朝のレコード。
来生たかおの『オーディナリー』を聴く。
1983年リリースということは、81年の「夢の途中」82年の「シルエットロマンス」といった作家的に絶頂期の作品ということになるだろう。
しかし、この人の作風はいい意味でのマンネリズムで、ある種の「茫洋さ」とでもいったものがどの作品にも溢れていて安定感がある。
それでも来生たかおと聞いて僕が真っ先に思い出すのは井上陽水の「少年時代」で、作家としての知名度が高い来生たかおをピアニストとして起用している。
プロっぽくないピアノが欲しくて、というのは決して名誉な起用理由ではないだろうが、ポール・マッカートニーのような、という前置きがついていれば話が違ってくる。
シンガー・ソングライターのピアノ、くらいの意味だろうか。
ジャケットにも自身がピアノを弾いている様子が描かれているし、ライナーにもライブでピアノやギターを弾いている写真が多数掲載されていて、楽器演奏にも思い入れがあるように見えるが、各楽曲のクレジットには来生本人の名前はない。
商材としての自身の楽曲への矜恃と、来生本人の楽器演奏の捉え方が、井上陽水が彼に求めたものと対をなしていて、なんというか実にやはり音楽というものは 人間的なものだなあと思うのだ。
2016年7月19日火曜日
2016年7月18日月曜日
レコードクリーニング液を自作する方法<2016年版>
※当記事の内容をリファインした新記事<2026年版>をアップしています。よろしければそちらもぜひ。
<2016年版>
年に一度、地元の新聞販売店主催の古本バザーがあって、そこにけっこうな数のアナログレコードも出品されるので毎年楽しみにしている。今年は7月15日(金)に開催された。
なんと一枚100円なので手当たり次第に買うという手もあるが、僕は昔カセットテープに録って愛聴していたが、レコードは持っていなかったものを中心に買っている。
今年の獲物はこの19枚と相成りました。
一般家庭に死蔵されていたレコードは、触れば残る皮脂に黴が生えてこびりついているケースが多い。
湿式のクリーニング液が必要だ。
僕の愛用品は1液式のNinonyno。
以前2液式のレイカ・バランスウォッシャーを使っていたが、200mlで5000円弱という高価さからクリーニング回数が減ってしまうという本末転倒に疑問を感じ、500ml3000円のNinonynoに転向した。
そして今回19枚のクリーニングをするにあたって、さらにコストダウンを図るべく、自作にチャレンジすることにした。
すでに先達が充分な研究と経験を積んでおられる。
ありがたくノウハウを使わせていただこうと思う。
多くの情報の中から、なるべく経験値や感覚論に拠らない、合理の論に乗ってみる。
結局のところ湿式のレコードクリーニング液とは、
塩化ヴィニールは溶けないが、皮脂は溶ける濃度のアルコールに、水滴化を防止する界面活性剤を添加したものである。
どれも比較的簡単に手に入る。
まずベースになる精製水はコンタクトレンズの洗浄用に500ml100円ほどで売っている。
アルコールに何を使うかは考えどころだ。
最良の選択肢は純度の高い無水エタノールだが、これには酒税がかかり、わりと高価だ。
イソプロピルアルコール50%という製品を使えば酒税も回避できるし、等量で混合すれば25%という適度な濃度のアルコール液ができて、次回精製水とタイミングを合わせて購入できるため扱いもいい。価格も400円程度と手頃だ。
界面活性剤には、写真の現像の際、現像液が水滴状になって現像ムラが生じるのを防ぐドライウェルという薬剤が使える。
このアイディアを最初に思いついたのは誰なんだろう。
きっとオーディオ趣味とカメラ趣味というのは似たところがあるのだろう。両方を嗜む人が思いついたに違いない。
ヨドバシカメラで350円で入手できた。
しめて約850円で1000ml分のクリーニング液が手に入ったことになる。比較的安価なNinonynoとくらべても六分の一程度である。
さっそく精製水250ml、50%アルコール250ml、ドライウェルをヤクルトの短いストロー一本分で作ってみた。
Ninonynoの空き容器に入れて振ってみると、泡が立って軽く発熱したので、ちょっと焦るが、すぐに泡も熱も落ち着いた。
肝心の使用感だが、製品とほとんど変わらない。
黴汚れは確実に落ちるし、ドライウェルの効果で薬液が盤面に残らないため、長期的な変質も起こらないだろう。
ただしひとつ問題がある。
それはアルコールの匂いで、製品に比べるとかなりキツい。
イソプロピルアルコールの特有のものなのかもしれない。
いずれにせよアルコールに何を使うか、がこのクリーニング液作りの肝のようだ。
2016年7月15日金曜日
グレアム・グリーン『情事の終り』
新潮文庫のスタークラシックスという新訳シリーズからグレアム・グリーンの『情事の終り』を読んでみた。
あの名作映画「第三の男」の脚本を書いたグレアム・グリーンの代表作だけあって、「画が浮かぶ」筆致が見事すぎる。
そしてここでも、夫と愛人に続く第三の存在が鍵となっていますね。
サスペンス色の強い導入部から、物語は宗教的な色彩を帯びてくる。
宗教観のことから紐解けば、カラマーゾフの「大審問官」で語られる悪魔の誘惑とイエスの拒絶の構図がサラを巡る「情事」の顛末に重なる。
さらに言えば、時代背景を対ファシズム戦を戦う戦時下の英国に置いているところが、教会の全体主義的体質と個人の信仰の間に横たわる溝を暗示しているようにも感じる。
これはきっと、西欧文化を敷衍した近代社会が普遍的に持っている問題なんだな。
グレアム グリーン
新潮社 (2014-04-28)
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あの名作映画「第三の男」の脚本を書いたグレアム・グリーンの代表作だけあって、「画が浮かぶ」筆致が見事すぎる。
そしてここでも、夫と愛人に続く第三の存在が鍵となっていますね。
サスペンス色の強い導入部から、物語は宗教的な色彩を帯びてくる。
宗教観のことから紐解けば、カラマーゾフの「大審問官」で語られる悪魔の誘惑とイエスの拒絶の構図がサラを巡る「情事」の顛末に重なる。
さらに言えば、時代背景を対ファシズム戦を戦う戦時下の英国に置いているところが、教会の全体主義的体質と個人の信仰の間に横たわる溝を暗示しているようにも感じる。
これはきっと、西欧文化を敷衍した近代社会が普遍的に持っている問題なんだな。
2016年7月13日水曜日
クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』~愛国心ゆえに壊れていくその心は
クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』を観た。
原作は、主人公クリス・カイル自身が書いたイラク戦争の回顧録だが、幾つかの点で原作と映画は異なっている。
映画でのカイルは、9.11で崩れゆくビルを見て軍隊への志願を決めるが、実際には事件が起きた時、彼はすでにシールズに入隊していた。
この脚色は、映画に重要な色彩を与えている。
「愛国心」である。
愛国心ゆえに、大切な人を守りたいという想いから戦う。
しかしその行為そのものは殺人なのであり、人間の心はそういうものに耐えられるようにはできていない。
愛国心の発露の方向はそれで良かったのか。
そこにいくら疑問は湧いても、もちろん世界は楽園ではない。
だから国家観の、そして宗教間の争いは未だ絶えず、今も世界の各地で戦火が交えられ、そして人の心は少しづつ壊れていく。
市井に生きるぼくたちにできることは、せめてその戦争PTSDとの闘いを支援していくことなのだろう。
この映画『アメリカン・スナイパー』は、ベトナム戦争での『ディア・ハンター』や『地獄の黙示録』と同じように、イラク戦争によって壊れていった人間を描いた作品といえる。
公開時、アメリカでは本作を「愛国的で、戦争を支持する傑作」として、保守派とリベラルが激しい論争を繰り広げたそうだが、どのように観ればそのような主題が導かれるのか僕にはさっぱりわからないので正直多少混乱している。
そして、現時点(2016.7.13)で、クリント・イーストウッドがアメリカ大統領選挙においてトランプ候補を支持していると聞いて、さらに困惑しているところだ。
人間とは複雑な存在なのだ、ということなのだろう。
また、クリス・カイルの『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』にはいくつかの虚飾が指摘されていて、このあたりは英雄の虚飾そのものを映画表現に盛り込んだ前作『J・エドガー』と共通した要素を持っている。
『許されざる者』以降のクリント・イーストウッド監督作品に共通して見られる、どんな事象も善悪のような二分法で切り分けることはできないという価値観はこの作品でも生きていると思う。
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント (2015-12-16)
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原作は、主人公クリス・カイル自身が書いたイラク戦争の回顧録だが、幾つかの点で原作と映画は異なっている。
映画でのカイルは、9.11で崩れゆくビルを見て軍隊への志願を決めるが、実際には事件が起きた時、彼はすでにシールズに入隊していた。
クリス カイル ジム デフェリス スコット マクイーウェン
原書房
売り上げランキング: 63,334
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しかしその行為そのものは殺人なのであり、人間の心はそういうものに耐えられるようにはできていない。
愛国心の発露の方向はそれで良かったのか。
そこにいくら疑問は湧いても、もちろん世界は楽園ではない。
だから国家観の、そして宗教間の争いは未だ絶えず、今も世界の各地で戦火が交えられ、そして人の心は少しづつ壊れていく。
市井に生きるぼくたちにできることは、せめてその戦争PTSDとの闘いを支援していくことなのだろう。
この映画『アメリカン・スナイパー』は、ベトナム戦争での『ディア・ハンター』や『地獄の黙示録』と同じように、イラク戦争によって壊れていった人間を描いた作品といえる。
公開時、アメリカでは本作を「愛国的で、戦争を支持する傑作」として、保守派とリベラルが激しい論争を繰り広げたそうだが、どのように観ればそのような主題が導かれるのか僕にはさっぱりわからないので正直多少混乱している。
そして、現時点(2016.7.13)で、クリント・イーストウッドがアメリカ大統領選挙においてトランプ候補を支持していると聞いて、さらに困惑しているところだ。
人間とは複雑な存在なのだ、ということなのだろう。
また、クリス・カイルの『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』にはいくつかの虚飾が指摘されていて、このあたりは英雄の虚飾そのものを映画表現に盛り込んだ前作『J・エドガー』と共通した要素を持っている。
『許されざる者』以降のクリント・イーストウッド監督作品に共通して見られる、どんな事象も善悪のような二分法で切り分けることはできないという価値観はこの作品でも生きていると思う。
2016年7月12日火曜日
映画『イニシエーション・ラブ』~痛みに満ちた青春へのタイムトリップ
この映画は、内容だけ見れば純粋な恋愛小説であり、それでも原作も含め「ミステリー」の範疇に分類されているのは、偏(ひとえ)にラストのどんでん返しが叙述トリック的であるためだ。
そのどんでん返し自体も、煽り文句にあるほど驚愕の仕掛けではなく、むしろ全編に散りばめられた精妙な整合性をこそ楽しむ作品と言えるだろう。
突然話は変わるようで変わらないのだが、子供の頃NHKのアニメで「キャプテン・フューチャー」を観ていた人には、主人公「鈴木夕樹(ゆうき)」の名前に既視感があっただろう。主題歌の「夢の船乗り」を唄っていた歌手が「ヒデ夕樹(ゆうき)」というちょっと変わった名前だった。
苗字のヒデがカタカナなので、名前のほうの夕(ゆう)をカタカナのタと誤認して、ながいこと「ヒデタ」までが苗字で、名前は樹、一文字で「いつき」とでも読むのだろうと思っていた。
鈴木夕樹のあだ名が「たっくん」に決まっていくプロセスを観ていて、案外作者も同じような経験があるのではないか、と思ったりしたがこれはまあ、どうでもいい話である。
で、さらに蛇足だが、大野雄二作の傑作曲「夢の船乗り」は当初タケカワユキヒデの歌唱の予定で書かれたもので、レコーディングもされていたのに、制作側の都合(というのがどういうものだったのかはわからない)でヒデ夕樹に変更された。
しかしヒデ夕樹が1979年に麻薬所持で逮捕されたこともあり、大野雄二自身の抗議でタケカワユキヒデ版に再度変更されたという経緯がある。
ヒデ夕樹氏はあの「この木なんの木」の最初のバージョンを歌った人でもあって、2005年放送のCMまではヒデバージョンだったそうだから、こちらには逮捕の影響が及ばなかったようだ。
さて本題に戻ろう。
個人的にはラストのどんでん返しは肩すかし。
むしろこの映画の見どころは女優としての前田敦子の開眼にあるのではないか。
AKBにさして興味のない僕は、前田敦子がどうしてあんなに人気があるのかさっぱりわからない人間であったが、この映画で見せる「媚」の演技は実にツボだった。
映画内で多用される下から見上げる仕草がこの映画のキラーコンテンツ。
それはチーム・バチスタ「ケルベロスの肖像」で桐谷美玲が見せる「手を振る」仕草と双璧の必殺技だ。
思春期の男の子の頭のなかにだけ存在する女の子の理想像を、それらは象徴している。
その象徴さえあれば、ぼくらは何度でもあの青春の痛みに満ちた瞬間に舞い戻ることができる。
映画を見ているぼくらの頭のなかには、前田敦子ではなく、それぞれの思い出の中にある女の子の笑顔が浮かんでいるはずだ。
そう、この物語は青春へのタイムトリップのための物語だ。
映画(小説)を彩る80年代のヒット曲や黒電話は、その旅の道連れなのだ。
別に叙述トリックの整合性確認のために何度も観る気にはならないが、その素敵な青春へのタイムトリップのためになら何度でも観る価値があると思う。
そのどんでん返し自体も、煽り文句にあるほど驚愕の仕掛けではなく、むしろ全編に散りばめられた精妙な整合性をこそ楽しむ作品と言えるだろう。
突然話は変わるようで変わらないのだが、子供の頃NHKのアニメで「キャプテン・フューチャー」を観ていた人には、主人公「鈴木夕樹(ゆうき)」の名前に既視感があっただろう。主題歌の「夢の船乗り」を唄っていた歌手が「ヒデ夕樹(ゆうき)」というちょっと変わった名前だった。
苗字のヒデがカタカナなので、名前のほうの夕(ゆう)をカタカナのタと誤認して、ながいこと「ヒデタ」までが苗字で、名前は樹、一文字で「いつき」とでも読むのだろうと思っていた。
鈴木夕樹のあだ名が「たっくん」に決まっていくプロセスを観ていて、案外作者も同じような経験があるのではないか、と思ったりしたがこれはまあ、どうでもいい話である。
で、さらに蛇足だが、大野雄二作の傑作曲「夢の船乗り」は当初タケカワユキヒデの歌唱の予定で書かれたもので、レコーディングもされていたのに、制作側の都合(というのがどういうものだったのかはわからない)でヒデ夕樹に変更された。
しかしヒデ夕樹が1979年に麻薬所持で逮捕されたこともあり、大野雄二自身の抗議でタケカワユキヒデ版に再度変更されたという経緯がある。
ヒデ夕樹氏はあの「この木なんの木」の最初のバージョンを歌った人でもあって、2005年放送のCMまではヒデバージョンだったそうだから、こちらには逮捕の影響が及ばなかったようだ。
さて本題に戻ろう。
個人的にはラストのどんでん返しは肩すかし。
むしろこの映画の見どころは女優としての前田敦子の開眼にあるのではないか。
AKBにさして興味のない僕は、前田敦子がどうしてあんなに人気があるのかさっぱりわからない人間であったが、この映画で見せる「媚」の演技は実にツボだった。
映画内で多用される下から見上げる仕草がこの映画のキラーコンテンツ。
それはチーム・バチスタ「ケルベロスの肖像」で桐谷美玲が見せる「手を振る」仕草と双璧の必殺技だ。
思春期の男の子の頭のなかにだけ存在する女の子の理想像を、それらは象徴している。
その象徴さえあれば、ぼくらは何度でもあの青春の痛みに満ちた瞬間に舞い戻ることができる。
映画を見ているぼくらの頭のなかには、前田敦子ではなく、それぞれの思い出の中にある女の子の笑顔が浮かんでいるはずだ。
そう、この物語は青春へのタイムトリップのための物語だ。
映画(小説)を彩る80年代のヒット曲や黒電話は、その旅の道連れなのだ。
別に叙述トリックの整合性確認のために何度も観る気にはならないが、その素敵な青春へのタイムトリップのためになら何度でも観る価値があると思う。
2016年7月11日月曜日
クリント・イーストウッド『J・エドガー』~歪んだ司法のカタチ
クリント・イーストウッド監督の『J・エドガー』を観た。
監督としてのクリント・イーストウッドは、アメリカの過ちに意識的な監督だと思う。
アメリカは、ベトナム戦争でベトコンの変幻自在なゲリラ戦に手を焼き、同胞を攻撃させるためにラオスのモン族を雇った。
そして戦争終結後祖国にいられなくなったモン族をデトロイト湖畔のグラス・ポイントに移住させるのだが、その街を舞台にモン族への贖罪を描いた作品が「グラン・トリノ」だった。
本作でのJ・エドガー・フーヴァーは、FBIの設立に尽力し、長期にわたって長官職を務めた。
彼が頭角をあらわしたのは1930年代のギャング掃討だが、そもそもギャングとはどのようにして国を脅かすような力をつけたのか。
1910年代、ニューヨークの株への投機熱は過度にヒートアップしていた。
現在の中国やBRICsのように「世界の(いや当時は欧州の、か)工場」として機能したアメリカは、その時期どの企業の業績も大きく伸びていったからだ。
街には遊民があふれ、皮肉なことに彼らの富を作り出していた労働人口は年を追うごとに減っていった。
ニューヨーカーは世界の王となり、農村の貧困を尻目に、欲しいものは全て手に入れた。
そして1914年、欧州は大きな戦火への火蓋を切った。
アメリカも17年4月にドイツに宣戦布告、大戦に参加した。国中から男たちがいなくなり、ニューヨークにはますます労働人口が不足して、州政府はセントラルパークの北に大々的な居住施設群を用意して、南部から大量の黒人労働力を誘致した。
さらに19年、信心深い婦人たちによって、男たちが留守の間に「禁酒法」がルーズヴェルトの拒否権発動にもかかわらず、議会を通過した。
ギャングたちは密造酒製造工場を各地に造り、軒並み億万長者になった。(ギャツビーのように)彼らは、農村で食い詰めていた人たちをこの非合法の工場に吸収し、おびただしい数の犯罪者予備軍とした。
そして粗悪酒の大量摂取はおびただしい廃人を作り出した。
ギャングは豊富な資金力で一国の軍隊並みの兵器と機動力を得て、多くの警官を殺した。
そして29年、金融大恐慌が起こる。
幻想の価格は無に帰し、恐慌の業火はウォール街を発し世界中を焼きつくした。
世界の王だったニューヨーカーの多くが無一文となり、路上に放り出された。
失意と悪酒に沈んだ彼らは高層ビルの乱立で陽光を失った冷たい路上で凍死した。
そしてそこはギャングの王国となったのだ。
むろんギャングたちはならず者だが、政治がそれを作ったとも言える。
そしてフーヴァーは、政治の責任は横に措き、司法の形を悪の進化に適合させていくことでギャングたちを掃討していくのである。
この後、毒を以って毒を制すスタイルは、簡単にエスカレートして、予算確保のため政治家のスキャンダルまで収集するようになる。
ブルース・スプリングスティーンは『ゴースト・オブ・トム・ジョード』で、スタインベックが『怒りの葡萄』で喝破したアメリカの問題はまだ解決していないぜ、と歌った。
日本では自虐史観などと言われてしまうのだろうか。
クリント・イーストウッドも、アメリカの司法の形は今も歪んでいるのではないか、と問いかけているような気がする。
今もまた、アメリカでは警察権力と黒人の深刻な対立が再燃し、鎮火の緒(いとぐち)は見えない。
ワーナー・ホーム・ビデオ (2013-02-06)
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監督としてのクリント・イーストウッドは、アメリカの過ちに意識的な監督だと思う。
アメリカは、ベトナム戦争でベトコンの変幻自在なゲリラ戦に手を焼き、同胞を攻撃させるためにラオスのモン族を雇った。
そして戦争終結後祖国にいられなくなったモン族をデトロイト湖畔のグラス・ポイントに移住させるのだが、その街を舞台にモン族への贖罪を描いた作品が「グラン・トリノ」だった。
ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-04-21)
売り上げランキング: 15,727
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本作でのJ・エドガー・フーヴァーは、FBIの設立に尽力し、長期にわたって長官職を務めた。
彼が頭角をあらわしたのは1930年代のギャング掃討だが、そもそもギャングとはどのようにして国を脅かすような力をつけたのか。
1910年代、ニューヨークの株への投機熱は過度にヒートアップしていた。
現在の中国やBRICsのように「世界の(いや当時は欧州の、か)工場」として機能したアメリカは、その時期どの企業の業績も大きく伸びていったからだ。
街には遊民があふれ、皮肉なことに彼らの富を作り出していた労働人口は年を追うごとに減っていった。
ニューヨーカーは世界の王となり、農村の貧困を尻目に、欲しいものは全て手に入れた。
そして1914年、欧州は大きな戦火への火蓋を切った。
アメリカも17年4月にドイツに宣戦布告、大戦に参加した。国中から男たちがいなくなり、ニューヨークにはますます労働人口が不足して、州政府はセントラルパークの北に大々的な居住施設群を用意して、南部から大量の黒人労働力を誘致した。
さらに19年、信心深い婦人たちによって、男たちが留守の間に「禁酒法」がルーズヴェルトの拒否権発動にもかかわらず、議会を通過した。
ギャングたちは密造酒製造工場を各地に造り、軒並み億万長者になった。(ギャツビーのように)彼らは、農村で食い詰めていた人たちをこの非合法の工場に吸収し、おびただしい数の犯罪者予備軍とした。
そして粗悪酒の大量摂取はおびただしい廃人を作り出した。
ギャングは豊富な資金力で一国の軍隊並みの兵器と機動力を得て、多くの警官を殺した。
そして29年、金融大恐慌が起こる。
幻想の価格は無に帰し、恐慌の業火はウォール街を発し世界中を焼きつくした。
世界の王だったニューヨーカーの多くが無一文となり、路上に放り出された。
失意と悪酒に沈んだ彼らは高層ビルの乱立で陽光を失った冷たい路上で凍死した。
そしてそこはギャングの王国となったのだ。
むろんギャングたちはならず者だが、政治がそれを作ったとも言える。
そしてフーヴァーは、政治の責任は横に措き、司法の形を悪の進化に適合させていくことでギャングたちを掃討していくのである。
この後、毒を以って毒を制すスタイルは、簡単にエスカレートして、予算確保のため政治家のスキャンダルまで収集するようになる。
ブルース・スプリングスティーンは『ゴースト・オブ・トム・ジョード』で、スタインベックが『怒りの葡萄』で喝破したアメリカの問題はまだ解決していないぜ、と歌った。
ブルース・スプリングスティーン
Sony Music Direct (2005-08-24)
売り上げランキング: 350,118
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日本では自虐史観などと言われてしまうのだろうか。
クリント・イーストウッドも、アメリカの司法の形は今も歪んでいるのではないか、と問いかけているような気がする。
今もまた、アメリカでは警察権力と黒人の深刻な対立が再燃し、鎮火の緒(いとぐち)は見えない。
2016年7月1日金曜日
Nikkor 50mm f1.8改で、クローズアップ撮影を
知人が面白いレンズがあるから使ってみな、と言ってもってきてくれたのはNikkor 50mm f1.8単焦点レンズ。
しかしこれは見た目どおりのレンズではない。
複数のレンズで構成されたうちの一枚を抜いてある改造レンズで非常に近くのものにピントが合うようになっている。
「寄れる」レンズである。
その代償としてピントが合う範囲が非常にせまく、極端なクローズアップ撮影にしか使えない。
しかしまた、この方法でなければ撮れない画があるのもまた事実なのである。
レンズが一枚入っていないのだから、光を集める力が少し落ちるからなのだろうか、露出はプラス1にせよとの指示をもらった。
指示通りの撮り方でやってみると、クローズアップの明るい写真が撮れた。
しかし僕個人の趣味でいうと、もう少し暗くしたいのですね。
で、絞りを少し絞って撮ってみた。
やはり暗くすると難しい。
同じ条件のように思えても光の量は異なっていて、ちょっとした加減で充分な明暗が確保できなくなってしまう。
真ん中のサキソフォンのリード部は露出不足でソフトウェアの調整では追いつかなかった。
クローズアップ撮影の被写体の定番、植物だが、こちらはうまくピントが合わないものが出てしまった。なにしろ本当に一点でしかピントが合わないのに、屋外で風が吹くだけで花の位置は変わってしまう。
雨上がりに、強い日差しが降ってきた瞬間を狙って撮ったとは思えない暗い背景は、意図したものではないが、好ましい画だと思う。
ギターは被写体としては大きな物体で、この種の撮影に向かないが、パーツを撮ってみた。ヘッド部は画になるが、コントロール部はなんだかわからない。
クローズアップ撮影は被写体選びが肝だ。
何か見つけたらまたトライしてみたい。
しかしこれは見た目どおりのレンズではない。
複数のレンズで構成されたうちの一枚を抜いてある改造レンズで非常に近くのものにピントが合うようになっている。
「寄れる」レンズである。
その代償としてピントが合う範囲が非常にせまく、極端なクローズアップ撮影にしか使えない。
しかしまた、この方法でなければ撮れない画があるのもまた事実なのである。
レンズが一枚入っていないのだから、光を集める力が少し落ちるからなのだろうか、露出はプラス1にせよとの指示をもらった。
指示通りの撮り方でやってみると、クローズアップの明るい写真が撮れた。
しかし僕個人の趣味でいうと、もう少し暗くしたいのですね。
で、絞りを少し絞って撮ってみた。
やはり暗くすると難しい。
同じ条件のように思えても光の量は異なっていて、ちょっとした加減で充分な明暗が確保できなくなってしまう。
真ん中のサキソフォンのリード部は露出不足でソフトウェアの調整では追いつかなかった。
雨上がりに、強い日差しが降ってきた瞬間を狙って撮ったとは思えない暗い背景は、意図したものではないが、好ましい画だと思う。
クローズアップ撮影は被写体選びが肝だ。
何か見つけたらまたトライしてみたい。
2016年6月21日火曜日
映画『悼む人』~悼むことの倒錯を体現する薄幸の人、あるいは石田ゆり子の凄絶な美について
天童荒太の直木賞受賞作「悼む人」は、他者の死を悼む青年の旅を描く物語であった。
後に舞台化され、映画化もされた。
その映画DVDを観ました。
後に舞台化され、映画化もされた。
その映画DVDを観ました。
「悼む人」の行う、自分とは何の関わりもない人の死を悼むという行為が、その人が誰を愛し、誰に愛され、どのような行為によって感謝されていたか、ということに絞られている。
そこがこの物語のコアにある謎ですが、その理由について青年自身はうまく説明できないとしながらも、加害者への恨みのようなものを「悼み」の中に入れたくないと言っています。
死を無念と思う気持ちは、実は被害者である死者のものではなく、生者のほうにある感情だからでしょう。
死者に対する生者の振る舞いが、あくまでも生者のためのものであるという真理は、しかし生者自身には、自覚しにくいもので、その倒錯が「悼む人」をめぐる人々の戸惑いになっている。
このようなわかりにくさは、我々の意識の中に「死者はただしく祀らないと祟る」という恐怖が古い時代から引き継がれていているのに、科学万能時代の教育がそれを上書きしているため意識の前面に表出しにくいというあたりに原因があるのかもしれません。
だから、他者の死への希求に応え、愛を得るために殺すという究極の倒錯に触れた奈儀倖世(なぎ ゆきよ)だけが悼む人の真実に気付き、旅に同行することができたのでしょう。
映画では、主軸としてのその二人の旅と、死に瀕した母親の追認、世俗的な新聞記者の回心などで、悼むという行為を立体的に描いています。
はっきりとこの場面はこういう意味だと言語化しようとすると、逆に薄っぺらいものになる。
これはそういう映画だと思います。
ひとつだけはっきりと言えるのは、奈儀倖世を演じた石田ゆり子の、もう凄絶と言いたいほどの幸薄さとそれ故の美しさから目が離せない、ということでしょうか。
2016年6月19日日曜日
映画『WILD SEVEN』の見どころは深田恭子の普遍の美である
クリント・イーストウッドの映画を観ようとDVDを借りたら、予告編になぜか「ワイルド7」が入っていて、そういえば望月三起也もこの間死んだんだったな、と思い出し、観てみることにした。
漫画未読の僕は、ワイルド・セブンなんだから、きっと「荒野の七人」がモデルで、そのオリジナルにあたる黒澤監督の「七人の侍」とも共通性があるんだろうと思っていたが、似ているのは「七人」というところだけだったように思う。
それでもこの映画を観てよかったと思う。
だってここには最良の深田恭子がいるからだ。
ドロンジョ様も良かったけどね。
どうして二次元系のキャラを上書きした深田恭子はこんなに魅力的なのか。
それはきっと深田恭子の美貌が、普遍の美だからなんだろうと思う。
飛葉陸大(瑛太)に強引にバスを降ろされ、その後すぐに、遅れそうだからバイトに送って行きなさいよとバイクの後ろに乗って身を寄せる。
かわいいです。
バイト先に着くと、売上に貢献しなさい、とレストランの席につかせ、ソムリエという意外な一面を見せる。
普通夢中になるよね。
で、酔っ払った飛葉と一夜を・・
メロメロですよね。
その後、彼女の意外な過去が明らかになり・・・
ともに追われる身となる。
なんてタンデムの似合うヒトなんだ・・・
最後はワイルド7の一員になるんですね。
しかしここで、深田恭子の熱演に水を差すこのだっさい衣装。
ちょっと衣装なんとかしなさいよ。
もう峰不二子でいいじゃない。
次元大介だって、荒野の七人のブリットがモデルなんだしさ。
ワイルド7の見どころについては以上になります。
付記
以前の記事「映画「ルームメイト」:物語のミスリードと映像のミスリード 」
にもほぼ同義の分析をしておりましたので、付記しておきます。
また、峰不二子のモデルとなったマリアンヌ・フェイスフルについてはこちらの記事「映画『あの胸にもういちど』〜マリアンヌの黄色いヘッドライト」に書いております。
漫画未読の僕は、ワイルド・セブンなんだから、きっと「荒野の七人」がモデルで、そのオリジナルにあたる黒澤監督の「七人の侍」とも共通性があるんだろうと思っていたが、似ているのは「七人」というところだけだったように思う。
それでもこの映画を観てよかったと思う。
だってここには最良の深田恭子がいるからだ。
ドロンジョ様も良かったけどね。
どうして二次元系のキャラを上書きした深田恭子はこんなに魅力的なのか。
それはきっと深田恭子の美貌が、普遍の美だからなんだろうと思う。
飛葉陸大(瑛太)に強引にバスを降ろされ、その後すぐに、遅れそうだからバイトに送って行きなさいよとバイクの後ろに乗って身を寄せる。
かわいいです。
バイト先に着くと、売上に貢献しなさい、とレストランの席につかせ、ソムリエという意外な一面を見せる。
普通夢中になるよね。
で、酔っ払った飛葉と一夜を・・
メロメロですよね。
その後、彼女の意外な過去が明らかになり・・・
ともに追われる身となる。
なんてタンデムの似合うヒトなんだ・・・
最後はワイルド7の一員になるんですね。
しかしここで、深田恭子の熱演に水を差すこのだっさい衣装。
ちょっと衣装なんとかしなさいよ。
もう峰不二子でいいじゃない。
次元大介だって、荒野の七人のブリットがモデルなんだしさ。
ワイルド7の見どころについては以上になります。
付記
以前の記事「映画「ルームメイト」:物語のミスリードと映像のミスリード 」
にもほぼ同義の分析をしておりましたので、付記しておきます。
また、峰不二子のモデルとなったマリアンヌ・フェイスフルについてはこちらの記事「映画『あの胸にもういちど』〜マリアンヌの黄色いヘッドライト」に書いております。
2016年6月17日金曜日
トイラボさんの現像&データダウンロード・サーヴィスが素晴らしい
いただきもののリバーサルフィルムが数本あって、撮影したはいいが、現像の方法に迷っていた。
いつものキタムラに持っていけばやってくれるが、10日ほどかかった上に、データCDを作ってもらうためには一度全数のプリントを作る必要があるという。
総コストを考えると手軽に撮影ができない。
いろいろネットで調べてみると、現像サーヴィスがけっこうある。
そのなかの「トイラボ」さんのサーヴィスに、現像したポジをそのままスキャンして、小さいサイズのものなら無料でダウンロードできるというのを見つけた。
現像も安いし、送料も定形外料金+αで良心的だ。
さっそく申し込もうとホームページを見ると、なんとこの会社熊本の会社で先の熊本地震で小さくない被害を受けていた。
多くの機材が失われ、生活の再建もあり、現像作業に時間がかかっていると書いてあった。
これも復興支援と思い、落ち着くのを待ってフィルムを二本送ってみた。
送ったのは、札幌の西区を流れる琴似発寒川に撮影に出かけた時のもの。
月曜の朝に郵便局から送って、水曜には先方着。
木曜午前には現像が終了し、昼ごろには画像がダウンロードできるようになっていた。
充分早いと思う。
琴似発寒川の撮影には、画像比較をしてみようとコンデジLeica C-LUX 1も持っていって、何枚か同アングルで撮影したおいた。
左側にNikomatのフィルム写真、右側にLeica C-LUX 1のデジカメ画像を配置して比較してみよう。
ずいぶん色が違うものだ。
左のNikomat画像の緑は鮮やかだが、少々不自然な発色ではないか、と思い窓の外を見ると、円山の森の緑もそのような色で、これはLeicaの写り方に慣れすぎたせいなのかもしれない。
画像編集ソフトでの調整についてはまったく知識がない。
当てずっぽうに弄っても、なかなか思ったような色にはならないものだ。
修行がいるな。
三段目の写真では、一眼ならではの前ボケが写り写真の奥行きを深めている。
コンデジの小さな撮像素子からは出てこない表現だと思う。
反面Leica画像の方が、水の動きまでがはっきりわかる解像度を感じるが、これはアップしたNikomat画像が小さいサイズのスキャン画像であるせいかもしれない。
これからトイラボさんから現像されたフィルムが送られてくる。
高解像度のデジタルデータを作る必要を今は感じていないが、これからのためにいろいろ調べてみようと思っている。
いつものキタムラに持っていけばやってくれるが、10日ほどかかった上に、データCDを作ってもらうためには一度全数のプリントを作る必要があるという。
総コストを考えると手軽に撮影ができない。
いろいろネットで調べてみると、現像サーヴィスがけっこうある。
そのなかの「トイラボ」さんのサーヴィスに、現像したポジをそのままスキャンして、小さいサイズのものなら無料でダウンロードできるというのを見つけた。
現像も安いし、送料も定形外料金+αで良心的だ。
さっそく申し込もうとホームページを見ると、なんとこの会社熊本の会社で先の熊本地震で小さくない被害を受けていた。
多くの機材が失われ、生活の再建もあり、現像作業に時間がかかっていると書いてあった。
これも復興支援と思い、落ち着くのを待ってフィルムを二本送ってみた。
送ったのは、札幌の西区を流れる琴似発寒川に撮影に出かけた時のもの。
月曜の朝に郵便局から送って、水曜には先方着。
木曜午前には現像が終了し、昼ごろには画像がダウンロードできるようになっていた。
充分早いと思う。
琴似発寒川の撮影には、画像比較をしてみようとコンデジLeica C-LUX 1も持っていって、何枚か同アングルで撮影したおいた。
| Leica C-LUX 1 |
左側にNikomatのフィルム写真、右側にLeica C-LUX 1のデジカメ画像を配置して比較してみよう。
ずいぶん色が違うものだ。
左のNikomat画像の緑は鮮やかだが、少々不自然な発色ではないか、と思い窓の外を見ると、円山の森の緑もそのような色で、これはLeicaの写り方に慣れすぎたせいなのかもしれない。
画像編集ソフトでの調整についてはまったく知識がない。
当てずっぽうに弄っても、なかなか思ったような色にはならないものだ。
修行がいるな。
三段目の写真では、一眼ならではの前ボケが写り写真の奥行きを深めている。
コンデジの小さな撮像素子からは出てこない表現だと思う。
反面Leica画像の方が、水の動きまでがはっきりわかる解像度を感じるが、これはアップしたNikomat画像が小さいサイズのスキャン画像であるせいかもしれない。
これからトイラボさんから現像されたフィルムが送られてくる。
高解像度のデジタルデータを作る必要を今は感じていないが、これからのためにいろいろ調べてみようと思っている。
2016年6月5日日曜日
映画『市民ケーン』 〜 トリックスター、オーソン・ウェルズの残した偉大な遺言状
映画史上最大の傑作に挙げられることもある、オーソン・ウェルズ監督・主演の『市民ケーン』だが、映画マニアでない僕にとって、オーソン・ウェルズという名前は英語教材の吹き込みをしている過去の名優というイメージを想起させるばかりで視聴に至らなかった。
だがフィルムカメラを始めて、モノクロームの面白さに気付いてから白黒時代の映画に興味が湧いて、『第三の男』とこの『市民ケーン』をレンタルしてきた。
映画は二時間の尺を緩みなく構成して、最後まで見飽きることが無かった。
Wikipediaにこのような記述がある。
この構成のおかげで、「バラのつぼみ」とは何か、という物語的興味が生成されるのであり、必要不可欠な演出だったと思う。
しかもこの「バラのつぼみ」という言葉は、この映画がモデルにしている新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが愛妾マリオン・デイヴィスをこっそりこう呼んでいた秘密の愛称で、当時の人々の噂に頻繁にのぼった符牒なのである。
だからむしろこれは、この映画の時代性を支えるコアであるともいえるものだ。
また、このような記述もある。
この映画ではそれらのテクニックが、結末のわかっている伝記映画特有の退屈さを払拭する見飽きない起伏を作り出す効果をあげていて、むしろ過去に生み出されたテクニックを効果的に活用する教科書として機能していると僕には感じられた。
この映画は強大な影響力を持つメディア王を正面からおちょくった問題作であり、当然大きな妨害を受けたようで、映画館でも上映拒否があったようだし、大きな賞を受けることもなかった。
それでもこの映画が長い時間を超えて傑作と賞賛されていることを考えれば、これらの批判がいかに的外れであったかがわかるだろう。
しかしやはり現実にはトラブルメーカーは歓迎されないわけで、遂にはハリウッドでは映画を作れなくなったオーソン・ウェルズ。
資金作りに奔走し、三流映画に出演し、サントリーのCMにも出演したそうだ。
そのような資金作りの一環が僕の知っていた「英語の教材の吹き込み」で、それでもそれが彼の知名度の一部となり、結局僕はこの映画に辿り着いてこの文章を書かせている。
万事塞翁が馬である。
この映画がロングライフであることには、もうひとつの意味があると思う。
スキャンダラスなメディア王の実態を、ドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクションとして描いたことである。
成功のためならば手段を選ばぬことは、このような物語に仕立てられてはじめて近視眼的に見えるが、渦中にいる人間にはわからない。
幸運にも、そして不幸にもそれが出来る環境が手に入ってしまえば、それを抑えることはとても難しいだろう。
しかし、そのような教訓も、抽象化された物語が長い時間を経ると、もともとの含意が人々の記憶とすれ違っていく。
だからさんざん語り尽くされたことではあれど、ここにもウィリアム・ランドルフ・ハーストという新聞王の所業を書き残しておこうと思う。
19世紀の終わり頃、キューバの独立運動を宗主国スペインが弾圧していた。
アメリカはキューバの砂糖産業に投資していたために、スペインがこれを接収してしまうことは避けたかったし、潜在的に太平洋に隠然とした存在感を持つスペインの植民地を奪い、太平洋覇権を手に入れたいという政治的思想を持つ勢力もあった。
ハーストは、この思想に共鳴していたのだろう。情報操作によってこれを後方支援した。
1897年、ハースト系の新聞に掲載された「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という煽情的な記事で反スペイン感情は高まり、翌98年、アメリカ戦艦メイン号が撃沈された事件を契機にアメリカはスペインに宣戦布告。米西戦争となったのだ。
結果アメリカはこの戦争に勝利し、キューバの独立とともに、フィリピンやグァム、プエルトリコを得て、太平洋覇権を固めることになる。
ハーストの命を受けてキューバに赴いた画家フレデリック・レミントンは、「スペイン人の残虐行為を描いて送れ」との指令を真に受けて探し歩いたが何も見つからず、その旨を電報で知らせた。
これに対するハーストの返答は、「何でもいいから絵を用意せよ。当方は戦争を用意する」だったという。
そして言葉通り、戦争はメディアによって用意された。
他人ごとではないのである。
メディアが政権に寄り添うことの危険は、人間の知性が持つ、目的を定めれば、それが論理で想定できるものならたいていどんなことも実現できてしまうという万能性と、それを押しとどめるはずの良心の視界が、あくまでも主観の裡にとどまるという限界性にある。
人間の知性が未完成であることを識ることほど重要なことはなく、それを教えてくれるのはいつもオーソン・ウェルズのような「トリックスター」なのかもしれない。
そう思う。
![]() |
| 「家出のドリッピー」や「追跡」といったシドニィ・シェルダン作品をウェルズが朗読した英語教材の広告が新聞や雑誌によく載っていましたね。 |
だがフィルムカメラを始めて、モノクロームの面白さに気付いてから白黒時代の映画に興味が湧いて、『第三の男』とこの『市民ケーン』をレンタルしてきた。
IVC,Ltd.(VC)(D) (2016-01-29)
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映画は二時間の尺を緩みなく構成して、最後まで見飽きることが無かった。
Wikipediaにこのような記述がある。
ニューヨークで作品を見たフランスの映画評論家ジャン=ポール・サルトルは「『市民ケーン』はわれわれが従うべきお手本ではない」と批判し、「(物語が)一切が終わった地点から遡って見られているため、映画固有の現在形の生が失われてしまっている」と指摘している。しかし、この映画『市民ケーン』は、新聞王ケーンが残した「バラのつぼみ」という謎の言葉の意味を探偵役であるジャーナリストが追いかけていく推理劇である。
この構成のおかげで、「バラのつぼみ」とは何か、という物語的興味が生成されるのであり、必要不可欠な演出だったと思う。
しかもこの「バラのつぼみ」という言葉は、この映画がモデルにしている新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが愛妾マリオン・デイヴィスをこっそりこう呼んでいた秘密の愛称で、当時の人々の噂に頻繁にのぼった符牒なのである。
だからむしろこれは、この映画の時代性を支えるコアであるともいえるものだ。
また、このような記述もある。
ジョルジュ・サドゥール(フランス語版)も作品を「ハリウッドに一夜降ったドルの大雨で生えてきた巨大なキノコ」と呼び、ここにあるのは「古いテクニックの百科事典」と述べた。前景と後景を同時に写す撮影法はリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』で実現済みであり、非現実的なセットはジョルジュ・メリエス、素早いモンタージュや二重露光は20年代の作品、天井が写るのはエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード (1924年の映画)(英語版)』、ニュース映像の挿入はジガ・ヴェルトフを思わせるものであり、ウェルズはそれらをつぎはぎしたに過ぎないテクニックが映画を魅力的にすることに貢献していなければ批判の対象になるだろうが、百科事典的であることは別に悪いことではないだろう。
この映画ではそれらのテクニックが、結末のわかっている伝記映画特有の退屈さを払拭する見飽きない起伏を作り出す効果をあげていて、むしろ過去に生み出されたテクニックを効果的に活用する教科書として機能していると僕には感じられた。
この映画は強大な影響力を持つメディア王を正面からおちょくった問題作であり、当然大きな妨害を受けたようで、映画館でも上映拒否があったようだし、大きな賞を受けることもなかった。
それでもこの映画が長い時間を超えて傑作と賞賛されていることを考えれば、これらの批判がいかに的外れであったかがわかるだろう。
しかしやはり現実にはトラブルメーカーは歓迎されないわけで、遂にはハリウッドでは映画を作れなくなったオーソン・ウェルズ。
資金作りに奔走し、三流映画に出演し、サントリーのCMにも出演したそうだ。
そのような資金作りの一環が僕の知っていた「英語の教材の吹き込み」で、それでもそれが彼の知名度の一部となり、結局僕はこの映画に辿り着いてこの文章を書かせている。
万事塞翁が馬である。
この映画がロングライフであることには、もうひとつの意味があると思う。
スキャンダラスなメディア王の実態を、ドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクションとして描いたことである。
成功のためならば手段を選ばぬことは、このような物語に仕立てられてはじめて近視眼的に見えるが、渦中にいる人間にはわからない。
幸運にも、そして不幸にもそれが出来る環境が手に入ってしまえば、それを抑えることはとても難しいだろう。
しかし、そのような教訓も、抽象化された物語が長い時間を経ると、もともとの含意が人々の記憶とすれ違っていく。
だからさんざん語り尽くされたことではあれど、ここにもウィリアム・ランドルフ・ハーストという新聞王の所業を書き残しておこうと思う。
19世紀の終わり頃、キューバの独立運動を宗主国スペインが弾圧していた。
アメリカはキューバの砂糖産業に投資していたために、スペインがこれを接収してしまうことは避けたかったし、潜在的に太平洋に隠然とした存在感を持つスペインの植民地を奪い、太平洋覇権を手に入れたいという政治的思想を持つ勢力もあった。
ハーストは、この思想に共鳴していたのだろう。情報操作によってこれを後方支援した。
1897年、ハースト系の新聞に掲載された「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という煽情的な記事で反スペイン感情は高まり、翌98年、アメリカ戦艦メイン号が撃沈された事件を契機にアメリカはスペインに宣戦布告。米西戦争となったのだ。
結果アメリカはこの戦争に勝利し、キューバの独立とともに、フィリピンやグァム、プエルトリコを得て、太平洋覇権を固めることになる。
ハーストの命を受けてキューバに赴いた画家フレデリック・レミントンは、「スペイン人の残虐行為を描いて送れ」との指令を真に受けて探し歩いたが何も見つからず、その旨を電報で知らせた。
これに対するハーストの返答は、「何でもいいから絵を用意せよ。当方は戦争を用意する」だったという。
そして言葉通り、戦争はメディアによって用意された。
他人ごとではないのである。
メディアが政権に寄り添うことの危険は、人間の知性が持つ、目的を定めれば、それが論理で想定できるものならたいていどんなことも実現できてしまうという万能性と、それを押しとどめるはずの良心の視界が、あくまでも主観の裡にとどまるという限界性にある。
人間の知性が未完成であることを識ることほど重要なことはなく、それを教えてくれるのはいつもオーソン・ウェルズのような「トリックスター」なのかもしれない。
そう思う。
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