2013年11月30日土曜日

「ネジ」の増し締めもスピーカー・セッティングの基本です

いよいよ北海道に本格的な冬が来た。
札幌の秋は雨がちで、一日一日重苦しさを増していく日々だが、ある日突然冬が来て、厳しく冷えた透明な空気と入れ替わる。

温度と湿度が同時に大きく変わる時期は体調にも注意が必要だ。
外気と体内のブリッジになる喉には大きな負担がかかっている。
喉は、歌を唄う僕にとっては何より大事な楽器なのでケアが欠かせないが、気温と湿度の大きな変化は他の楽器にも大きな影響を及ぼす。
去年はアコースティックギターのトップにひび割れが入った。


幸い板自体に問題は及ばず、膠による処理だけで済んだが。

そしてスピーカーも楽器。
当然影響が出る。
特にスピーカーユニットを固定しているネジには注意が必要だ。

スピーカーユニットはたいていの場合六角レンチでバッフル板に固定されている。
このネジは普段から振動でゆるみ続けていて、そのままにしておくと元気のないフォーカスの甘い音になる。
それが、この気温と湿度が変わる日には急激に緩みが進むのだ。

本格的な雪が降った日の夜、レンチを入れてみるとやはり全体に緩めの手応えで、特に左下のネジはゆるゆるになっていた。


さっそく増し締めるわけだが、ここで注意が必要。
ただ締め付ければいいというもんでもないんだよ。

アルミ素材で出来ている近代的なスピーカーは所有したことがないので、なんとも言えないが、一般的な木製のスピーカーでは一定の力で締めた後も強く廻せばさらに締まる。
そこまでやってしまうと音が硬くなってしまうのだ。
タイヤ交換を自分でおやりになる方はわかると思うが、素材を変形させる力を与えない範囲できちんと止める。これがコツだ。


この儀式が終われば冬のオーディオ。
真空管のやわらかな灯りが似合う冬の夜に、こころをえぐるようなオーケストラの響きは要らない。


かといってシューベルトの「冬の旅」ではちょっとベタか。
ではカントリーの優しい歌声に聴き惚れてみようか。
日本では本当に不思議なほど無名な、ライル・ラヴェットの暖かい声に身を委ねるのが、今日は良さそうだ。


2013年11月27日水曜日

ベント・エゲルブラダ・トリオの「A BOY FULL OF THOUGHTS」が本当に素晴らしい件

以前勤めていた会社の先輩から教えていただいた、ベント・エゲルブラダ・トリオの「A BOY FULL OF THOUGHTS」が本当に素晴らしい。


ベント・エゲルブラダは、日本ではほとんど無名のスウェーデンのピアニスト。
しかしやはり熱心なファンはいるもので、この盤は「子供」と呼び習わされた人気盤なのだそうだ。確かにYoutubeを覗いてみるとタイトルトラックのA BOY FULL OF THOUGHTSの動画がたくさん見つかる。


現在手にはいるこのCDは日本では無名の良質なジャズを発掘するのがうまい澤野工房から発売されている。が、いかんせん安定的に供給できるようなレーベルではなく、見逃せば入手できなくなる可能性が高い。
なるべく早く入手すべきと思う。

ほとんどがオリジナル曲で構成されており、どの曲も高いオリジナリティがありながら一人よがりにならない、名曲に特有の輝きを放っている。

まず一曲目のタイトル曲が本当に素晴らしいのだ。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番をご存知だろうか。
冒頭の重苦しいマイナー・コードがこの曲の荘厳さを決定付けているが、これとよく似た導入部をエゲルブラダはジャズに持ち込んだ。
そして稀代のメロディ・メーカー、ラフマニノフ以上にキャッチーな「ツカミ」フレーズで本編を幕開ける。
天才なんだな。

カバーは二曲で、一曲はコール・ポーターの「What is this thing called love」だ。
ビル・エヴァンズのポートレート・イン・ジャズでのバージョンがあまりにも有名だが、確かにあの演奏はお三方とも神がかっていて、あれ以上の演奏をしろという方が酷だ。
ラファロのテンションに呼応して次第に手が付けられなくなっていくエヴァンズの天翔けるピアノにはおそらく今後も誰も追いつけないだろう。
しかし少なくとも前半部ではエゲルブラダの狂気が瞬間上回る時間帯があったと思う。もしラファロがもう少しだけでも長生きしてくれて、エゲルブラダと演ってくれたらどうなっただろうと想像せずにはいられない。

もう一曲、こちらもスタンダードでマンシーニの「酒とバラの日々」
こちらもオスカー・ピーターソンの歴史的名演がある。
ゴージャスでシュアーなピーターソンの堂々たる名曲の名演に対し、エゲルブラダの「酒とバラの日々」は、酒場でリラックスした時のような演奏で、ゆるやかなテンションで、流れていったかと思うと、突然おしゃべりになったり、シャキっと立ち上がったり。
なんて饒舌なピアノなんだろう。

で、どうしてこの素晴らしい盤がこんなに無名なんだろう。


なぜメジャー・レーベルでは、このような隠れた名作を発掘できないのだろう。

近年、音楽パッケージは配信に押されて売上が苦しく、評価の定まらない新譜を出したり、それがいくらいい音楽であっても無名のアーティストの作品を出したりというリスクを負えなくなった。
だから一定の顧客層にもう「名盤」との評価のさだまった音源を何度も買わせようと、ハイスペックな素材を盤に使って音が良くなったように見せかける呆れた商法が横行している。

CDの音質は確実に良くなっているが、一部マスタリングの拙い状態でリリースされたものもあり、リマスタリングには一定の価値を認めるにやぶさかでないが、近年のリマスタは、ラウドネス・ウォーと呼ばれるように、パッと聴いて音質が良くなったように感じるようにどこまでレベルを稼げるかの競争になり、弱音のニュアンスを塗りつぶしてしまうpペッタンコな音のCDが大量発生した。
これを問題視する識者の声はメーカーに届き、今度は猫も杓子も「フラット・トランスファー」だと言い出した。ふう。

また紙ジャケなるパッケージ商品ならではの切り口で、え、また「メインストリートのならず者」出ちゃうの?しょうがないなあ、で買ってくれる人たちだけを相手に商品を供給している。

そしてそれは、自由主義経済の地に生きる我々消費者の責任だ。
良い音楽を自分の感性で選ばず、誰かが名盤だと言ったから買うという消費スタイルが横行する世で、誰が無名の天才アーティストの作品を市場に問うというのか。
しかしだからこそ音楽を商材にする者は、市場を育てることこそが成功への王道なのではないか、と僕は思うんだが、まあこんな無責任な話に耳を貸すほど業界もヒマじゃないよな。


2013年11月24日日曜日

映画「逆転裁判」:いろんなものに目を瞑るとすごく楽しい「あざとさ」のショーケース

ゲームタイトル「逆転裁判」の映画化作品。
おなじみの成歩堂を成宮寛貴が、ヒロイン真宵を桐谷美玲が演じている。
桐谷美玲が出演している時点ですでに見処は決しており、彼女は今回もその期待を違えないセンスあふれる「発声」で名演を連発していた。




しかしなんという豪華キャスト。
ジャーナリスト小中大(こなか・まさる)役に抜擢されたのはなんと、シーナ&ロケッツの鮎川誠。普段から博多弁丸出しのトークがどこまでも突き抜けていてカッコいいが今回も彼はまったく演技はしていない。素のままだ。
そしてシナロケの名曲「レモンティー」にちなんで、事件発生時にはホテルでレモンティーを飲んでいたと証言。添えられた映像には鮎川自身がラフにレモンを握り潰してレモンティーを作るシーンが収録され、これだけでもお宝だ。



さらに40年無敗の検事には同じロック人脈からARBの石橋凌をキャスト。
こちらもステージアクトと全く同じ素振りで毒を撒き散らす。
なんてロックンロールな映画なんだ。



ここに純粋演技で文芸的薫りを添えるのが小日向文世だ。
登場シーンでは顔が見えないのに、ボソッと呟いただけで彼とわかる饒舌な存在感はどうだ。これが役者だ、と思う。素晴らしい。



若手では小栗旬演じる糸鋸刑事が素晴らしい。
どのみち「あざとい」のだ、こういう映画は。
演技者が映画自体に飲まれないようにするひとつの方法を小栗は示している。



そう、ここは演技者のショーケース。
三池監督のしつらえた舞台の上で、制約なく演じられるショーを愉しめば良い。
事件解決の合理性。
証拠物件の正当性。
人物描写の整合性。
そういうものにはこの際、目を瞑っておくべきだ。
ゲームの方もちょっとやってみたくなったな。


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2013年11月23日土曜日

メアリ・シェリー「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」:それは異形の愛憎の物語

あまりにも有名なフランケンシュタインが、あの頸に釘の刺さった怪物の名前ではなく、それを作ってしまった科学者の名前だと知ったのはいつのことだったろうか。
そう知った時も原作の小説を読もうとは思わなかった。

ビブリオマニアの日常を描いて、ミステリやSFジャンルの読書愛好家に大きな共感を寄せられるCOCOさんの「今日の早川さん」という漫画作品に、フランケンシュタインはSFの起点であるか、またはホラーの原型であるかについて議論をされるシーンがある。
(COCOさんのブログでも読めます)

詩人パーシー・シェリーが愛人メアリを伴ってスイスのバイロン卿の別荘を訪れた際、田舎の夜の退屈しのぎにめいめい幽霊話を書こうという話になって、パーシーとバイロンがどんな話がいいか話し合っているのを聞いていたメアリが考案したのが「フランケンシュタイン」の原型になったことから、これはホラーの原型と見るのが正しいというのがこの漫画の一応の結論だった。
ちなみにこの場に居合わせた医師ポリドリが考案したのが有名な「吸血鬼」である。
なんとも歴史的な退屈しのぎではないか。


寡作の名匠ヴィクトル・エリセ監督の名作「ミツバチのささやき」には物語をドライヴする重要な要素を劇中劇として挿入される映画「フランケンシュタイン」が担う。
僕はここで観た映像の断片を、この物語の「あらすじ」として認識していた。
マッド・サイエンティストが作り上げた怪物が、その怪力と無邪気さゆえに、自分を恐れずに友達になってくれた少女の命を奪ってしまうという悲劇の物語だと。


ところが、今回読んでみた「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」は、僕の頭の中にイメージされていたフランケンシュタインの物語とはずいぶん違うものだった。


第一、ヴィクター・フランケンシュタインはマッド・サイエンティストなんかではなく、純朴なスイスの大学生で、錬金術をバカにする尊大な大学教授へのちょっとしたイタズラ心をきっかけに始めた研究が、彼の純粋な科学的好奇心に火を付けて、心ならずも怖ろしいクリーチャーを作り上げてしまった良家の子弟であった。

産み落とされた怪物は、無邪気な子どもの心のままではなく、潜み隠れた小屋から隣の家族を観察しているうちに高度な知性を獲得していて、引き起こしている陰惨な事件は純粋に人類への復讐である。

そしてこの物語は、ヴィクターの周りにいるものすべてを死に追いやり、ヴィクター自身は追跡行の果てに消耗し亡くなってしまう。その死を知ったクリーチャーも目的を失い自死を選ぶ。
どこにも救いはない。
そしてこの悲劇の原因は、どこまでいってもヴィクター・フランケンシュタインが、自らの生み出したクリーチャーを愛せなかったことにあるのだ。


僕らが猫を可愛がったり、花の美しさを愛でたりできるのは、猫や花が僕らを殺したりしないからだ。
どんなに愛らしい生物でも、我々に致命傷を負わせる能力を持っていて、それを僕らがコントロールできないとしたら、その存在を愛することは出来ない。

その生殺与奪権の移動をメインモチーフに人類のカタストロフを描いたのが「トリフィド時代」だろう。一定の大きさにならなければ人に害を及ぼさない謎の植物トリフィドが、ある事件をきっかけに「歩き」だし、人を殺傷し始める様子は確かに想像するだに怖ろしい。

つまり人は殺せるものしか愛せない生き物なのだ。
そして人間は、文明を発展させていく中で「殺せる」対象を拡大してきた。
相手が獰猛な野生獣でも武器があれば戦える。
機械的な仕掛けで、森林も伐採できる。

その過程の中で、我々は身体的な強弱とは無関係な生殺与奪を行い得るようになってしまった。
相手が人間同士ならいつでも殺し合えるということだ。
だからいつでも愛し合えるし、憎み合える。
いつでも殺し、殺され得る相手だからこそ、命をかけて添い遂げることができる。

本来ならヴィクターは、実験によって生み出したクリーチャーの「親」ということになると思う。
しかし、やはり彼は親ではないのだ。
「愛」と「憎」のどちらにも転びうる人間の気持ちの中から愛を選びとってはじめて、その間に生命が生まれる。
そのプロセスを経ない命は、やはり異形なのである。
だからヴィクターは親になれなかった。
愛してあげることが出来なかった。

だから彼らは、何度相見えようと互いを殺すことができない。
愛することができない存在を殺すこともやはり出来ないのだ。
そのようにして、あの物語はどこにも救いのないエンディングにならざるを得なかった。

「フランケンシュタイン」とは、メアリ・シェリーの想像力が象った異形の愛憎の物語だったのである。

2013年11月20日水曜日

ビル・エヴァンズの左手

Bill Evansが好きだ。
もちろん彼の名義のピアノ・トリオもいいが、誰かのバックに回った時のEvansの凄みのある「間」が好きだ。

Miles DavisのKind of Blueというアルバムをかける時僕はいつも、フレーズのテンションが落ちてきたのを見計らって、バッキングのコードの内声部を動かしていくEvansのピアノを息を詰めて「見つめ」ている。

フルート奏者のジェレミー・スタイグとの共演盤のエヴァンスも切れている。
ただでさえ表情豊かな楽器であるフルートの後ろで、タイミングと和音の妙味で一聴わからないように静かな狂気を奏でている。

そういう名伴奏者としての彼を愛好している僕は、だからEvansが何枚か残したソロピアノの有名盤は敬遠していたところがある。
特に右手でスタンウェイ・ピアノ、左手でフェンダー・ローズ・エレクトリック・ピアノを弾いているFrom Left to Rightというアルバムは色物だと思い込んでいて聴いたことがなかった。

ところが先日飲食店業界の先輩がこれいいらしいですよ、と教えてくれたチャーリー・マリアーノのアダージョというCDを探しにタワレコに出かけた時のこと。

行ってみると件のCDはすでに廃盤だったが、せっかく来たし、ついでにそろそろ店のBGMも少し入れ替えるかと、ジャズのコーナーを歩いていると、なんか棚の目立つところに置かれた「From Left to Right」が僕を呼んでるんだなあ。

特に他に欲しいものもなかったので、こいつを家に連れて帰った。
EU盤でデジパック仕様。
無造作に貼られたシールがいい味を出している、と思う。


聴かず嫌い、本当にごめん。
名盤でした、これ。

そこここに入っている切なげなストリングス。
ころころころ、と転がるようないつものEvans節が、エレクトリック・ピアノではルルルルルル、と少し表情を変えて聴こえる。
そしてスタンウェイで奏でられる、いつもの言葉少ななバッキングが素晴らしい。
全体にセンチメンタルなムードが支配する楽曲を、時々左手のスタンウェイが狂気を帯びた和音で切り裂いていく。
ソロピアノではあっても、自身の伴奏をするときのエヴァンスの左手はやはり凄い。

アート・テイタムの左手の音をきちんと聴き分けたくてオーディオ道に堕ちた人もたくさんいると聞く。
ピアニストの左手には魔術的な何かがあるのかもしれない。


2013年11月18日月曜日

歌野晶午「密室殺人ゲーム 2.0」:それはミステリにしかない文体で書かれた物語

前作「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」に続いて、続編「密室殺人ゲーム 2.0」を読んでみる。

書かれていることは見た目通りでないのが歌野ミステリーの常である。
今回もその鉄則は生きている。

前作、非常に気になる終わり方をした密室殺人ゲーマーズ。
それが何事もなかったようにゲームの続きが始まったりして、おいおい、と思うわけだが、これだって作者の巧妙に仕掛けた罠だ。

僕は島田荘司ミステリの愛好家である。
どこまでも人間を描き込んでいく筆運びのその同じ筆で、うひゃー、と声が出そうな奇想天外で大仕掛なトリックを作品に持ち込む。
このギャップが島田作品の醍醐味だが、「密室殺人ゲーム」シリーズではそのうひゃー、が極めて自然に作品に入り込める仕掛けになっている。

だからもう思う存分、ミステリファンのお好みの密室、アリバイ、その他諸々のミステリ・ガジェットを盛り込んでくる。

ブンガク、としてではなく、ミステリというジャンルでの「文体」をどこまでも追求していこうという意志を感じる。
だから手練のミステリ読みほど面白いと思うのだろう。

僕は、と言えばこのあたりでお腹いっぱいデス。

2013年11月9日土曜日

歌野晶午「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」:この密室、成立してますか

島田荘司先生の大ファンだった僕は、「長い家の殺人」という作品を島田荘司先生に大絶賛されてデビューした歌野晶午さんという作家の名前は、だからもちろん知っていた。
その時どう思ったのか記憶がないし、他の作品を読み進めていないところを見ると、あまり感心しなかったのかもしれない。

しばらくして、「葉桜の頃に君を想うということ」というなかなか詩情あふれるタイトル(ここにも筆者の企みがこめられているのだが)の作品で日本推理作家協会賞を受賞したと聞いて、これまたなかなかセンスの良い装丁の単行本を購入して読んでみた。



筆者の企みに見事に騙されたことに気付いた時、あまりにも鮮やかに騙されたからだろうか、腹が立って腹が立って、逆にこのタイプのミステリが嫌いになってしまった。


このところ日本の本格ミステリに食指が動かなくて、島田荘司先生の旧刊を読み直す日々だった僕に、ミステリ評論を手がけている友人が、「今、日本の本格というならこれを読まなきゃ」と薦めてくれたのが歌野晶午の「密室殺人ゲーム」シリーズだった。
彼のオススメにハズレはない。今のところ。
でも、歌野晶午はなあ・・とためらいながらも、一作目の「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」を読んでみた。



これは面白い!
ネットで知り合ったミステリ・フリークスが実際に殺人を実行しそれを素材に探偵ごっこをするという趣向で、殺人者はわかっているからアリバイ崩しや密室のトリックを解くことになる。
何より動機が「推理ゲームのため」というある種の純粋性を持っているため、事件に人間性が絡んでこない。だから純粋な謎解きになる。
そのかわり、そのインモラルなゲームそのものから人間性が描かれていく。
二重三重に企みが塗り固められ、「葉桜」の時には嫌悪感しか抱けなかった歌野ミステリの特質に深く感心した。


だがひとつ。119ページの密室、僕は成立していないように思った。
これが成立していなくても物語の進行にはいささかも傷は付かないので、構わないといえば構わないのだが、どうも気になる。

この金具、あおり止めというらしいのだが、これが内側からかかっていたということが密室の構成要素の一つになっている。
「氷を使って、溶けたらかかるようにするっていう古典的トリックじゃないだろうね」「正解!」「正解かよ」みたいなやりとりなのだが、僕にはこの仕掛けはドアの内側からしか施せないし、施したらそのドアからは出ていけないと思うのだ。
誰か、この氷の古典的トリックの詳細を知っている人がいたらぜひ教えて欲しい。




(追記:幽かな、そして致命的でないネタバレ含む)

皆様から、棒の方を氷を使ってドアに斜めに固定しておく方法で可能、とのご教授を複数頂戴いたしました。
確かにそれがこの密室時限装置の基本的な考え方ですよね。
でも今回の件、「ドライアイス」使ったって書いてあるんだよなあ。
そんなふうに固定できるのかなあ、とちょっと未だ釈然としないのですが、「なんとかうまいことやった」と考えて忘れることにしました。
お騒がせして申し訳ないです。

2013年11月7日木曜日

モーツァルトのケーゲルシュタット・トリオを聴く

久しぶりのクラシックはモーツァルト。
「ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲」変ホ長調 K.498だが、ケーゲルシュタット・トリオの愛称の方が通りがいいか。
オーディオの先輩が、レコードを貸してくださってはじめて聴いた。



ケーゲルシュタットとは、ボウリングの前身になった遊戯だそうだが、このゲームに興じながら書いたのが由来という。
友人のクラリネット奏者アントン・シュタットラーらとの仲間うちで演奏するために作曲されたそうだが、なるほどモーツァルトはヴィオラも好んで弾いたそうだから、クラリネット、ヴィオラ、ピアノという変則構成になっているのか。

球技に興じながら、友人達と演奏するために書いた曲。
たしかにそうようなリラックスしたムードに満ちている。


このレコードには、クラリネット五重奏曲も併録されている。
いくつか持っているこの曲のどの録音よりもゆったりとした演奏だった。

よく聴く、ベルリン・ゾリステンの演奏が、クラリネットという比較的後期に発明された楽器の特徴である音域による音色の変化を充分に表現しようと技巧的に演奏されるのに対して、このレコードでは、あくまでもこの楽曲のメロディの美しさを抑制された表現で聴かせようとしているように思う。

フィリップス・レーベルのこの盤のクレジットにプロデューサーの名前は見えないが、前半のケーゲルシュタット・トリオという楽曲の成り立ちが持つモーツァルトのリラックスしたプライベート・ミュージックの側面を、有名曲のクラリネット五重奏曲にも敷衍してみせて、音楽の奥深さを教えてくれる良企画盤だと思う。

2013年11月5日火曜日

漫画「ミタライ 探偵御手洗潔の事件記録」:日本文学がいつの間にか失った優しさの物語

モーニング誌で連載されている「ミタライ —探偵御手洗潔の事件記録—」だが、島田荘司ファンとしては見逃すわけにはいかない。
が、毎週漫画雑誌を買うというようなライフスタイルはとうにやめているから単行本が出るまで待って読んでいる。
その第二巻がついに発売された。


第一巻ももちろん既読で、「糸ノコとジグザク」「傘を折る女」の二本立て。
もちろん長編での壮大なトリックと人間描写こそが島田ミステリの真骨頂ではある。しかし短編もいい。事件の裏側に隠れるロジックが純度の高いアクロバットになりそこがとても楽しい。
通常のモーニングKCとは異なる質感の高い装丁もうれしい。

御手洗と石岡は美形のキャラクタとして描かれ、一昔前に流行った御手洗同人風。
島田先生はこれ抵抗ないのかな、と思っていたら、ご自身であとがきを書かれていて、むしろノリノリで当時の同人ブームを懐かしんでおられた。
懐が広いのである。


今回発売の第二巻では、名作「山高帽のイカロス」と大名作「数字錠」の豪華二本立て。
事件が見方を変えると、意外な真実の姿を現す見事な本格推理の「イカロス」も素晴らしいが、何度読んでも「数字錠」は本当にいい。

犯人もトリックもまったく意外じゃない。
でも、とにかくやり切れない事件だ。
「探偵はこんな罪も裁くのか」という御手洗の悲痛な台詞が忘れられない。

でも見逃しはしないのだ。
その代わり出来るだけのことをしてやる。
その御手洗の優しさの「質」がいいと思う。
現代のミステリのみならず、日本の文学が失った「優しさ」の表現がここにある。

小説的な技法の粋を尽くして読者をだますことに汲々としたミステリは、自身が文学の一部であることを忘れたかのようだ。
そういう風潮の中でもまったく魅力を失わないこの愛すべき作品が、漫画の姿で復活し多くの人の目に触れることはそういう意味でも実に喜ばしいことだと思う。

toi8「サカサマのパテマ another side」:困った顔をしてみるのも時にはいい

toi8という漫画家さんをご存知だろうか。
といはち、と読むのだと思う。その昔「問8」と名乗っておられたこともあるそうだから。

あさのあつこさんのNo.6がアニメ化された時のキャラクター設定の絵が、今どきのすっきりした線じゃなくて、やわらかい鉛筆の質感を残したままのタッチがいいなあ、と思っていた。

鶴田謙二さんの絵を見るといつも、人の手で描き込まれた絵が放射するエネルギーのようなものをいつまでも感じていたくて、ずっと眺めてしまうが、同じようないい意味での粗さがtoi8さんの絵にはあると思う。

表紙絵などのお仕事が多い作家さんだが、ひさしぶりの漫画作品が出版されたので早速読んでみた。

「サカサマのパテマ another side」
アニメ映画「サカサマのパテマ」のスピンアウト作品だそうだ。


こういうのを「大人の絵本」っていうんじゃないのかなあ。
ひとつの場にいる二人の人間に、異なる方向からの重力が特定的に働くことは物理法則では考えられないのに、この絵で見せられるとすっと得心がいく。

それにしてもこういう「表情で読ませる」漫画が少なくなったなあ、と思う。
特にこの漫画の「困った顔」がいい。

僕は昔会社員だった頃、すごく困ったことがあって、上司に「お客様にこう言われたんですけど、どうしたらいいですか」と聞いて「困ったんだろ?なら困った顔をすればいいよ」と言われたことがある。

なんかもう目の前がぱあっと開けたような気がしたよ。
実際これは効果覿面だった。
そうりゃそうだ。
それだけが掛け値なしの真実なんだから。

その時は、状況を前に進める力がなくて困った顔をするばかりの僕に代わって、状況を決定する権利を持つお客様自身が事態を収拾してくださった。
嘘をついたり、出来ないことを約束するより百倍よかったと思う。

でも今そういうことをいう人もやる人もいなくなったんじゃないかな。
きっと世の中全体が、「成功」を目指すロジックに切り取られすぎてるんだろう。

でもさ、人間の想像力はこんなに豊かだ。
この漫画のページを1ページめくるだけで、本当の正しさって「方向」の中にはないんだよ、と簡単にわかる。
確かに実際にそうやって生きていくのは難しい。
いろんな考え方の人がいて、自分だけ自分らしくってわけにはいかないから。

そんな時の救いが、鶴田謙二さんやtoi8さんが描く「困った顔」だと僕は思う。


本当に困った時のために、この漫画を読んで困った顔の練習をしてみると、それだけで少し楽になれるような気がする。

2013年11月4日月曜日

EL34真空管について調べてみた

Cafe GIGLIOで使っているCOPLAND CTA401プリメインアンプには、EL34という真空管が使われている。

自分のメインオーディオでもMcIntoshのMC275というKT88管を挿した真空管アンプを使っているので、時々「管球王国」という専門誌を買うことがあるが、今売られている70号がEL34の特集だったので、勉強のために買ってみた。

これが、私の所有するCOPLAND CTA401に挿さっているEL34で、ロゴを見ると英国のPMコンポーネンツ傘下のゴールデン・ドラゴンのもののようだが、なにやら中国語らしきブランド表記があり、中国の工場で作られたもののようだ。


記事によると、このEL34という管は、戦後アメリカの真空管産業が統一企画で安価な製品を世界に送り出し始め、危機感を覚えた欧州の業界がそれに対抗して作った統一規格管なのだそうだ。

後発で、しかも戦後の設計であるため無理がなく、特性がよく増幅効率も高いとある。
ヴィンテージ管としてはテレフンケンとムラードが有名で、記事の企画としてはそのヴィンテージ管と現行製品との聴き較べのようなカタチで構成されている。

記事は、この業界の常で、音楽の話と機械の話が交錯し、しかも音楽解釈の違いだけがヒートアップしていく傾向にある。
しかし、今回は珍しく安易なヴィンテージ管礼賛に陥らず、大量消費型社会に産まれた消耗品であることを指摘し、劣化した古い管を使うよりは厳選され充分にエージングした現行製品を推奨している。(何しろかつて日本コロンビアでは、録音のモニタ用に使っていたアンプのEL34真空管は数ヶ月ですべて取り替えていたそうだ)
その関係で製造工場での音の違いの分析や、メーカーの体質のようなものにまで言及していたため参考になる部分が大きかった。

個人的にはスロヴァキア工場で生産されたCロゴのスヴェトラーナ・ブランドやJJブランドのものに食指が動く。

よく、真空管なんてまだ造っているんですか、との声も聞くが、このようにAmazonとかで普通に買える。

店のCOPLAND CTA401プリメインアンプがウチに来て、もうすぐ一年になる。
前のオーナーがどのような鳴らし方をしていたのかわからないが、最近心なしか音量が上がってきたような気がする。
上り調子なのか、絶命前の一花なのか。

いずれにしても安心して長い間お付き合いが出来そうな真空管アンプなようで本当によかった。