筒井康隆の「時をかける少女」は、何故あんなにもたくさんのリメイクを生むのだろうか。
原作に忠実だった原田知世主演の映画は、しかし原田知世という女優の存在の儚さが、時間の中を旅しながらも現実を変えていかない、という見事なイメージを獲得していた。
細田監督のアニメ版は、原田知世の演じた「元祖:時をかける少女」の姪を登場させ、彼女の喪失と成長の物語として描いた。
仲里依紗主演の映画は、「元祖:時をかける少女」の娘を主人公とし、元祖未来人も登場して、正統な続編として描かれた。元祖に安田成美をキャスティングした時点であの映画の成功は約束されていたと思う。うん、きっと彼女はあのように成長したはずだ。
いずれの物語も、コニー・ウィリスの言うところの「時代人」とのかなわぬ恋が全体の枠組みを作っている。
現実の世界で時間を移動する術はない。
だからそれはどうしても概念的でピュアな悲恋にならざるを得ない。
悲恋を描くにこれ以上の舞台はないのだ。
と、ばかり思っていたらとんでもないダークホースが現れた。
法条遥の「リライト」だ。
こちらは映画ではなく、文学。
バッドエンド版「時をかける少女」と銘打っていたが、読んでみてあまりに文字通りなのに驚いた。
なにやら人気のない教室に未来人が突然現れるし、タイム・リープ時にはラベンダーの香りに包まれちゃう。
そのまんま「時をかける少女」だ。
で、もう最後はあらゆる意味で救いがない。
それでもやっぱり悲恋なんだよなあ。
成就したからこその悲恋。
生理的に受け付けない人もいるんじゃないだろうか。
この後の続編がもう出ていて、最終的に四部作になるという。
読むかどうか、今迷っている。
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