2014年12月7日日曜日

ウディ・アレンのロンドン三部作に心が動かなかった理由

ウディ・アレンのロンドン三部作、全作観た。
正直どの作品もピンとこない。

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ウディ・アレンの映画に描かれる恋は、それまでの「生活」という連続体を、突然分断する。いくらなんでも衝動的にすぎて、それはいつも僕の価値観からはみ出している。

確かに「恋」という心理状態そのものは化学反応である。
比喩ではない。
強く心を動かす相貌が、ドーパミンを分泌させ、テストステロン値が上がることで性的欲求を亢進する。
ドーパミンはまたノルアドレナリンを派生し、人をある種の躁状態に導く。
脳内ドーパミン濃度が高まると、セロトニンの濃度が低くなって強迫観念に囚われる。

つまりこれは人のアンコントローラブルな本能だ。
だからこそそれは人間の「恥」の根源となる。

つまり、恋そのものは生理的で反射的なものであり、それが引き起こす社会的な存在としての自分の危うさをどのように飲み込んでいくかに、自分自身の本質が現れるということだ。
映画や文学が、他者と異なっているかもしれない自分自身の本質についての理解を描きたいとする情熱なんだとすると、「恋」そのものだけはその対象になりはしないということだと思う。
ウディ・アレンの描く「恋」は、その衝動の部分だけが描かれ、翻弄もされなければ抗いもしない。

一方この三部作ではそれに加えて、殺人や犯罪をテーマとして取り扱っている。
ウディ・アレンの描く殺人者は自らの行為に過度に逡巡する。
そして捜査する警察は殺人事件だろうとなんだろうと、サラリーマンとして事件を常識的に手順として処理していく。
「恋」の場合とは逆に僕の日常的な価値観の範疇に収まってしまっている、ということだ。

「殺人」なんだよ。
殺すということは、愛するということと密接な関連がある。
なぜなら人は「殺害できる」ものしか愛することができないからだ。
自分を殺害の対象とするものを愛することが出来るだろうか、と自問すればこの言葉の意味がわかるだろう。
犬や猫が僕らを殺しうる能力を持っていたら、または綺麗な花たちが突然僕らに噛み付いてくるようなものだったら、それらを愛することはできないのである。

だから殺人に関して言えば、物理的な障害はさほど大きくない。
むしろ、自分を殺すことなどないだろうと思っていた愛する人が、ある日自分に凶刃を向けるということが倒錯であるからこそ恐怖なのであり、「人を殺していけない」という刷り込まれた道徳観を乗り越えていくほどの事情にこそ描くべき個別性がある。
それは決して、日常の価値観に収まっていてはならないものだと僕は思うのだ。

だからウディ・アレンの映画は人間を何かの器のように描いているように思えてならない。
そのような目で見ると、器としての都市、器としての家、人間関係、自動車、楽器、服装、身のこなし、仕事、それらのすべてがスタイリッシュに描かれている。
悩みさえも。

美しくパッケージされた美意識。
それがウディ・アレン映画から僕が感じるもので、それはいまのところ僕の心を動かさない題材であるように思う。残念ながら。

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