友人に勧められて、中公新書「地方消滅」という地方に住む者にとって穏やかでないタイトルの本を読んでみた。友人が勧めてくれたのは、第5章をまるまる割いて北海道の地域戦略を取り上げているからだった。
この章は「北海道総合研究調査会」理事長の五十嵐氏によって書かれている。地元の事情をよく反映した丁寧な論説と思う。
増田 寛也
中央公論新社
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僕は生まれこそ帯広だが、幼少期から高校卒業までを釧路で過ごし、人に出身地を訊かれれば釧路と答える。
長く住んだのは、太平洋炭鉱の鉱夫たちが住む街で小学校の同級生の多くが炭鉱の子だった。昭和40年代の終わりから50年代にかけて炭鉱はすでに撤退戦の最中で、すでに人の住まなくなった家が廃墟化していて僕ら子どもたちの格好の遊び場になっていた。
小学校を卒業する頃、領海法の改正と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、それまで北方の漁業基地として栄えたもうひとつの産業が僕らの街から失われた。「ニヒャッカイリ」という言葉の響きは釧路の人間にとっては、為す術もなく見守るしかない自然の暴威によく似た感慨をもたらすものだ。
遠洋漁業は実入りの良い商売で、長い航海から帰ってきて大金を稼いだ漁師さんたちが短い陸(おか)での時間でこれを景気良く使っていく。釧路の街全体がそのカネで潤っていた。
これに替わる産業を新たに作っていくのは容易なことではない。
先日20年ぶりに訪れた街には百貨店もなく、駅前通りは閑散としていた。
北海道に住んでいて、経済に関心のある人なら十勝の農業が成功しているのは誰でも知っているだろう。単位面積当たりの収益性が高い大規模農業で、高い収益を得ている農家が多い。
あの頃の釧路と同じ。
TPPのような第二の「ニヒャッカイリ」になりそうなものを警戒する気持ちがよくわかる。
グローバリズムが地方を壊す典型を、政治はいつまでたっても学ばない。
「こうすれば避けられる」という一枚の処方箋など、それが個々の生業の集合体である故に、街に効くクスリにはなりえないのだ。
官僚から知事に転じ、総務大臣まで務めた著者が処方箋としてしめす中核地方都市の「ダム機能」も、文字通りの「絵に描いた餅」になってしまっている。
日本創生会議が調べたデータが要領よくまとまっている本書を買う価値は充分あると思うので、彼らに投じられた我々の税金を少しでも取り返すためにも、「ダム機能」の詳細はぜひ本書にあたっていただきたいと思うが、そりゃそうできたらいいよね、というだけの結論は、結局のところそれに人生そのものをかける我々の「生」をあまりにも軽視している。
そしてその軽視の視線を隠すために、それを行政の責任に見えるように書いている。
すべての事業が家業であったギリシャ時代からはるか時を経て僕らはいつか、誰もが誰かに雇われている「無責任時代」を生み出した。
そんな僕らはいつも責任をどこに押し付けるかを探している。
その格好の相手である行政は、しかし僕らの人生に何かの保証を与えてくれるものではない。
ましてや選挙の度に変わってしまう政治になど。
それはあくまでも個々の中に還流して次の一歩へのエネルギーに変換されるべきものだ。
本書でも、ダム機能をもたらす方策のひとつに「学校」を挙げている。
地方を出る大きな契機が進学であることは間違いないし、その先の就職の支援も学校が担っている以上、地方を出た人が卒業後に戻らず、その近隣地で新しいかまどを持つことはある程度まで避けられないことだ。
では、地方に魅力的な学校を作ればいい、というのは果たして処方箋になりえるか。
魅力的な制度を作れば学校が魅力的になると思っているような人には、長い年月愛される学校を作ることは絶対にできない。そんなことが「必要だから」という理由だけでできたら誰も苦労しないんだよ。
医療も同じ。
現代マーケティングの巨人フィリップ・コトラーは、簡潔で多くの業種に有用なマーケティング理論を発表したが、教育と医療にだけは「利益」をモチベーションの中心に「持ってはいけない」ためにそれまでのマーケティングは有用でないとして「非営利組織のマーケティング理論」という名著を発表している。
フィリップ コトラー アラン・R. アンドリーセン
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コトラーが、これら非営利組織のモチベーションに置くものとして挙げたのが「ビジョン」
誰か頭のいい人がカッコイイ言葉でまとめたこの国の行方のようなものではなく、個々の心にある情熱が作り出すそれぞれのビジョンこそが、人を育てたり、助けたりするために必要なものだというコトラーの言には、疑いを寄せつけないリアリティがある。
だとすれば、地方再生の第一歩はもちろんその地方が住民に愛されている、という一点に尽きる。幸い各地で、若者を中心にしたまちおこしのプロジェクトが立ち上がっている。希望はそこにこそある。
「少子化」などというこれまた個々の「生」を軽々しく総括した言葉をスタート地点においた議論はそろそろ無効になりつつあると思う。
結局女性にたくさん子どもを産んでもらうには、という無神経な話題をしたり顔で言葉をぼかしながら話し合っている様子が僕には下品に見えて仕方ないんだ。
少子化はつまるところ、ドラッカーがとうの昔に予見していた「テクノロジスト」と「パートタイムワーカー」に二極化した労働環境が実際に到来し、そうなると子どもの教育は当然高度化した職業に対応させる方向に向かうわけで、一人あたりの教育のコストは上がり、収入が右肩上がりの時代は良かったが、永遠の栄華はない故に持てる子どもの数は自然と限られてくる、という状況を説明する言葉にすぎない。
そのような状況を生まれた時から見ている子どもたちは、自分でもたくさんの子どもを持つ生活をイメージできないだろう。
それに<社会>は、人口減がもたらした社会福祉制度の歪みや税収の減少に苦しんでいるかもしれないが、<世界>はあまりにも増えすぎた人口のためにより致命的な歪みを抱えてしまっているのではないか。
僕らの生活を支えるために、大きなエネルギーが必要とされ、時には戦争の理由になり、時には僕らに恐ろしい副作用をもたらしている。
太陽が育ててくれる食糧では人間の命を支え、食欲を満たすに足りず、コムギは遺伝子を操作されて自分では子孫を作れない体にされて不自然な収量を僕らに提供してくれている。
今まで人間の手の及ばなかった場所にあるものを<資源>に換えて、次々に消費対象にしていく僕らの未来に何が待っているのか。
社会の高度化がもたらした「少子化」は社会自身が発動した自浄作用と考え、人口が減少した社会をどのように運営していくかを、対症療法としてではなく、「社会の豊かさとは何か」と読み替えて考える時期ではないか。
担い手となる若い才能はもう地方に現れている。
同様に別の若い才能は、もう軽々と国境を超えてグローバルスタイルのビジネスを展開している。彼らの活躍は政治的グローバリズムと違って、ローカルの生業を壊しはしない。
それはどちらも情熱に基づいた生業以上のものではないからだ。
ローカルとグローバルの境目がなくなりつつあるこの時代に一番邪魔な枠組みがもしかしたら絵に描いた餅しか生み出せない「国家」という仕組みなのかも知れない。