そこでは歴史研究のために史学生(ヒストリアン)が、時間を遡って「現場」を観察する。
コニー・ウィリス
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ウィリスの考案したタイムトラベルは一風変わっていて、何も持ち帰れないし、歴史が変わるようなことは出来ないようになっている。
なんかすると歴史が変わってしまうような場所には、そもそも行けないようになっているのだ。
だから時間テーマのSFの基本的なディレンマである「タイムパラドクス」はここでは物語を進めるエンジンになってくれない。
その代わり、タイムパラドクスを未然に防ぐために時間そのものがタイムトラベル装置に干渉して生じさせる「ズレ」と、予め知っているはずの歴史が、しかしやはりそれは文字だけの情報であって、現地に立ってみると意外なほど実態が違い、うまく物事が運ばないという案件が生じて、物語を面白く進めてくれる。
ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)というのは、イングランド王国を征服したウィリアム1世が行った検地の結果を記録した世界初の土地台帳の通称である。1085年に最初の台帳が作られた。
本来、ドゥームズデイ(Doomsday)とは、キリスト教における「最後の審判」のことで、全ての人々の行いを明らかにし罪を決定することから、12世紀ごろからこの台帳をドゥームズデイ・ブックと呼ぶようになった。つづりが変わっているのは、dome が「家」を意味するからであろう。(wikipediaより)
本作では、まさに当時の人にとっては最後の審判にも思えただろう厄災を描いていて、それを暗示したタイトルになっているのだ。
タイムトラベルを主題にした物語は、たいていの場合時空を超えた愛の哀しい定めか、のっぴきならないトラブルの原因を過去に戻ってやり直すかに類型化される。
しかし、天才コニー・ウィリスはそんなステレオタイプを許さない。
ここに描かれているのは、過去におこったことを知っているはずの、そして観察者として時代を覗き見ているだけのはずのタイムトラベラーさえもぐぐっと巻き込んで、それでもなお、簡単には左右されずに厳然と存在する「人間」という存在なのである。
だから、本当は「タイムパラドクスが起きない」のではなくて、人間という存在はそんなものに左右されるようなヤワな存在じゃないんだ、ということなのではないのか。
そして本作では、災厄の時代に送り込まれた史学生を救うはずのハーバード大学の史学科も、同時に大きなトラブルに見舞われてしまう。
命を救うために極度に進化したテクノロジーがあっても、それを運用するのが人間である以上、そこに起こる不都合は、疫病は神罰であると心底信じている中世のパンデミックのそれとほとんど変わらないことが、巧みな構成で描写されていく。
そして我々は、ひとつひとつ手を抜かず描き込まれた、近未来社会とタイムトラベルした先の中世で失われるいくつもの命を通じて、やっぱり重要なのは「人間そのもの」なのだ、と思い知るのだ。
しかし、ウィリスが描き出す「状況の動かなさ」っていうのは、僕らが明け方に見る悪夢によく似ている。ウィリスっていう作家は現代に生まれた新しい「プルースト」なんだな。
それにしてもなんと多くの命が失われる物語か。
その度に身を切られるように辛くなる。
憎まれ役の登場人物も、あまりにうまく描かれているので、こいつになんか罰が当たればいいのに、と思っていたらあっさり死んでしまった時の、あの気持ち。
なんかいつかどこかで経験したような苦い気持ちだった。
こんな重たいストーリイを軽妙でユーモラスなタッチで駆け抜けていく技量や、キャラクタ造形も凄いのだろうが、そういう文体技量云々の話を、この物語は拒絶している。
そういった表層的なものに目を奪われて大切なことを見失った、現代(現代だけがこの物語に登場しない時制なのだ)という時代の危うさこそが、この二重時制の物語の主題なのだ。
そう思う。
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