僕が少年時代を過ごした釧路は、二百海里以降ずいぶん変わってしまった。
それまでの釧路は遠洋漁業の基地として豊富な水揚げを誇り、揚がった魚を加工する工場も潤ったし、なにより一回の漁でちょっとした小金持ちになる漁師さんたちが街の消費を刺激して、猥雑で貪欲な活気に充ちた街にしていた。
それが1977年に改正された領海法と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、遠洋漁業の漁場は大幅に制限された。
太平洋炭礦の閉山もあり、徐々に釧路の街は活気を失っていった。
同じようにオイル・ショック以降、アメリカの自動車産業を支えてきた街もずいぶん変わってしまっただろうと思う。
クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」は、そういう街のひとつ、デトロイトの湖畔のグロス・ポイントを舞台にした物語だ。
イーストウッド自身が演じるコワルスキーは、72年にフォードの組立工としてグラン・トリノのハンドルを作っていて、それをいまでもピカピカに磨いて大切にしている。
その翌年の1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。
これを受け10月16日に、OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6ヶ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。
オイル・ショックだ。
これ以降、燃費がよく壊れにくい日本車に人気が集まるようになり、大型で燃費の悪いアメリカ車は売れなくなった。
72年型グラン・トリノはアメリカ自動車産業の最後の輝きと言えるだろう。
そしてグロス・ポイント地区も自動車産業で金持ちになった人々のあこがれの高級住宅地だったのだが、自動車産業がダメになるとみんな職を求めて違う州に引っ越してしまう。
代わりに白人以外が住みついて、仕事もないので犯罪が増え、荒れ果てたギャング地帯になってしまったのだ。
おまけに手塩にかけて育てた息子はこともあろうに、自分の仕事を奪ったトヨタのセールスマンなどをしているという。
しかしそれでもコワルスキーは引っ越したりはしない。
名前からもわかるようにコワルスキーはポーランド系だが、このような非WASPの移民が初期のアメリカ自動車産業を支えていた。
彼ら移民者は貧しく教育も受けていなかった。英語も満足に話せず、カソリックや東方正教徒の彼らは宗教習慣の違いにも苦労したことだろう。
その子供たちである第二世代はフォードが開校した職業学校に通って、昼は勉強、夕方以降は工場で働いたのだそうだ。
このようなやり方は、第二世代の彼らに強い忠誠心を植え付けたと思う。
朝鮮戦争で陣地を守り通すことにも発揮された、このロイヤリティがコワルスキーをこの場所に縫い止めているのだ。
ところがそんな彼の家の隣に、モン族の一家が引っ越してくる。
モン族はラオス一帯に住んでいた少数民族だ。
ベトナム戦争では、北ベトナムが南のベトコンを支援するためにラオス・カンボジアを通って物資を送った。これをホーチミン・ルートという。
これに困ったアメリカは、山岳地帯を機敏に動くラオスのモン族の機動力に目をつけ、高い報酬でモン族を雇い特殊攻撃部隊を組織した。
ところがベトナム戦争終結後、アメリカに協力したモン族は国を失い、十万人を超えるモン族がアメリカに亡命したのだ。
モン族はアメリカに利用された被害者で、コワルスキーの、朝鮮戦争でアジア人を大量に殺したという罪の記憶を刺激する。
アメリカへの忠誠心で、その罪の記憶に崩れそうになる自分を支えてきたコワルスキーは、かつて敵だと看做していたアジアの少年の中に、自分と同じコンプレックスや自尊心、どうしようもない怒りの感情や諦め、そういうものを見出したのだ。
だからコワルスキーは贖罪を選ぶ。
コワルスキーにとっては自分自身が「許されざる者」なのだ。
モン族の少年は同じような境遇に置かない。
すべて自分が引き受ける。
引き受けきった後、分身であるグラン・トリノを罪の穢れから引き剥がした。
そしてコワルスキーはグラン・トリノをモン族の少年に遺すのだ。
イーストウッドは、映画「許されざる者」で果たせなかった贖罪をやっと果たせたのかもしれない。
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