の人間が自然に対して行っていることは、返却におよばない「借り」の限度を超え、もはや「簒奪(奪い取り)」の領域に達しているのではないだろうか。

本作で最も印象的な、アリエッティと父親のポッドが行う「借り」のシーン。
命がけの冒険をあえて「狩り」ではなく「借り」と呼ぶその名称自体に、自然から搾取し続ける人類への自嘲と、忘れてはならない自制の感情が表現されているのではないか。

まとめ:観るたびに深みが増す『借りぐらしのアリエッティ』

『借りぐらしのアリエッティ』は、一見すると94分のコンパクトなファンタジー映画である。しかし、その背景には以下の二重の構造が仕込まれている。

  • 内面的テーマ

『秘密の花園』を媒介とした、孤独な少年の「生と死」の葛藤と救済

  • 社会的テーマ

自然の恵みを「借りて」生きる人間の傲慢さと、あるべきエコロジーの姿

初見での分かりやすさだけではなく、観るたびに新しい発見と深みをもたらす仕掛けが施された、宮崎駿脚本の真髄が詰まった名作だと思う。

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