真空管アンプとタンノイのスピーカーを買ってから、一時期集中的にクラシックを聴いた。
いろいろ聴いたが、僕にはベートーヴェンの楽曲が面白かった。
小さな、ほとんど音階的な意味を持たないフレーズを作って(「運命」のジャジャジャジャーンを思い出して欲しい)、その小さなピースを縦にずらしたり、横にずらしたりして幾重にも積み重ねて、楽想を作り上げ、そこにその時代で許されないギリギリの不協和音を忍び込ませて、新しい地平を切り拓いていく。そういうイメージがあった。
だからベートーヴェンの楽曲を聴く時はいつも、その「小さなピース」を探すことから始めた。
聴き進めていくうち、弦楽四重奏の第14番、作品番号131が耳に止まった。
第一楽章冒頭、小さなピースがあからさまに第一ヴァイオリン、第二バイオリン、ビオラ、チェロと追いかけるように重なっていくのだが、うまく重なりあっていなくて、ハーモニーが美しくとれていないように聴こえるのだ。
「考えすぎだな」と思った。
楽曲が進んでいくとあろうことかズレは増大していき、ハーモニーはますます複雑になっていく。しかしある時点から、ピースの転換点である印象的な最低音の位置が揃ってくる。
絶望さえも想起させるその低い音が四重奏団の中を貫いて、ついには全体でぴたりと揃ったピースが弾かれ、聴いている者の心を刺し抜いていく。
ああ!凄い曲だ!
そう思って以来ことあるごとに、長く難解なその楽曲を愛聴してきた。
だから、「25年目の弦楽四重奏」の予告編を見た時、冒頭のちょっとズレているように感じたピースの重なりが、細かいところまでどのように設計されているのか「見えた」ような気がして、この楽曲のより深い理解に繋がるのではないか、と劇場に足を運んだ。
この曲は1826年、作曲家の死の前年に書かれた。
この時期のベートーヴェンは大きな家族問題を抱えていた。
生涯独身だったベートーヴェンだが、甥カールを溺愛していたことが知られている。
弟カスパル・アントン・カールが亡くなると裁判に訴え未亡人ヨハンナからカール少年を奪い養子にして育てた。
カールは成長し、乱暴で極端な正確のベートーヴェンを嫌うようになり、この弦楽四重奏14番の作曲中のベートーヴェンを殴って飛び出し、ピストル自殺を図る。
幸い自殺は未遂に終わり、心機一転兵役につくのだが、そうまでされたベートーヴェンは、しかし作曲し終えた傑作中の傑作、弦楽四重奏14番をカールが所属する陸軍の元帥に献呈するのである。
わだかまりは薄れ、病の床についたベートーヴェンをカールは献身的に看病したという。
ベートーヴェンは殆どの作品において、形式的にも内容的にも「実験」を行なってきた作曲家だが、14番は飛び抜けて前衛的だ。
そしてその前衛性の最たるものが、7つもの楽章がすべて連続で演奏され、切れ目がないこと。
楽団はそれぞれがチューニングが狂い続ける楽器を抱えて、この難解な楽曲のハーモニーを維持していくことを要求されている。
映画の中でクリストファー・ウォーケン扮するチェリストのピーターのセリフに、
「我々も長いこと休みなく演奏を続けると調弦が狂ってくる、それぞれ違う形で」
「演奏をやめるべきか」
「それとも調弦が狂ったまま最後まで互いにもがき続けるか」
とある。
ベートーヴェンは、自身の家族が時間という試練に晒されて軋んでいった様を弦楽四重奏14番に反映させていったのだろうか。
映画の中の四重奏団も、25年の演奏活動の中で軋みを見せていた。
チェリストの病気をきっかけに、楽団はボロボロと崩れていく。
それでも、時折
「音楽に集中しろ」
「音楽に敬意を払え」
「音楽は祈りだ」
といったセリフが現れ、現実の人間関係と、演奏家として音楽を奏でるということは違うのだ、と意識させる。
事実、映画はこれといった決定的な解決を見せないまま、演奏会に突入し、信じられないような素晴らしい演奏が繰り広げられ、その徐々に調弦が崩れていくのに楽曲全体が調和していくという奇跡のような弦楽四重奏14番の魔力の中で、すべてのわだかまりが溶けていく。
結局この映画は、晩年の楽聖ベートーヴェンが残した魂の咆哮に、俳優やスタッフが見事に応えたもの、といえるのではないだろうか。
第二バイオリンのロバートは、バイオリニストを目指す娘に、
「シューベルトの最後の望みを知ってるか」と問う。
シューベルトは死の床で、ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番、作品番号131しか聴きたくないと言い、死の5日前に演奏させた。
「その時、死にゆくシューベルトの前で演奏するものの気持ちになって弾くんだ」とアドバイスするのだ。
そういう、人生をまるごとつぎ込んで後悔しないほどの深みと力強さをこの時代の音楽は持っていたと思う。
200年ちかく経ったのに、未だその情熱は我々を動かしている。
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