2013年3月25日月曜日

音量問題

前にも書いたかもしれないが、イザベル・ファウストというバイオリニストの演奏が好きで、CDを見かけると買うようにしていた。

それで、このアルバン・ベルクのバイオリン協奏曲をフィーチャーしたアルバムも買っていたのだが、アルバン・ベルクといえば、無調音楽、十二音技法の祖シェーンベルクの一番弟子、ということで、まあ聴きはしたものの腰がひけていて、理解するとかいうレベルの聴き方ではなく、最初から「わからない音楽」と決めつけて一度聞いて「やっぱりね」ということで聴かずにいた。

しばらくワーグナーの音楽を聴いていて、オペラってのは舞台芸術なのにレコードで聴いたってわかるわけないよね、と思っていたのが、周りのファンたちが皆口をそろえて、いやいやむしろレコードで聴くべきものだよ!と言うので聴いているうちにだんだん好きになってきた。

まだまだ膨大なワーグナー音楽の入り口を齧った程度だが、もしかして他にも聴かず嫌いにしてた音楽がたくさんあるんじゃないかと疑うようになった。
マーラーの五番、ブルックナーの四番など、一度聴いただけで自分には合わないと決めつけてしまった楽曲がいくつかある。

今回は、とりあえずアルバン・ベルクのバイオリン協奏曲にもう一度トライしてみようと思った次第だ。

実はこの間、僕の音楽を聴く方法にも大きな変化があった。
僕のオーディオの作法は、基本的に「小音量」であったのだ。
盆栽の美学というか、模型製作の悦楽というか、自分の「手の中に入ること」が重要テーマだったわけだ。
原音再生派のひとたちは「原音量」も再生しようとするが、僕は部屋の中に「小さな」コンサートホールを再現しようとしていた。

しかしある時、キャリアのあるオーディオファイルのお部屋で耳が割れんばかりの大音量で聴いてから、そこまではいかなくてもある程度音量がないと聴こえてこないものもあるのだなと気がついた。

それで、今までの5割増しくらいの音量で音楽を聴くようになった。(それでも先輩たちの半分くらいの大きさだ!)
これで聴いてみると、おお、なんとなく今ままでとっつきにくいと思っていたアルバン・ベルクが、なんだかわかりそうな気がした。



この「ある天使の思い出に」というロマンティックな副題にも少し心惹かれる。

確かに難解な楽曲!
しかし無調という感じではない。調べてみると十二音技法に改めて調性を持ち込んだ人だとある。なるほど。
やはり最初はよくわからないが、二日目、三日目になると徐々に見えてくるものがある。
不安、それに続く激しい苦痛の表現を経て、最終部分に現れる神がかった美しさと儚さ。
素晴らしい楽曲。素晴らしい演奏。

この曲はマーラーの娘が死んだ時のことを描いた曲なのだそうだ。
娘を持つものとして、心穏やかに聴くことは難しい。

しかし、そういった先入観を捨て(これになにより時間がかかる)平明な心で聴きいった時に、はじめて姿をあらわすこの楽曲の真の姿にこそ強い共感を覚えた。



調子に乗って、以前やはり面白いとは思えなかったマーラーの全集にも手を出した。
クラウス・テンシュテットの全集。



はい、そうです。ジャケ買いです。かっこいいですよね。
まだ今一番を聴きこんでいるところだが、なんかすごくいいぞ、マーラー。
これも音量を大きくしている恩恵かもしれない。


ところで、僕は今までの人生の大半をロック・ファンとして生きてきた。
だから、幾多のロック・レジェンドたちに大きな影響を受け、今でも現役の皆さんの作品にはやはり手が伸びる。

中でも最も好きなアーティストのひとりエリック・クラプトンの新作は出る度に聴いている。最近だと、うれしいボウイの復活。そして変わらず元気なディランの定期的なリリースも実に頼もしい。
  

大好きなクラプトンの新作もさっそく買って、いつものようにCDをセットしてプレイボタンを押した。
最初のドラムの音がなんだかすごく耳障りに感じてショックを受けたが、すぐに音量が上がりすぎていることに気がついた。
そう。クラシック音楽とロックでは適切な増幅率が違うということなのだ。
だいたいロックの場合には、通常特にギターの音は録音する前にアンプで増幅している。肉声や生ドラムのような生楽器も、その音圧レベルに合わせて、持ち上げて録音しているだろう。それをさらにオーディオ・アンプで増幅することになってしまう。

僕は、こういうロック音楽をずっと愛してきたし、それを最高に楽しめるようにオーディオをセットしてきた。
「増幅された音」で構成された「生音」、これがロックというものが流通されていくときの姿であり、受け止める我々がそれを「盆栽の美学」的な聴き方に成熟させていったのだと思うのだ。
もちろん原音どおりの爆音で楽しむのを是としているファンもいるだろうし、どちらがいい、という話ではない。ただ、どちらかというと「盆栽派」はロックファンに多いような気がする。

2013年3月2日土曜日

DENON DP-500Mにオルトフォンのトーンアームケーブルを導入!

アナログ再生の見直しも最終段階に入った。
僕の心に最後に刺さっていた棘は、ケーブルだった。

現在僕のレコードプレーヤーDENON DP-500Mに刺さっているのは、プレーヤーに付属していたケーブル。

一定ランク以上の機器の場合、付属しているケーブルは音が出ることを確かめるためのものと考えなければならないとよく言われる。
残念ながら、僕の愛するこのプレーヤーは、その一定ランク以上のものとは言いがたいもので、だから、ケーブルもそのまま使っていたのだが、ここまで7年間このプレーヤーに付き合ってきて、諸先輩のおかげで、多くの名盤の音を聴くことができたし、良いカートリッジの音なども試させてもらって、演奏も音も良い愛聴盤も何枚か手にしたし、これだ!というカートリッジも入手することができた。

いよいよ棘を抜く日が来たのだと思った。

実はこのプレーヤーを買おうと決めた時から、ケーブルはこれしかない、と決めていたものがある。
オルトフォンのトーンアーム・ケーブル。両側がRCAのケーブルはそれほど選択肢がないし、オルトフォンなら文句はない。
思い切って注文した。

これです。
写真でしか見たことなかったんですが、お店で使ってるオルトフォンのスピーカーケーブルの皮膜をトランスルーセントの青に変えたというイメージですね。金色のプラグが良い感じです。
さっそく交換してみます。
外しました。
改めてよく見ると、意外に太くていい造りのケーブルでした。しかし、やはりこの赤白のプラグが付属品というイメージです。イメージは大事ですから。
他のすべての機器の接続に使っているアクロリンクのケーブルと同じように信号の流れる方向を指示してあります。友人の理系技術者によれば、根拠はほとんどないそうですが、わざわざ反対に付ける理由もないわけで、指示にしたがって接続します。

接続後、さっそく試聴してみる。
聴き慣れた山下達郎、ポケットミュージックのB面をかける。聴き慣れたものでないと、例えば左右の音がひっくり返ってるなんてのは論外だが、バランスが悪かったりするのに気が付きにくい。
今回は、まったく問題ないようだ。

さらに最近よく聴いている、シューベルトの「ます」もかけてみる。
やはりアンビエンス音などのあるクラシックになると差が出てくる。ここでは、さきほど登場した友人の理系技術者の「ケーブルにはエージングの効果はない」という言葉が実感できた。

ここで、明確に違う音だ、と言えたら僕もうれしいが、今までの音でだって充分感動してきたのだ。だから、ここでは素直に、他の機器にかけてきた最低限の愛情を今回アナログ再生に関しても今出来る範囲でかけてあげる事ができて、心にかかっていた霧が晴れた、と言っておく。
そして、それが実際に聴いている音のベールを一枚剥いでいることは、僕の心の中で起こっていることなのであり、それを楽しむのがオーディオという趣味なのだと、誰に言うのでもなく、呟いてみる。
最高に心地よいこの時間の中で。

2013年3月1日金曜日

オーディオテクニカAT-150MLXカーリッジの導入

お店の方に新しいアンプを迎えて、三週間ほどが経った。


音のことは、いいと思う。
それ以上に、これでもう「何だよ、DENONかよ」という目で見られるのを心配しなくて済むと思うと、とても晴れやかな気分だ。
もし、それが被害妄想だったとしてもだ。


それで、すっきりしたついでに、もうひとつ気がかりだった件を解決しようという気になっている。
それはレコードプレイヤーに関することだ。

現在使っているプレーヤーはDENON DP-500M。
一般にエントリー機というカテゴリーに分類される機種だ。
なぜ、エントリー機を使うのか、についてはすでに書いた。
が、最も大事なポイントについてもう一度言う。

これが「ダイレクト・ドライブ」機だからだ。

自分で所有して日常的に使用するターンテーブルに、僕はベルト・ドライブを使うことに大きな抵抗がある。

うん。これは気分の問題だ。

現代のハイエンド・レコードプレーヤーのほとんどがベルト・ドライブやそれに類する方式を採用しているところをみると、理想的な方法なのだろう。
実際にベルト・ドライブのプレーヤーの音も何度も聴いたが、充分楽しめた。
ただ、所有するとなると話は別なのだ。

アナログ再生は「信頼性」との勝負だ。

回転は正しいだろうか。
針は正常だろうか。
水平だろうか。

いつも自分が出している音が正しいかどうか、僕にとってのアナログ再生は常に疑いとの戦いだ。
その土台となる回転への不安要素は、すべてを揺るがせる。
僕はその不安感を自分の機材の中に置いておきたくないのである。

日本のオーディオ黄金時代、プレーヤーの多くはダイレクト・ドライブ機だった。
だから中古市場を見渡せば、名機とよばれるマシンが多数見つかる。
しかし、プレーヤー系に限っては、中古はいかん、と思っている。
ヒトが作った機構が変化する先は「劣化」しかない。

すでにテクニクスのSL-1200Mk-6が生産完了となった今、現実的な価格帯で購入できるダイレクト・ドライブ機は、DENONのDP-1300mk-IIとDP-500Mしかない。
上級機との差は、キャビネットの仕上げによるハウリング・マージンとアームの高さ調整機構の有無。
僕は、それを補ってあまりある美点が500Mにあるので、そちらを選択している。
それは最低限のコンパクトな筐体と、素朴な仕上げの美しさだ。


見かけかよ、とお思いかもしれない。
しかし、僕にはあの1300Mk-IIのテカテカした塗装と、金色のアームだけはどうしても許容できないのだ。

で、このDENON DP-500Mというプレーヤー。お値段7万5750円なり。
安いなあ。
コンパクト&シンプル。
好みだなあ。

これによく出来たオーディオ・テクニカのOEM品であるカートリッジまで附属している。

このカートリッジは実によく出来たカートリッジで、一度銘機と言われるカートリッジをいくつかお借りして聴き比べたことがあるのだが、まったく引けをとらない、どころか元気の良さでは圧倒的に優秀。
常に安定してイキイキとした音像を提供してくれる。
ホント、安すぎるよなあ。

でもそこが問題。
音にはまったく問題を感じないけど、やっぱり数千円っていう感じのルックスで、ちょっと頼りない。
今、カートリッジの相場は、完全に二極化していて、世評が高いカートリッジは少なくとも7〜8万円台からで2〜30万円なんてのもザラにある。これじゃプレーヤーより高いじゃないか!
しかし幸いなことに、低価格帯の中にもオーディオテクニカやオルトフォン、そしてシュアーのMMカートリッジのラインナップには良い感じの価格帯で、なかなか立派なものがあるのだ。

それでも、以前のエントリーで書いたとおり、安価故に毎年交換針を替えることが出来る精神的安定が聴感にもたらすメリットを重視して、付属のカートリッジを愛用してきた。

この気持を変えたのが、先輩オーディオファイルがくださった、このカートリッジだ。

オルトフォンVMS20E
銘機の誉高いMMカートリッジだ。
さらに高価なオルトフォン540やDENON DL103といった時代を代表するカートリッジたちとともに貸してくださった中のひとつで、僕はとにかくこの音が気に入って、そう言うと、これはもう使わないから、使ってくれる人にあげるよ、と言って快く譲ってくださったのだった。

その頃僕はクラシックの、それもベートーヴェンの弦楽四重奏ばかり聴いていて、そんな時、このカートリッジは今まで聞こえてこなった弦の低い唸りのようなものを再現してくれて、ちょっとゾクッときちゃうような音楽体験をさせてくれた。

なるほど、やっぱりこういう微妙で、しかし決定的な違いがあったりするんだなあ、と思っていたのだが、先日マイルズ・デイヴィスのレコードを何枚か買って集中的に聴いていた時、なんだかマイルズの音楽を聴いている時にいつも感じる、高揚感が感じられていない自分に気がついた。

もしやと思い、付属のカートリッジに戻してみたら!
ああ、これだ。いつものマイルズの音楽がそこにあった。

やはり自分には、オーディオテクニカのカートリッジが合っているのかもしれない。
オーディオテクニカには、VM型というMM型と同等の出力を持つカートリッジが複数ラインナップされていて、現在その最高機種でも実売3万円を切っている。
これを試してみない手はないだろう。

で、さっそく取り寄せてみた。
AT-150MLXというVMカートリッジだ。


どうでしょう。
ゴールドのボディがかっこいいですよね。
シェルも新調したので、リード線もスムーズに接続できて、全体のルックスがぐっと洗練された感じがする。

そして、何よりも音だ。
このカートリッジの音はただの元気の良い音ではなく、中低域に張りがある充実した音とみた。
ふと思いついて、ジャーニーの後期の秀作「レイズド・オン・ザ・レディオ」をかけてみた。少し軽めのバスドラがトゥーン、と飛んでくる音の余韻が凄いぞ。

付属カートリッジに較べ、交換針が高価なのが、気にかかるが、メンテナンスに気を使ってなるべく長く愛用していきたいと思う。


で、アナログプレーヤーに関しては、もうひとつ懸案事項を残している。
稿を改めてお話したい。

2013年2月23日土曜日

そして、僕はもう充分に、出会った。

ということで、新しいプリメインアンプがやってきた。


大阪からはるばる大荒れの寒い日本を揺られながら横断してきてくれた。
到着後しばらく、はやる気持ちを抑えて室温に馴染ませてから真空管に火を入れた。

やはり最初の音を出すのは、いつだって緊張する。
最初にかけるのは、このメーカーの本社があるデンマーク(工場はスウェーデン)にちなんで、マイルズ・デイヴィス演奏の「ディア・オールド・ストックホルム」(ラウンド・アバウト・ミッドナイトSACD収録)だ。
最初はちょい硬い音だったが、暖まってくるにつれ饒舌になってきた。
高音が少し強めに出てくるようだ。
スピーカー側のアッテネータで微調整して好みの音に整える。

それから二週間ほど、お店で鳴らしている。
同じスピーカーを鳴らしているのだから、大きく音が変わるなんてことはないが、低音域の出方が、今までのアンプに較べると格段に太くて、分離がいい。
より小さな音でも音楽になって聴こえてくる。
いいアンプだと思う。
しかし、その感覚を他者と共有することは難しい。

類は友を呼ぶで、やはり昔から音楽好きな友人が多い。
しかし(僕にとっては)意外なことに、彼らから再生装置の自慢話を聞いたことは一度もない。
だから僕が、「TANNOYのGreenwichというスピーカーに一目惚れで」とか、「McIntoshの真空管アンプはやっぱり」なんて話をしても、なにか珍しい動物を見るような目で見られるだけである。
ましてや壊れてもいない再生装置を買い換えたりするような話をすると、かなりの確率で眉を顰(ひそ)められる。
しかも、今回は「顔が気に入って」買っている。
完全に理解の埒外だろう。

だからやはり、オーディオというのは、それで独立した趣味なのだと思う。
厄介なのは、それが「音楽」という別の趣味と分かちがたく融合しているところにある。誰だって音楽が好きだというところを入り口に、この世界に入ってくるのだ。

厄介、というのはオーディオ愛好家と話をしていて、「あの演奏がいい」「いや、こちらの方がいい」という本来純粋に音楽的なものであるはずの議論につい、
「貴方の装置でそれがきちんと再生できているのか」
という疑いを無意識に挟み込んでいる、あるいはその可能性に逃げ込んでいるというところにある。

しかし事実、そういう疑念が生じざるを得ないほど、確かに再生装置によって演奏の聞こえ方そのものが変わってしまう経験をしたことがある。それも二度。

最初は、チェット・ベイカーのグレイト・ラスト・コンサートというアルバムでの彼の枯れた歌唱が、安価なアンプとスピーカーで聴いた時には、なんじゃ、これは。なんで、こんなのが名盤なんだ、と思ったがマッキンとタンノイで聴いた時、おおお、これが滋味というものかよ!と心底感動しちゃったのだ。

二度目はベートーヴェンのピアノ協奏曲の四番で、僕の装置では、おおお、ピアニストが高揚し過ぎて音楽が壊れる寸前までいっちゃってるなあ、と思ったシーンが、先輩オーディオファイルのシステムでは、オーケストラが全体できっちりその荒ぶるピアノをサポートしているのが聴き取れたりした。

いい音楽の話なのか、いい音の話なのか、そこがすでに実態として混然としているのだ。ただでさえ「いい」なんて曖昧な基準を「好き」「嫌い」の尺度で語る話がうまく噛み合うほうが不思議なくらいじゃないか。

だからせめて、今回のアンプの買い替えの話なんかは、「音は変わったのか」というあたりに着地しないといけない。

でも、自分のここ数日の心情の変化を思い返してみると、不思議なほど、このアンプの「音」のことは考えていなかった。

COPLANDアンプの北欧デザインの「顔」をニヤニヤしながら眺め、横に回っては、大きな放熱スリットから見えるEL34真空管のオレンジ色のセクシーで暖かい灯火に見とれて、このアンプの「機能」ではなく存在そのものが愛おしくなっていく。

それにつれて、僕が愛してやまないMcIntoshアンプの中域から低域にかけて豊かな残響を表現しようとする音とは対極の、まるで北国の乾いた冬に、暖炉を囲んでいるようなほのかな暖かさを体現しようとするこのアンプの音そのものに、気持ちの側が寄り添っていくのを感じたのだ。

つまり、僕自身には、機器の買い替えによって、音が「変化すること」自体を趣味として楽しむ気持ちは無い、ということだ。
それが今回よくわかった。

振り返ってみると、僕の最初のオーディオ体験は中学入学祝いで買ってもらったオンキヨーのシステム・コンポ。
次は会社に入って最初の給料を頭金にしてローンで買ったパイオニアのA-616アンプとオンキヨーD200スピーカーのセット。
10年後にそのパイオニアが壊れて、買ったDENON PMA-1500RIIアンプ。
まあ、庶民の音楽好き、という感じの機材遍歴。

で、またその10年後に会社を辞めてこの店を始めることになって、突然マッキントッシュだのタンノイだのを買って、にわかオーディオファンみたいになっていたわけだ。
試聴会に出かけて行って、なるほど凄い音のするシステムがあるもんだな、と思ったし、長年オーディオをやってこられた方のシステムを聴けば、まるっきり異次元のスケールの大きな音にびっくりもした。

でも僕はやっぱりある機材に出会って、恋をして、一緒に暮らして、毎日毎日どんどん好きになっていく、今のオーディオとの関係性が好きだ。
そして、僕はもう充分に、出会った。
そう思う。

しかし、この病は不治の病だそうだ。
恋と同じ。
だから、いつかは再発するかもしれないし、そうでないかもしれない。
だとしても、相手を求めて街をうろつくような真似は、今の僕には必要ない、とそういうことだ。

今まで書いてきた、いわばオーディオ≒恋愛説は、僕の場合、アンプとスピーカーにしか適応されない。メディアの再生機構は消耗品であり、恋人は消耗品ではない。
CDプレーヤーとレコードプレーヤーにDENON製品を使っているのは、音が合格ラインにあることはもちろんだが、それ以上に2つ先の駅にデノン・サービス・センターがあるからだし、事実先日CDプレーヤーのトレイが開かなくなった時、そのおかげで随分助かった。

そして今、アナログ再生機構に関しては、小さな懸案が残っている。
機器探しから解放された今、思い切って、ここに切り込んでいくことにした。
実行したら、またご報告したいと思う。

2013年2月22日金曜日

シューベルトの「ます」

学校の音楽の授業では、今でもこの曲を聴くのだろうか。
シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」。
学校で聴くのは、だいたい第四楽章だけだが、第二楽章の複雑な転調こそが聴きどころではないかと今なら思う。
若いシューベルトらしい明るく幸福に満ちた曲想といわれることが多いが、やはり生来鬱屈した部分を持っていたのではないかと、二楽章を聴くと思ってしまう。

今までグラモフォンの編集盤CDに入っている演奏で聴いていたが、いつもお世話になっている方から、レコードをいただいた。


かっこいいジャケットですよね。
スピーカーズ・コーナーというレーベルが復刻したデッカの名盤。


レーベルもかっこいいです。
そして今回、おお!と思ったのが内袋。


こりゃ、かっこいい!
レコード買いたい病が再発しそうだ。
まずいぞ。


2013年2月6日水曜日

それは二度目の一目惚れ。

よくよく惚れっぽい男だな、とは思う。
前回の一目惚れは、TANNOYのGreenwichというイギリスのスピーカーだった。
全国喫茶店視察で、とある喫茶店でサブに使われていたのを見て一目惚れ。
横長の店内の音が届かない部分を補強するために置かれて、小さな音で鳴っていた。
その小さな音が素晴らしかった。

いくつかの中古オーディオ店に問い合わせるも在庫がなかったが、折よくヤフオクに出品され、運良く落札させてもらった。
しかし到着したスピーカーは片側のボイスコイルが切れていて音が出ず、イギリスからユニットを取り寄せてようやく音を出した。

音が出た時はうれしかったな。
初めて音を出したのに、長年苦労を分かち合った戦友のような気がしたよ。

毎日お店で、そのスピーカーを鳴らした。その小さいのに美しい音が聴けば聴くほど素晴らしくて、自分の部屋用にも欲しくなって、ヤフオクに程度の良い物が出るのを待って、もう1セット落札させてもらった。

こちらが自室に置いてあるGreenwich
カフェジリオに置かれたGreenwich


さて、今回恋に落ちた相手は、デンマーク生まれのスウェーデン育ち。
COPLAND CTA401というアンプだ。


実はずっと、店で使っているアンプのことが気になっていた。

もともとここには、プリにMcIntosh C2200、パワーにMC275という真空管アンプのコンビが鎮座していて、それなりにオーディオ好きのお客様を連れてきてくれたりしたのだが、なぜか三年目の時に次々と真空管がイカれて、11本の真空管をすべて入れ替えた。
エントリークラスのプリメインアンプが買えるくらいのカネが飛んでいった。
2007.3オープン時。ラックの天板の上下が逆だ。ハズカシ。

やっぱり一日8時間、毎日点けっぱなしという環境は現代の復刻真空管たちには酷なのだろうかと、自室で使っていた長い付き合いのDENON PMA-1500RIIという6万8000円のアンプに入れ替えた。


元のマッキンは、プリ、パワーともに75万円で、北見のオーディオ屋さんに眠っていた新古品を、合わせて100万円で入手したものだったので、かなりの価格差がある。
しかし、DENONのこいつは有楽町のビックカメラでじっくり試聴して選んだ、ボリュームさえ大きくしなければ本当にいい音の出るアンプだ。価格差ほどの音質差は無いと感じていた。
ウチは談笑スペースに使われることが多いから、BGMは控えめだしちょうどいい。これでいいんだ、と。

しかし、なぜかオーディオ愛好家は、大変良く出来ているがゆえに、大変な数が売れているDENONのプリメインアンプが嫌いだ。
噂を聞いて、わざわざ来て下さったお客様がアンプを一目見てあからさまにがっかりするのを何度も見た。
お店のサービスとは関係ない部分でがっかりされるというのも、これはこれで厭なものですよ。
それに個人的にも、アンプよりラック(クアドラスパイアというイギリスのラックを使っております)の方が高いってのもどうなんだ?と思わなくはなかったし。

ま、でもその程度。
だから、別にそれほど本気ではなくて、宝くじにでも当たったら真っ先にお店のアンプを替えるとして、どんなのだとシブいかな、みたいな想像を楽しむ気分で、いつもハイファイ堂という中古オーディオ専門店のWEBショップを覗いていた。

ハイファイ堂にはちょっとした思い出がある。

前の会社の先輩と中野ブロードウェイのフォーク喫茶でバーボン飲んでて、泉谷しげるとかのLPを聴きながら、なぜか隣の席の初対面のオジさんと盛り上がっていた。
後ろの席の若い男性がトム・ウェイツのレイン・ドッグスをリクエストした時、そのオジさん、やにわに立ち上がって、「青年、せっかくトム・ウェイツを聴くんならクロージング・タイムにしなさい。ぜったいこれが一番いいから。」と、たぶん自分が聴きたかっただけなんだと思うけど、そう言い放った。
あまりにも確信に満ちたその言いっぷりに青年も納得して、みんなでクロージング・タイムを聴くことになったのだが、実は僕も「土曜日の夜」と「レイン・ドッグス」しか聴いたことがなかった。
これが素晴らしい音楽だったのですよ。

で、そのオジさんに興味が湧いていろいろ話を聞いたら、実はハイファイ堂という中古オーディオ店で長く働いていたのだと言う。
君も開業でオーディオ探してるんならハイファイ堂がいいよ、と言って下さった。もう辞めたお店をお勧めするのだから本当に良いお店なんだろうな、と思い何か買うならハイファイ堂にしようと思っていたのだ。

ハイファイ堂のWEBショップの良いところは、アンプの絞り込み項目が「プリメイン」「真空管プリ」「トランジスタプリ」「真空管パワー」「トランジスタパワー」と細かく分かれているところだ。
で、最近は、あまり知られていなくてデザイン性の高いプリメインはないかなあ、と探していた。
ある日、いつものようにプリメイン・アンプで絞り込んで一覧を眺めはじめた時、目に入った瞬間から釘付けにさせるオーラを放っている一台があるじゃないですか!


それがこれ。
COPLAND CTA401。真空管EL34プッシュプルのプリメインアンプっす。
見慣れないブランドですが、デンマークのコペンハーゲンに企画設計部門、主力工場をスウェーデンに持つXENA AUDIO社の製品だそうです。日本ではパイオニアが輸入・販売していたらしい。
ハイファイ堂さんのウェブショップからお写真拝借いたしました。ブツはまだ届いておりません。

ホント、北欧デザインって感じ。いい顔してる。大胆に刻まれたCOPLANDのロゴもいいね。
で、真空管がEL34ってのがいい。なにしろ安いからね。30W+30Wというほどほどのパワー感もいいなあ。なんて。一度気に入ると、全部がよく思えてくる。

さて肝心の音はどうなんだ?ってとこですが、Youtubeを見れば、大抵のアンプの音は聴けるんですよね。今はそういう時代。
こんなマイナーなアンプの動画もかなりの数がアップされている。
もちろん録画機の内蔵マイク性能はさほど高くないだろうし、PCで聴いてるからホントのところはわからないけど、耳の脳内補正機能はけっこう高い。だいたいどんな音かはわかる。

ほうほう、けっこういいんじゃないですか。ってもうデザインが気に入ってるから贔屓の引き倒しになってるし。
それに、オーディオの音はスピーカーと部屋で決まるわけで、こればかりは届いて聴いてみなければわからない。

というわけで買っちまったよ。
現在、大阪日本橋から札幌まで日本横断中。
無事、届いてくれよ。

現在店で使っているDENONアンプは、娘の部屋に収まって会社員時代使っていたONKYO D200とともに、再び活躍してくれる予定。そちらのセッティングをしてあげるのも実はちょっと楽しみです。

2013年1月31日木曜日

友達がくれた、グールドのレコード。

先日、大学時代の友人と飲んでいた時、村上春樹の「小澤征爾さんと、音楽について話をする」について話をした(ややこしいな)。

僕は、クラシック音楽の中では断然ベートーヴェンが好きなので、グールドとバーンスタインで演ったピアノ協奏曲の話が印象に残ったと言うと、ああ、それならレコードで持っているから今度持っていくよ、と言ってくれたのだが、今日本当に持ってきてくれた。
しかも、じゃあ、ありがたくお借りします、と言うと、レコードばかり聴く僕のところにあったほうが、このレコードにとっても良いだろうから、と言って譲ってくれたのだ。
うれしいなあ。


グールドが亡くなった時に出た追悼盤で、4枚組の協奏曲全集だ。
立派な箱に入っている。
さっそく、小澤さんがいろいろ解説をしていた三番を聴いてみる。

一聴、ものすごくオンマイクな音。
小澤さんと春樹さんは「古色蒼然」と評していたが、遠くから全体を録るような録音より僕は好きだ。
レコードは「録音」を聴くものであり、生演奏の代わりではない、と僕は思っているので、自分がマイクになった気分で、それぞれの楽器にクローズに接することができるのがレコード演奏の醍醐味だ、とさえ思っている。
ホールのどこの客席からでもない、録音現場そのものの音。
それが僕の求めるオーディオの音だ。
その意味でこの録音は、今まで聴いた数多の協奏曲録音の中でも、最も好ましい音なのです。

小澤さんの解説にあるような、グールドとバーンスタインの音のやり取りのようなものは、僕の耳では残念ながら聴き取れなかったし、言われているほど奇異なテンポではなかったように思った、のも束の間、その印象は、一番好きな四番の第二楽章を聴いて、あっさり覆る。
冒頭の弦楽による強力なユニゾンは、同じ曲とは思えないほど遅い!
その間隙にグールドの夢のように美しいピアノが入ってきて、また力強い弦が。
そして、例のグールドのハミングがはっきりと聴こえてくる。

ピアノはあくまでも美しく自由に揺らぎながら旋律を縫い、オーケストラは、揺るぎなく荘厳に響く。そして交互にボールを渡し合う。
グールドのあの自由なテンポによく合わせられるものだ。

小澤征爾さんの解説では、カラヤンとグールドの演奏では、カラヤンが独奏者に合わせないため、入りが合わないようなところがあるが、それでも演奏の太い流れはカラヤンの方が上だという。
そんなこと言われると、そっちも聴きたくなっちゃうよね。

異常な遅さでスタートした曲は、第三楽章で、これまた聴いたこともないほどの速さにシフトアップして終了する。
いやー、これはすごいね!
何度も聴いてよく知っているはずの曲に、こんなに興奮させられるとは思わなんだ。


2013年1月10日木曜日

「この空のまもり」に見たニートの魂。



ハヤカワ文庫JAの「この空のまもり」。

ライトノベル界隈では、「ニート文学」とでも言えそうな作品ジャンルが確立していて、僕はこれがかなり好きだ。
これもそういった作品群のひとつ。

現在の経済の仕組みは商品価値とそれを生み出す労働力との差分を最大化することによって回転している。
どこまで行ってもそれは「搾取」の構造だから、このエンジンを回し続けるためには搾取元を探さなければならない。
グローバリズムというのはこの「調達の構造化」の最終局面だ。最初の「世界の工場」アメリカが成長しきって、副作用として調達コストが高くなり、バトンを日本に渡し高度経済成長を果たすと、中国・韓国がそれを受け継ぎ、今、アフリカ諸国の民主化が爆発的に進んでいるということは、その最終局面すらいよいよ終焉を迎え始めているということだ。
ユーロ危機もリーマン・ショックも日本の終わらないデフレも、その綻びの体現である。

グローバリズム・ローテーションの中で、役割を終えたはずの「年功序列」「終身雇用」「既得権益」などの日本型システムだけが堅持されたことで、金持ちの年寄りと仕事のない若者が生まれた。仕事のない若者は金持ちの年寄りに扶養され、ニートとなった。非正規雇用という低賃金労働のヴァリエーションが拡大され、不安定な労働市場が形成され、結婚や出産は、長期間の社会経験を必要とするか、恵まれた一部の人たちのものとなった。家や車は必要なくなり、設備投資はもはや富を生み出さず、消費は堅実になり、コモディティ商品だけが国際的な調達の成果で価格が下がっていく。
アメリカは同様の危機を国体の大きさを利用して、国内に格差を設けることで解消している。日本もその真似をしようとして一生懸命格差を拡大して、今や国民を守るための年金や医療などの社会福祉的体制は崩壊寸前だ。

ニートはこういったシステムの中から生まれ出た。
だから彼らには、旧来の価値観に染まった世代から努力不足の誹りを受ける謂れはもとよりなく、むしろその存在が、早く社会の構造を作り替えて行かないといろいろと手遅れになりますよ、という警告を発するカナリアだったのだ。そしてその知性的なカナリアであるニートたちこそ、社会変革の鍵になる、という発想が、ニート文学の骨格を支えている。
だから面白い。

ニート関連作品の嚆矢とも言える「東のエデン」(エデンの東ではない)というアニメーション作品では、先日発表された税大綱を大幅に進化させた相続税100%法案とか、画期的な政策を官僚が骨抜きにしないようにする、ちょっと思い切ったテロとか、なるほどと思わせるアイディアがてんこ盛りだった。

日本銀行の白川総裁は、長期化するデフレの原因は「グローバリズム」と「少子化」への対応が遅れているからである、と言っていた。そのココロは、通貨政策だけに目を取られずに上記のような大きな世界のうねりに目を向け、本質的な解決に向かうべきではないか、との指摘ではないかと思うのだが、いかんせん表現がカタすぎて真意が伝わらない。
いっそこの本でも安倍首相に読んでいただきたいところだが、表紙も含めちょっとお薦めしにくい。麻生さんなら読んでくれるかもね。


今回読んだ「この空のまもり」は、ニートたちが電脳世界に架空政府と架空軍を作って国家に改革を突きつけるというもの。
主人公の架空防衛大臣はもちろんニートで、隣に住む幼馴染の女の子を守るために電脳世界で小さな戦いを始めたところから、防衛大臣にまで登りつめてしまう。
で、戦いが大きくなったところで、自分の中に「愛国心という獣」が住んでいることに気付く。
うまいなあ。愛国心ってのは確かに「ケモノ」だよ。理性の対極にあるもの。
もちろんその獣はどんな人でも持っていて、だから内紛のもつれで仕掛けられた嘘をきっかけに戦いのさなか架空軍は暴徒と化してしまう。
主人公は、結局我々ニートは隣にいる大切な人しか守れないちっぽけな存在ではあるけれど、それ以上に大切なことなんてあるのかい?と、そんなに憎い外国人ってのは一体誰のことなんだい?と民衆に問うことでこの暴動を治めてしまうのだ。
どこにも所属せずに生きてきたニートたちは、弱い立場であるが故に数少ないリアルの縁を大事にしている。だから、頭の中だけにいる「愛国心という獣」に心まで奪われはしなかったのだ。
今の時代に本当に必要な冷静さって、こういうことじゃないのかな。
うーむ、やっぱり安倍首相に読んでほしいかなあ。

2013年1月9日水曜日

MILES SMILESに記録されているもの。

購入した中古レコードを聴いている。

まずはマイルズ・デイヴィスのMILES SMILES。
マイルズの傑作群の中では比較的評価の低い盤だと思う。僕もジャズ入門者に薦めようとは思わない。
しかしこのアルバムには、60年代後半のロック・ミュージックの嵐のような台頭に晒されたジャズの迷走と、それに対するマイルズの回答が込められているのだ。
そしてそれは、我々が芸術に相対するときに必要な心構えのようなものを示唆しているようにさえ思う。
マイルズ自身も音楽を含む文化が大きな曲がり角に来ているのを感じていたのだろう。60年代半ばに、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスらと新しいクインテットを結成して、E.S.Pというアルバムを世に問う。しかし、折り悪く、直後マイルズは病気に倒れ、しばらく休養をとらなくてならなくなってしまう。リーダー作が何枚もある売れっ子のマイルズは、まあ休んでいればいいだろうが、雇われの4人はそうはいかない。いろんなミュージシャンとステージに立つことになる。
時代は、閉塞するジャズへのひとつの回答として「フリー・ジャズ」に傾いていた。
オーネット・コールマンやセシル・テイラーなんかの音楽が人気を博していて、ロン・カーターを除く、マイルズ・カルテットのメンバーは彼らとステージを共にして、すっかりフリー病に冒されてしまうのだ。
恢復して、再び招集したメンバーたちとステージに立ったマイルズは、わずかな間で様変わりしてしまった彼らのプレイに驚き、憤慨する。おいおい、お前らのやってることは、簡単なことを難しそうに演奏しているだけだ。新しい芸術というのは、こういうのを言うのさ、と普段は細やかなコントロールで繊細なメロディを吹くマイルズが、力の限りトランペットを吹き上げて、彼らの甘っちょろい芸術観を粉砕しようとしたのである。しかし敵もさるもの、カルテットはマイルズの魂のブロウに感応して、フリーの階段を一段だけ降りて、マイルズの目指した新しいジャズの一部となろうとしている。
この相克の記録こそがMILES SMILESの正体である。ジャケットのマイルズの満足そうな顔を見て欲しい。勝負の行方は明らかなのである。

マイルズは、この後のMiles in the skyやキリマンジャロの娘、そしてネフェルティティとアルバムを追うたび、徐々に自身では作曲もしなくなり、トランペットもあまり吹かなくなっていく。マイルズが目指した、まさに「マイルズの音楽」という独立したジャンルが完成に近づいていくからである。オレが吹かなくてもオレの音になってこそ、マイルズ・デイヴィスの音楽なのさ、と言えるところまで追い込んでいるのだ。そしてそれは、このMILES SMILESで「フリージャズとの対決」を余儀なくされたことで、それがいくらフリーと銘打たれていても新しいフリージャズという括りを作るだけなのであって、本当に我々に必要なのは、真に我々にしか作り得ない音楽を作っていく事しかないんじゃないのか、ということに気付いたからではないかと思うのだ。
音楽に限らず、美術や文学にもおそらく共通する、それは芸術というものがこれほど長い間人間の心を魅了し続けてきた「動機」だろう。

2013年1月8日火曜日

【音楽エッセイ】中古レコード漁りで見つけた「ダイレクト・カッティング盤」の魅力

中古レコードを漁りに行く


久しぶりに中古レコードを買いに出かけた。

いつも行くのは狸小路7丁目のフレッシュエアーというお店。
クラシックは極端に少ないが、ジャズ・ハードロック・プログレ・SSW・AOR・日本の古いロックやポップスなど、バランスが良く、手頃な価格で盤質の良いものが揃っている。

自分自身が成長していく過程でいろいろな音楽の存在に気付き、そのそれぞれから少なからぬ感銘を受けてきた。
それは現在の音楽がどのように成立してきたのかという歴史を追っていて発見したもので、そうして培ってきた音楽の見方が、自分で曲を作る時の大事な指針になっているし、僕にとって音楽を聴くという行為そのものが、過ぎてきた日々のすべてで今の自分なのだということを再確認する大切な時間にもなっているのだ。
だから、こういうバランスの良い品ぞろえの店が有難いのである。

今日のお目当て:ジャズギター探求


さて今回のお目当ては「ジャズ」だ。ここしばらく、まだ聴き始めて日の浅いクラシック音楽を集中的に聴いてきたのだが、ジャズギターが好きなのにレコードでは全然持っていないことに気がついたので、大好きなジム・ホールと初期のウェス・モンゴメリーを仕入れようと出かけた。

入店早々ジム・ホールのダイレクト・カッティング盤(演奏をテープに録らずにそのまま原盤にカッティングしていく方法)をいきなり発見!幸先いいぞ。
続いて名盤の誉高いウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリーのハーフ・ノート・ライブが!欲しかったんだよなあ、これ。

マイルズに大散財


二枚の戦利品を手にふと横を見ると、あれ、この間はなかったマイルズ・デイヴィスの「キリマンジャロの娘」があるぞ。

ジャズ史に残る重要盤「ビッチズ・ブリュー」への重要なステップとされる盤だが、なぜかアナログの入手が難しい一枚。確かにこれだけ他の盤の4倍くらいする。うーむ。

さらにこの時期のマイルズの音楽性が変化していく様子がわかる「マイルス・イン・ザ・スカイ」「マイルス・スマイルズ」も揃っているではないか。こうなるとお目当てはギターなどと言ってはいられないのだ。もうまとめていくしかないではないかあああ。大散財ではないかああああ。

本当は、エリック・アンダーソンの未CD化作品などの掘り出し物なんかもあったのだが、今回はあきらめて、ジャズのレコード5枚をまとめてレジに持って行き、大枚はたいて家路を急ぐ。

ダイレクト・カッティング盤の音質は?


さっそく初めて聴くダイレクト・カッティング盤であるジム・ホールの「無言歌」を湿式クリーナーで磨いてターンテーブルに載せる。


ジム・ホール、45歳の時の来日に合わせてキングレコードのスタジオで、日本の印象を元に作曲したオリジナルなどを演奏し、それをダイレクトに原盤に刻み込むという企画だったようだ。

これは生々しい音だなあ。目の前で演奏しているみたいだ。
二曲目のエコーという曲は新幹線の「こだま」に乗っている時に思いついた曲だそうだ。こだま、でエコーね。そのまんまだね。

このタイトルの気軽さが、このアルバム全体を貫くトーンになっていて、いつものちょっと冷たいくらいなクレバーさよりも、むしろ程よい緊迫感漂うプレイがこのアルバムの身上か。こういうのもいいですね。

それにしてもダイレクト・カッティング、なんと曲間もカッティングマシーンを止めることは出来ず、片面分吹き込むまで演奏を止めることが出来ないんだそうな。
どうりでちょっと曲間長いのね。
つまりスタジオ・ライブなわけで、そりゃ納得の張り詰めたプレイなのですな。

30,000枚の限定プレスだったそうなので、中古レコード店で見かけたらぜひ救出してやってください。

2013年1月7日月曜日

アナログレコードとCDの音は「違う」のか

アナログレコードとCDの音は「違う」のか


グレン・グールドの弾いたブラームスの間奏曲集がアナログレコードで復刻されたので買ってみた。

曲自体は、6年ほど前にNHK-BSプレミアムのクラシック倶楽部で、アファナシェフが弾いているのを聴いて素晴らしいと思ったので、彼の録音でCDを買った。

そのCDの解説に坂本龍一氏がグールドによる同曲の演奏を「水墨画のような」と評しているのがどんな音なのか興味があって、坂本龍一編集盤を買ってこちらも聴いていた。

今回買ったレコードは、その坂本編集盤と同じマスターからカットされたもののようで、全く同じ音がする。

同じでいいのである。いや同じでなくては困るのだ。



アナログレコードを買う理由


はて、レコードとCDが全く同じ音なら、何故わざわざ扱いの面倒なアナログレコードを買うのか。
これはいくつか理由があるが、数年前までは、その時点でまだレコード同等の音が出ているCDが少なかったから、というのがメインの理由だったと思う。

初期CDの音質


レコードで聴いた懐かしい音楽をCDで買い直すと、確かにノイズは無いし、扱いやすいのだが、持っていた普及クラスのCDプレーヤーでは音の実在感に乏しく、大好きな佐野元春のCafe BohemiaをCDで買い直した時には本当にがっくりきた。

毎晩夢中になってヘッドフォンをかけて、ボリューム上げて、居ても立ってもいられなくなって、鏡の前でギターを持って「エア・モトハル」をやらずにはいられなくなってしまうほどの情熱は、その12cmの音盤からは届いてこなかった。

進化するCDの音|名盤のリマスター


その後、CDの世界にも経験が蓄積され、いい音のCDが作れるようになってきた。この10年ほどは名盤のリマスターが相次ぎ、ずいぶん散財させられた。
それでも最後の一歩、アナログ信号が変換されずにそのまま出力されるレコードの優れた「ココロを震わせるチカラ」に及ばないように思う。

アナログ再生を心震わすものにする「枯れた」技術


もうひとつの理由は、アナログ再生の技術が「枯れた」技術であるということにある。
同じ音を再生するために必要な技術が、アナログレコードの場合は既に充分成熟している。
新しい機構を採用した機種も開発されていはいるが、既存の技術で充分優れた音が出ていると思う。
そういったトラディショナルな機種はしっかりと作られた中級機と細部に拘り抜いた高級機との間で価格差ほどの音質差が出なくなる。だから僕にとってアナログはコストパフォーマンスに非常に優れたオーディオ・デヴァイスなのだ。

デジタルデータの音楽化にはまだまだ進化の余地があり、かつどこまでいってもそれはアナログよりも複雑な技術にならざるを得ないということなのだと思う。
だからもしかすると、コストを限りなくかけていけば、満足のいく音像が得られるのかもしれない。
 
事実、オーディオ試聴会でエソテリック社の精密なマスタークロック機器をCDプレーヤーに接続した時の音の変化は目を(耳を?)見張らせる効果があり、あの世界にはまだ無限の可能性があるようにも感じられた。
しかし、数百万円から下手をすれば一千万円を超えてしまうそれらの装置は僕のような男には逆立ちしても手の届かないものだ。そこに何の意味がある?

幸い、市場にはLPレコード黄金時代の名盤たちが手頃な価格で流通しており、驚くほど多くの新譜がアナログレコードで発売されている。僕はまだもう少し、子供の頃から音楽の素晴らしさを教え続けてくれたアナログレコードというメディアを大切にして生きていこうと思っている。

【Anthologies #1】心に澱が積もる夜には|大貫妙子『ライブラリー』

 還暦を過ぎ、いつの間にか貪欲に新しい音楽を探すことはなくなった。 それでも、日々を生きていれば音楽に頼りたくなることはあるものだ。そんなとき聴きたくなるのは、アーティストたちの人生が垣間見える<アンソロジー>で、いくつか愛聴盤がある。 誰かの心無い言葉や、諍いに心に澱が募るよう...