幼稚園から高校までを釧路で過ごした。
めったに映画の舞台になるような街ではない。
だから、エラリイ・クイーンの「災厄の街」を翻案して釧路で撮影された「配達されない三通の手紙」を僕は、すこし贔屓目に見ているかもしれない。
だが、外国の小説を日本を舞台に置き換えることで、なにかこう他人事でないリアリティを感じて大好きな映画だ。
だからデイヴィッド・ゴードン原作の「二流小説家」を日本に舞台を置き換えて、上川隆也と武田真治で映画化すると聞いた時からとても楽しみにしていた。
実際に観てみると、もうこれは翻案とかいうことは関係なく、非常に素晴らしい映画に仕上がっていて、原作に大きく心動かされたものとしてとても嬉しかった。
舞台を日本に持ってきたことが、この物語を母性の物語にした。
むろん主人公に文学への情熱を与えたのが母であった。
そして最初の著作は母の名前で発表されさえした。
その母は亡くなってさえ、常に彼の文学の批判者として機能しつづけた。
殺人者の人格を形成したのも、美しい母であった。
殺人者がインタヴュアーに語った最初の言葉は「君の母は美しいか」だった。
娘を殺害されて慟哭する母は、まったく理解できなくなったひきこもりの娘に対しても自身の母性から逃れることは出来なかった。
世界の近代化に連動して、王権は政府と官僚機構が担うようになり、家業は企業となり大きな組織になった。経済は国家さえも超えて地球全体を組織化した。
その中で垂直的な統合のシンボルだった父性は、本来の意味を失った。
だから、社会を問題にフィクションを描く時、社会の変化は父性の変容や喪失に仮託して語ることが出来る。
だが、母性は人間の存在そのものに纏わりついていて、不変だ。
だから「二流小説家」の人々は終始「母」の存在に影響を受けつづける。
そしてその逃れられないものと様々な方法で向き合うのだ。
原作との違いで注目すべきところは、他にもある。
物語の容れ物が小説から映画に変わっている、ということだ。
原作では舞台そのものが小説であるわけで、だから、作家的心境こそが終着点になっている。
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「推理小説を書くにあたっていちばん厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」
「真の不安と危機感とは、先の見えない“いま”をいきていることからこそ生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰りかえされることがない。ぼくらにわかっているのはただひとつ、それがいつかは終るということだけだ。」
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原作ではこのように書かれ、人生と文学を重ねあわせながら、二流小説家と天才芸術家の相克を、それでも人はいつか死ぬという制約に着地させて語り切る。
終わりのある「虚構」によって、明日も続いていく日々を組み上げる作家という仕事の苦難と覚悟。
それが原題の「Serialist」(連載作家)の真意であり、だからこそ対比された天才芸術家の人生を終わらせるのは死刑でなければならなかった。
映画というメディアでは、このような文学的手法に頼ることはできない。
が、そのぶん人間と人間がぶつかりあっている様子を直接映像で見せることができる。
我々の脳の中には「ミラーニューロン」という特殊な神経組織があり、目に見えている同族がうまそうなものを食べていれば、「うまい」と感じたときに発火するニューロンが、食べてもいないのに発火し、殴られているところを見れば、「痛い」ときの気持ち(痛覚の再現ではなく)のニューロンが発火するようになっているそうだ。
このモノマネ細胞と呼ばれる神経組織の働きで、我々は視覚から他者の痛みをまるで自分のことのように知ることができるのである。
だから、文字によって高度に抽象化された観念を通じて文学から得られる何かが、あくまでも自分の中にある何かであるのに対して、視覚情報を付与された映画から得られるものは、俳優の想像力というフィルタを通したものになる。
だから、狭い取調室で徐々に激しさを増す、名優上川隆也と武田真治の取調室での息詰まる対決から、我々は抑えきれないほどの心の動揺を感じるのだ。
上川隆也は声のいい俳優だ。
二流小説家として社会に遇し続けられてきた抑圧から、天才芸術家によって呼び覚まされていく「書きたい」という情熱が彼に出させたあの叫びは、凡人として日常を送る我々には出せない声なのであって、上川隆也の舞台で鍛えられた声が我々の脳の奥深くを発火させてくれる。
サイコキラーを演じさせてこの人の右に出るものはない武田真治の、即興的で美しい「狂気」の解釈だって、我々が日常の中で獲得することができないもので、これを直接脳を発火させて二人の対決を見るからこそ、その対決が結局あがいても超えられない壁を必死で壊そうとする自分の過去との戦いであることを身にしみて知るのだ。
原作は小説家を題材にした小説だった。
だから必然的に人間と文学の関係を描いている。
それを原案として映画を作ったからこそ、僕らは映画というものが、監督の、そしてそれ以上に、演じている俳優の一挙一投足から感じ取る脳の発火によって、抽象化されない生身の懊悩を心に刻み込む芸術なのだと知ることができる。
この作品は、映画という芸術の特性をあらためて浮き彫りにしてくれた。
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