僕は世良公則さんの「燃えろいい女」を歌って優勝し、先生がポケットマネーで用意してくれた図書券500円分をもらった。
それ以来歌うことが大好きになって、街を歩いている時も大声で歌っていた。
ちっとも恥ずかしいとは思わなかった。
中学で甲斐バンドとオフコースを知って、ヤマハのフォークギターを買ってもらった。
毎日部屋でかき鳴らしては歌っていた。
高校で佐野元春を知って、自分でも歌を書きたいと思うようになった。
大学では念願の音楽サークルに入って、自分のバンドを組んで自作曲を中心に演奏をした。
結局そのバンドは、何年かのブランクやメンバーの交代もあったけれど、40歳まで続けた。
バンド活動を一番盛んにやっていた20代の終わり頃に、当時スクール業界で注目されていた「口にピンポン球を入れて歌のレッスンをする」という奇妙な学校の話を聞き、そういえばこんなに長い間歌を歌っているのにきちんと勉強したことはなかったな、と思い、興味も手伝ってこの学校の門を叩いた。
マンツーマン指導が基本のこの学校で僕についてくれた先生は、現役のセミプロで週何回かライブハウスで歌う女性シンガーだった。
ピンポン球を使うのは、歌う時の舌の特殊な使い方をマスターさせて滑舌を良くするテクニックで、このレッスンを30分もやると、クタクタになる。
その後、歌のレッスンをしようと言う。
「君、どんな曲が好き?ちょっと歌ってみて」と言われて、最初はメロディのはっきりした曲がいいと思って、ビリー・ジョエルの「オネスティ」を歌った。
なにしろピンポン球のおかげで舌がよく回る。
ああーやっぱりこれ効果あるなあ、と思いながら気持よく歌っていた。
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しかし歌が進むにつれ先生の表情はどんどん険しくなり、一番を歌い終わるのとテープを止めて、「こういう生徒が一番困るのよね」と言わんばかりの表情で、「もう一回」と言った。
何かまずかっただろうか、と頭を捻りながらまた歌い始めた。
♪If you search for tenderness〜
という歌い出しですぐにテープは止められ、
「ちょっと、貴方。本当に"優しさ"、探してる?」と聞かれた。
「私には、どうだい、オレ歌うまいだろ、って聴こえるけど」と。
どう応えていいものかわかりかねて黙っていると、貴方には、この曲がいいと思う。と言って、先生がテープを「シクラメンのかほり」に換えた。
楽譜が目の前に置かれ、
「いい?この楽譜に書かれているとおりに歌って。
ここには、まわた〜い〜ろ〜した、なんて書いてないからね。
ま・わ・た・い・ろ・し・たって書いてあるの。
正確に、音符を譜面に置いていくように歌ってちょうだい。」
と言って、先生は腕を組んで目を閉じた。
♪マワタイロシタ、しくらめんホド、スガシイ、モノハナイ
なにかの冗談のように無表情に歌うことになったその歌は、しかし自分の意に反して、滑稽でもなく、ぞんざいでもなく、小椋径さんが、自分の奥さんの佳穂里(かほり)さんに捧げた清廉な愛情にすっとアクセスさせてくれた。
歌い終わった後先生は、ちょっと驚いたような顔をして「そっちのほうがずっと歌としていい」と言った。
僕もそう思った。
歌い終わった自分がいちばん驚いていたと思う。
節を上手に回すことなんて、歌を歌うためにまったく必要なかったんだ。
音程や長さを正確に表現する土台がしっかりしてこそ、その上に自然と乗って行くのが表現なのであり、その表現するための力は、もともと自分の「心の中に」備わっているものしか使えないのだ。
それがきっと「真理」に違いないと僕はその時思ったし、こんなショック療法めいたやり方でなければ、長い間我流で歌ってきた僕には気づけなかっただろうと思った。
結局その学校には一年近く通って、ボイス・トレーニングと歌唱指導をしていただいた。
そして僕は音楽という、本来言葉で表現することができないものを、言葉で教えるということの奥深さに強い興味を抱くようになっていた。
だからギターマガジンという雑誌のインタビューで、ジュディ&マリーのギタリストTAKUYAさんが、プロデューサーの佐久間正英さんに、「結局ギターを弾くことで一番難しいのは、じゃら〜んと全弦を弾いた時、すべての弦の振幅を同じ大きさにできるか、ということなんだ。」と言われて、やってみたら本当に難しくて夢中になってそればかり練習していたら、カッティングの音がすごく良くなったんです。と書いてあって、なるほどなー、と思ったりした。
その後、全国に拠点を持つ大きな音楽系専門学校の広報をお手伝いすることになり、その時お世話になった先生に、恐れながら自分のボーカルスクールでの経験をお話して、だから音楽を教える「言葉」に興味があります、と申し上げたら、こんな話を教えてくださった。
その方ご自身が、ニューヨークのジュリアード音楽院(マイルズ・デイヴィスの後輩ってことか!)の卒業生で、そこで受けた一風変わった授業のお話。
明日は特別な授業をやるから12時5分前に教室に集合すること、と通達があったという。
その特別な時間の指定に、何が起こるのかと緊張した面持ちの学生の揃った教室に、先生も5分前に入ってきて、やにわに教室のすべての窓を開け始めた。
そして腕時計を見て、まもなく正午であることを確認すると、先生は生徒を見回し、口に手をあて、"hush!"(静かにさせる時のシーッという音)といった。
その瞬間、遠くにある教会の12時の鐘が鳴った。
近くで聞けばさぞ壮麗な響きであろう大音声が、幽かに幽かに、聴こえてきた。
そして先生は一言。
「諸君、これがピアニッシモだ」と。
下手くそながらも自分でも楽器を弾く私には、この言葉の詳しい説明を聞くまでもなく、「ピアニッシモ」のほんとうの意味がすうっと胸に沁みこんできた。
どんな楽器でも弱く弾くのが一番難しい。
ピアニッシモを弾くとき、そのままただ「弱く」弾こうとすると、当然表現の「幅」に余地がなく、ともすると投げやりに弾くようなやり方になってしまって、輪郭のぼやけた音が出たりする。
だから、小さく聴こえて欲しい音を弾くときには、どちらかというと「丁寧に」とか「優しい」といったようなニュアンスで楽器を弾くことが必要なのである。
そのことを、あらん限りの力で鳴らされた鐘を遠くで聴いた時のように楽器を鳴らせ、としたジュリアードの「言葉」は雄弁だ。
上記の僕の説明にある「丁寧」とか「優しさ」からは伝わってこない、弱音の「芯」のようなものをうまく表現していると思う。
本来、人間の心には言葉だけでは伝えられない部分があるのだと思う。
だから、それを表現するために音楽が必要とされ、こんなにも長い間特別で大切な芸術の形態として愛されてきたのだと思う。
その、言葉にならないはずの芸術を、「教える」という行為の中では、どうしても言語化する必要があって、そういう努力の中から、このような素晴らしい言葉が生まれてきたのだと思う。
吉本隆明は、生前最後の講演会「沈黙から芸術まで」の中で、なぜ文学が生まれたのか、について、こう言っている。
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路傍の花を見て「美しい」と思う気持ちを誰かに伝えたい、と思うが花の美しさを言葉にすればプリミティブな状態ではどれも「美しい」になってしまう。しかし、そこここに咲き乱れる花の美しさをそれぞれに様々で、それをどうすれば伝えられるか、どうしても伝えたいから人は工夫を凝らす。その工夫の歴史的な集積が今の文学というものを作っているのだ、と。
音楽の深遠な魔法を、人に教えられるような言葉を僕は持っていないが、せめて心から音楽を愛する者の末席を汚す者として、日々出会う音楽の素晴らしさをなんとかして言葉にしたいものだ、どうすればこの感動を伝えられるのだろうと、いつも考えていたいと思っている。
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