2013年6月28日金曜日

加納通子という女 - 島田荘司論考

非常に多作な作家である島田荘司氏の作品群は内容も実に多彩だが、その中に核になる大きな二つのシリーズがある。

名探偵御手洗潔シリーズと、警察官吉敷竹史シリーズだ。

変人だが天才肌の御手洗潔と凡庸な作家石岡和巳が、まるでホームズとワトソンそっくりに事件を解決していく御手洗ものは人気も高いし、それぞれの作品の完成度も高く、僕も愛着のある作品が多いシリーズだ。

吉敷竹史ものは、警察官が主人公であるので、どちらかというと着実な推理によって不可能犯罪の謎を解くという趣になっていて、コアな本格推理ファン向けかな、と思う。

その吉敷竹史シリーズの中核を担っているのは、吉敷と別れた妻、加納通子との不思議な因縁の物語である。
僕はこの一連のエピソードが島田作品のなかでもとりわけ好きで、何度も何度も読んでいる。

吉敷竹史シリーズで、通子関連の重要エピソードを含むのは、「北の夕鶴2/3殺人事件」「飛鳥のガラスの靴」「羽衣伝説の記憶」「涙流れるままに」の四作品。
御手洗シリーズの「龍臥亭事件」にも通子の性格形成に大きな影響を与えたであろう出来事が著述され、続編の「龍臥亭幻想」では加納通子本人も登場していて(吉敷竹史も出てきて不在の御手洗の代わりに謎、解いちゃってます)全体像を掴むためには必読である。


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加納通子は、盛岡の地主の娘として生まれ、小作農の子である藤倉兄弟を奴隷のように扱って少女時代を過ごした。
女王的な振る舞いがエスカレートした先に、悲劇的な事故が起こってしまう。
そのせいで、酷いトラウマを背負い込むことになり、後に大きな事件に巻き込まれていく。

そしてその傷ついた心の深層には、強く封印されたさらに忌まわしい過去が眠っていた。

自分の中に眠っていた過去を知ってしまった彼女は、愛する娘のために自分自身のルーツを辿る旅に出る。
その旅の中で彼女は自分に流れる恐ろしい凶悪な犯罪者の血脈を見てしまうのだ。


なぜ、そこまで徹底的に可哀想なのか。
どうしてこんな女性像を、島田荘司は描かなくてはならなかったのか。


通子が巻き込まれた事件も、過去に血族に起こった悲劇も、日本が変わっていく中で田舎に押し付けられた歪ではなかったか、と僕は思っている。


十九世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパを起点に世界の仕組みは大きく変わっていった。

前近代的な世界は、社会全体の生産力も高くないのに、王政の支配のもとで富の独占が行われるし、慢性的に戦争もやっている。

多くの市民は農業を営み。工業的生産は家内制手工業。
ビジネスの基本ユニットは「家業」だ。

行き過ぎた圧政さえなければ、自分の所属する社会に疑問を持つ余地はない。

しかしゆるやかに世界の人口は増え、資源を狩り尽くしていきながら、どの国もさらに多くの領土を必要とするようになり、結果戦争は激化し、資金確保のために民の負担は増えていく。
折り悪く、地球は全体が寒冷化に向かい、世界各地で飢饉が起きた。

不満は爆発し、「革命」は起きた。
社会の仕組みは王政から、民主社会へ大きく舵を取り、必然的な帰結として産業革命にたどり着き、後戻りのできない飛躍を遂げた。

王政の軛を逃れた人々は、自由を手に入れたが、代わりに責任も負った。
誰も得をしない世界では、誰かの面倒を見ることは、それ自体が社会の機能であり、誰かの「負担」ではなかった。
でも自由な世界では、どんな行動も「誰か」の責任を求める。
そこで、なんらかのロジックで社会全体でそれを負担するシステムを作るようになる。

そうして我々の複雑な社会は組み上げられていった。


明治維新で、鎖国から解放された日本は、この痛みを伴う民主化のプロセスを経過せずに、欧米に学ぶことで新しい社会システムを手に入れた。
この新しいシステムは、地縁を棄てた人たちが集まって急速に形を整えつつあった「都会」ではうまく機能した。
しかし、田舎に住む人たちにとって、皆が平等で、そのかわり皆が個人の責任で生きるのだという考え方は、根強く残る地縁のシステムとは簡単には折り合わなかったし、必要とも思えなかった。
だから、この新しい考え方を受け入れるスピードには大きな個人差があった。

地主と小作農、本家と分家といった古い身分に基づく人間関係の垣根を社会制度がどんどん取り払っていく中で、そこに出来た隙間に足を取られるようにして思いもよらない凄惨な事件が起きていたのである。

そのひとつが、加納通子のルーツと設定された「津山三十人殺し」で、これは「八つ墓村」のモデルにもなった日本犯罪史上最大の被害者を出した大量虐殺事件である。


島田荘司はこの津山三十人殺しを、御手洗シリーズの「龍臥亭事件」「龍臥亭幻想」という二部にわたる大長編で取り上げ、さらに吉敷竹史シリーズの中核にある吉敷と加納通子の問題のバックボーンにも置いた。
島田荘司の強い問題意識がそこにある。

社会に改革が起きるたびに、めざましい進歩がある傍らで、その歪が市井の人々を苦しめる。
教科書に決して書かれない、そんな人々の苦悩を、加納通子は一身に背負った。

その苦悩故に幸せになることを怖がり、拒む。
しかし心には愛がある故に証を求め、そしてそれは得られた。


やはり人間は強い。
そう思う。

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