2013年6月23日日曜日

ドストエフスキー「悪霊」は予言の書であった

ドストエフスキーの「悪霊」は、1871年から翌年にかけて雑誌「ロシア報知」に連載され、1873年に単行本として出版された著者の代表作のひとつ。

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架空の世界的革命組織のロシア支部代表を名乗って秘密結社を組織したネチャーエフが、内ゲバの過程で一人の学生をスパイ容疑により殺害した、1869年のネチャーエフ事件から、この小説の構想を得たという。

過去の事件に材を採っていながらも、これは予言の書でもある。
第一部、第三章の8項でキリーロフはこう語る。

「生命は痛みであり、恐怖であり、人間は不幸だ。痛みや恐怖と引き換えの生命なんて欺瞞だ。だから人間はきっと未完成なのであり、生きていてもそうでなくてもどっちでもいい「新しい」人間が必ず現れてくるだろう」と。

そして彼は、その上で「自殺」論を展開していく。
恐怖を殺すためにのみ存在する自殺。
それが神への唯一の道だと語られる。

これはまさに伊藤計劃の「ハーモニー」の世界そのものではないか!
1872年に書かれた物語に見え隠れするSFの想像力にも、巨匠の思想を見事な未来像に定着させた伊藤計劃の才能にも改めて戦慄するほかない。


怒濤のように謎を振りまきながら進行していく物語の合間に、ドストエフスキーはまたしてもキリーロフを語り手に予言を織り込んでいく。

第二部、第一章5項で「死と永遠と時間」の関係を語るキリーロフの言葉はさながら狂人のようだが、時間の中で真実が風化していくくらいなら、死がもろともに時間も止めてくれたらいいと僕だって思う。

社会が迷走し、対立する意思が生まれ、民衆が構造的に持っている「愚かさ」が、不思議なことに必ず自らを苦しめる方向にドライブしていく。
本書は、その避けがたく深刻な要因を考察しているように僕には思えるのだ。


「悪霊」はルカの福音書に出てくる、人に取り憑く「傲慢」のことであった。
ルカの福音書内で、キリストは病人に取り憑いたこの悪霊を豚に憑依させ河で溺れさせ殺してしまう。
福音書がこのエピソードで何を伝えようとしているのか僕にはわからない。
しかし、ドストエフスキーがこの長大な物語の主題に埋め込んだ「悪霊」を祓う者はついに現れない。
だとすると、人はどうしようもなくそれに翻弄されて生きていくしかないように思う。

そうでなければ同じ聖典を戴く者たちが大まじめに殺し合う、現代という時代の不思議さを説明できないではないか。
やはり「悪霊」は予言の書であったのだ。


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