戦争の映画が嫌いだった。
合法的な殺人などない、と思うからだ。
今は少し考え方が変わった。
それでも、死刑を行う国は存在するし、戦争だってちっとも無くならない。
それどころか、憲法を変えてまで戦争ができる国家にしようぜと政治家が言い出してるのに、そいつらを選挙で勝たせる国まである。
だから、戦争の映画は必要なのだ。
きっと目で見ないとわからない人もいるのだ。
その点、「地獄の黙示録」なら、うってつけだ。
戦争よりもサーフィン大事の指揮官はワルキューレの騎行を大音量で流しながら、残忍な殺戮を行うし、河でベトナムの船を見つければ、機銃斉射しておいて負傷者を病院に運ぶ。
戦争の現場は残忍で不条理で、人間はそこに普通の神経で立っていることは出来ない。
僕らのよく知っている戦争は政治家が机の上やら会議室で作っているのだ。
だが、この映画は戦争とは関係ない文学作品を原作に作られた。
ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」という、この映画の原作小説は、象牙貿易で絶大な権力を握ったクルツという人物を探しに、アフリカ奥地へ河を遡るマーロウの旅の顛末を描いて、ヨーロッパ帝国主義の植民地支配の実態を暴く物語であった。
密林の奥で現地人の信仰を集め「王」となったクルツ。
それが「地獄の黙示録」のカーツ大佐だ。
そしてカーツ大佐には、もう一人のモデルがいる。
ベトナム戦争では、北ベトナムが南のベトコンを支援するためにラオス・カンボジアを通って物資を送った。これをホーチミン・ルートという。
これに困ったアメリカは、山岳地帯を機敏に動くラオスのモン族の機動力に目をつけ、高い報酬でモン族を雇い特殊攻撃部隊を組織した。
この時送り込まれたのがトニー・ポーという男で、結局モン族の王女と結婚し王様となった。
「闇の奥」をベトナム戦争の物語に翻案するために使われた、カーツ大佐のもう一人のモデルだ。
この時、アメリカに協力したモン族は国を失い、十万人を超えるモン族がアメリカに亡命
した。モン族の亡命者たちが移住した町を舞台にしたのがクリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」なのだが、それはまた別の話だ。
この映画のクライマックスは、もちろんウィラードとカーツ大佐の対決だが、その対決の直前、カーツ大佐の机に置かれた「金枝篇」が明示的にスポットを浴びる。
むろん「王殺し」の示唆だ。
金枝篇での「王殺し」は、集落を護っている王の呪力を永続させるために行われる。
王の力が弱まってきたら呪力が完全に失われてしまわないうちに殺してしまい、殺したものに呪力を移すという儀式なのだ。
だからカーツを討ち、民の前に姿を現したウィラードを見て人々が次々に武器を捨てたのは、彼を次の王に承認するという意思表示だろう。
立花隆氏が言うような、この映画の平和主義的側面というのとは違う、と僕は思う。
コッポラは撮影して一度はラストシーンに組み込んだカーツ砦の爆破シーンを公開直前に削除したそうだ。
それまでのウィラードの言動から考えれば、「オールマイティ」に砦を焼き払わせるのが自然に思えるが、こちらがコッポラの意思をより忠実に反映したものだと考えると、ウィラードはすべてを焼き払うことによってこの一件を終わりにせず、自らが新しい王となって「自分の」王国を作りに旅立ったのだろう。
「闇の奥」でのマーロウ(=ウィラード)は、クルツを看取った後、生き抜いて、河を離れることなく生き抜いてクルツへの忠誠を示す。
ウィラードもまた、生き抜いて、戦いの泥沼を離れることなく生き抜いて、この世界に戦争が絶えることがないように、今もまだ呪いをふりまき続けているのではないか。
事実この作品のウィラードとカーツの対決シーンから、村上春樹「1Q84」の青豆と教祖の対峙を想起しなかった人はいないだろう。
また、伊藤計劃の「虐殺器官」の精神的バックボーンとなって、我々に戦争の狂気の存在を伝え続けているではないか。
だからこそ、この物語は「黙示録」を名乗っているのだと思う。
怖ろしい。怖ろしい。
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