芳しい「昭和」に青春を生きた我々と同世代の人たちとジブリ作品の話をしていると、「うーん、あれもいいし、これもいいね」と任意のお気に入り作品を挙げた後で、何故か声をひそめて、「でも一番好きなのは『耳をすませば』だけどね」と付け加える人が多い。
何を隠そう私もその一人だ。
2011年のジブリ作品『コクリコ坂から』(宮崎吾朗監督作品)の作品世界には、その『耳をすませば』によく似た風が吹いている。
原作からの最大の変更点「制服の自由化」から「カルチェラタンの死守」へ
『コクリコ坂から』は同名の少女漫画を原作としているが、今回脚本を担当した宮崎駿氏は、またも大幅なストーリーの改変を行っている。
最も大きな改変は、学校を舞台にした学生たちの「運動」が、原作の漫画では「制服の自由化」であるのに対して、映画では「カルチェラタンと呼ばれる部室棟の取り壊し反対」になっている点だ。
「制服の自由化」については、おそらく原作を読んだ時に駿氏は「なんでわざわざこんなものをテーマに描くんだ?」と思っただろう。
学生服は軍服に、セーラー服はその名の通り水兵服に起源がある。普通の表現者なら、話の展開上主人公たちには最後まで制服を着ていて欲しいだろうから。この自分たちの由来を暗喩する制服の存在のおかげで、彼らの複雑な親子の関係の中に真摯さのようなものを湛えさせているという意味で、この改変は成功していると思う。
学生街「カルチェラタン」と宮崎駿が憂う現代の「教養の欠如」
そして、カルチェラタンだ。
カルチェ・ラタン(Quartier latin)とはフランス語で「ラテン語を話す(=教養のある)学生の集まる地域」の意味で、ソルボンヌ大学を擁する学生街を指す。
また、学生紛争の時代に中央大学や明治大学で起きた安保への反対運動の一環で、神田周辺をバリケードで占拠しようとした試みを「神田カルチェラタン闘争」と呼ぶが、ソルボンヌ大学では1968年に学制改革を求めて学生主体の闘争が起き、実際にカルチェラタンを解放区とした。さらにその運動は後に労働者のストライキや工場占拠に波及し、フランス5月革命の引き金にさえなったのだ。
そして、おそらくここに駿氏の問題意識があるのではないか。
「教養の欠如がいろんな問題の遠因となっている」
きっと、彼はそう考えている。民衆の思考停止を憂いていて、どこか他人事なこの国にあがる閧(とき)の声を聴きたいと思っているのではないか。だから徳間、いや徳丸理事長がカルチェラタンを視察に来た際、樽に住む哲人=ディオゲネスの名前なんかを口走らせたりするのだ。
徳丸理事長のモデル・徳間康快氏と「樽の中の哲人」ディオゲネス
シニカルの語源となったキュニコス派の哲人、ディオゲネス。
ことあるごとに言葉の力で金持ちや政治家や大物哲学者(特にプラトンは目の敵だった)につっかかっていった清貧の人。清貧のあまり樽に住んでいた。アレキサンダー大王の呼び出しを無視して、興味を持って御自らディオゲネスに会いにきた大王に「望みはないか」と聞かれて、「そこに立たれると日が当たらないのでどいてくれ」と言ったというエピソードまである。
プラトンのイデア論を現実世界で役に立たない思考ゲームと切り捨て、「僕の目には”机そのもの”なんてものは見えないね」と言った。
プラトンと対立したことから教養を嫌悪していたと解説されることがあるが、本質は強者に迎合しないことにあったのではないかと思う。
徳丸理事長のモデルとなった徳間書店の創業者、故・徳間康快氏は、自分の母校である逗子開成高校が八方尾根での遭難事故で被害者家族と決定的な決裂をし、経営が傾きかけた時、自ら理事長に就任した。多くの理事や職員が責任を回避しようとして徒に長引いていた事態の早期収拾に動き、その後幾多の改革を経て、地域有数の名門校へと変革させた人だ。
何かと豪快な人柄で有名な人だが、SF小説の愛好家の僕としては、康快氏がSFジャンルでのトップ企業・早川書房が折り合いの悪い小説家を締め出して冷や飯を食わせてると聞き、新しい雑誌を作って徳間書店から彼らの作品を率先して出版していたというエピソードが好きだ。あの頃は徳間文庫をよく買っていた。
こんな康快氏をモデルにした『コクリコ坂から』の徳丸理事長は、だから物わかりのいい大人などではなく、むしろ大人の事情のようなものに迎合せず、自分のやり方を貫く「樽の中の哲人」そのものなのだと思う。
涙腺決壊必至の名シーン|カルチェラタンで響く賛歌と「諸君!」の一言
そして、僕にとっての『コクリコ坂』のツボはここにあった。
徳丸理事長を迎えるカルチェラタンの面々が一通りの見学の後、タイミングを見計らって歌い出される歌。
最初の女性のソロが素晴らしい(おそらく手嶌葵さんでしょう)。たった4小節ほどの清廉な歌唱に心を持って行かれる。そして折り重なって行く声。
宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩から翻案された歌詞が、心の中の水位を徐々に上げていく。
「水平線に没するなかれ」という印象的なリフレインで歌がクライマックスを迎え、終了したその直後に発せられた徳丸理事長の「諸君!」という見事な呼応が聴こえた瞬間、僕の胸の中でなにかが、まるで振り子のように揺れて大きな音を立てた。
そして、理由もわからないまま涙腺が決壊し、嗚咽していた。チャプター12を何度繰り返して観たことだろう。そしてそのシーンを観るたびに、感動の波は何度でも僕の心に現れるのだ。
誰もが抱える「理解されたい」という願いを肯定してくれる映画
僕の心を揺らしたものは多分、「理解されたい」という願いだ。この徳丸理事長に、肩をタップされたい(叩かれたい)という思いだ。
物語の主人公たちのような複雑さなど欠片もないのに、やはりそれなりに悩み多かった両親や友人たちとの関係。そして今度は自分が親になって直面する、楽しくも悩ましい我が子との日々。
そんなものを飲み込んで繰り返し続いていく平凡な日々を讃えてくれる存在である「樽の中の哲人」に、僕は「それでいいんだよ」と言ってもらいたかったのだ。

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