ビートルズの初期のアルバムは、リンゴのドラムサウンドが片側のスピーカーからしか聴こえてこない極端な配置だが、だからといってその音楽的価値が後期のものよりも劣るという人はいないだろう。
ロックミュージックでは電気楽器を使っているケースが多く、電気楽器は増幅後の音が「生音」であるため、基本的に増幅時にイコライジングもして、最終的にミックスするときに空間処理して出音とする。
それがコンサート会場であっても、空間的にあらかじめ整えた音をスピーカーから出して聴いてもらうのである。
ギター・ソロになれば音量は卓で上げられ、入念なアーティストは定位も変えているだろう。少なくともU2のギターの音は、コンサートであっても曲によって左右の位置を変えたりしている。
クラシック音楽においては、楽器の生音が、イコール出音なわけで、レコードを聴くときもそれが生演奏の状況を再現しているのが、必然的に「常識」ということになるだろう。
この定位について問題がありそうなレコードが持ち込まれてきたので、検討してみたい。
一枚目はイタリア弦楽四重奏団のモーツァルトのK.499とK.575
一聴、とてもいい音のレコードだ。
近接録音特有の豊かな倍音が溢れ出てくる。
平行法で設置したスピーカーの40度横で聴くと、両側からヴァイオリンの音が聴こえてくる。
どうやら対抗配置にしているようだ。
一般的な弦楽四重奏団では、左から第一、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと配置される。
しかし、両翼にヴァイオリンを配置する方法も無くはない。
事実、ブラームスの時代のヨアヒム弦楽四重奏団は基本的にこの配置を使っていたようだ。
現在でも曲によってこの配置を使っている楽団もまま見受けられる。
バイオリンを両翼配置にしないのは、筐体が小さなヴァイオリンはfホールを観客側に向けられる左側に置いたほうが音響バランス的に有利であるからに他ならない。
しかし、このモーツァルト弦4の特にK.575は途中にチェロの見せ場がある珍しい曲だ。チェロの旋律を前に立たせるために、中央に配置する例は一般的とはいえないが、決してないものとも言えないようだし、この499と575の二曲ではよい効果を発揮していると僕は思う。
なにしろ、モーツァルトよりもベートーヴェンの方が好きだといっては友人を憤慨させている僕が、弦楽四重奏のCDを探しに出かけようと思っているくらいなのだから。
それにしてもこれはいい曲だ。
ぜひ購入して愛聴盤としたい。
次に聴くのは、ベルリン・フィルのソリストたちによる、こちらもモーツァルトのクラリネット五重奏曲とオーボエ協奏曲のカップリング。
これはかけた瞬間、アンプが壊れたかと思った。
主要な旋律楽器がすべて右チャンネルに振られている。
確かにN響のクラリネットの方が吹いたモーツアルトを観たことがあるが、クラリネットは一番右に座っておられた。
だからといってなぜ通常左側に定位されるヴァイオリンまで右寄りになっているのかは不明である。
ソリストは通常指揮者とコンマスの間にいるものだから、中央左寄りに定位されるのが普通だ。
それが極端に右側に立っている。
オーケストラは普通の音に聴こえたたので意図的な定位なのだろうが、その意図はやはり不明である。
二曲とも聴いていると体が右側に倒れそうになる重心の偏った音で、天国的とまでいわれた名曲の美しさを損なっているようで残念なレコードであった。
さて、最後にシューベルトの鱒を聴きたい。
カール・ズスケのエテルナ盤である。
演奏が悪いはずがない。
通常中央に定位されるピアノが右端に定位されているが、これはカブりを少なくするためにままある定位で、僕が持っているCDの中にもこういう定位はあるし、全体に違和感をもたらさない。
それにしてもこの盤から出てくるコントラバスの倍音はどうだ。
部屋の基底部がどよんと揺れるような気がするくらい豊かな音が出てくる。
いつも聴いているデッカのスピーカーズコーナー復刻盤にはこんな低音は入っていない。
しかしこのデッカ盤はまるで近接マイクで録音したような瑞々しい各楽器の音が魅力で、スピーカーから出た後の部屋の響きを加味して聴く自然さが、シューベルトが自分の友人との川遊びのために書いたというこの曲の親しみを感じさせて大好きなのだ。
ズスケ盤は少し遠くにマイクを構えて、ホールが響く余韻まで余さず録ったという感じの音だ。
立派な楽曲に聴こえる。
でも僕の小さなリスニングスペースにやはりこの音は再現されない。
残念ながら。
だからぐっと演奏に心を寄せて聴く。
そうすると、演奏者の高い力量がそれに応えてくれる。
これはそういうレコードなのだろう。
これが再生芸術の奥深さなんだよな、きっと。