「日本のロック&ポップス・アルバム名鑑1979-1989」を読んで、過ぎ去りし若い日に夢中で聴いたレコードのことを思い出し、片岡義男さんと小西康陽さんの「僕らのヒットパレード」を読んで、ジャンルとか定評なんかにこだわって、愛すべきはレコードというメディアそのものなんだということを忘れかけていた自分の愚かしさを恥ずかしく思う今日この頃なのであった。
札幌はようやく雪も溶け、まだ風は肌寒いものの、この時期週末に晴れるのは久しぶりのことで、宿酔いでも無かったので思い立って中古レコード屋に出かけてみた。
きっかけがきっかけなので、なるべく日本の80年代近辺のレコードがあるところがいい。
と、なるともうここしかない。
白石の隣「南郷7丁目」の文教堂さん。
同名の大型チェーン店とは無関係の、町の古書店といった佇まいのお店である。
地下鉄東西線の「南郷7丁目」駅の3番出口を出ると、すぐ目の前に立地しており、交通至便。
在庫の中心は洋楽のロックで、次いで邦楽ロック、というところが特徴だと思う。
ジャズは少ないが、極めて「まとも」な品揃えで、マイルズやエヴァンスやコルトレーンに頼らず、何年かかけてひととおりジャズを聴いた人が次に買うべきレコードを揃えているようだった。
クラシックもあったが、量は少なく、こちらは初心者なので品揃えの良し悪しはまるで見当がつかない。
以前、特別な一枚と書いたDU PLEXのWITH MY HEARTの「二枚目」は、このお店がヤフオクに出品したものを落札したものだが、札幌のお店であることを知って直接取りに伺った。
その日は、あまり時間がなくて隅々まで見ることができなかったが、雑多で未整理なエサ箱(レコードを陳列する箱をこのように呼んでいます)にはお宝が眠っていそうな雰囲気に溢れていた。
お目当ての安部恭弘は、名盤の誉高い「SLIT」こそ無かったが、昔よく聴いていた「TUNE BOX」を見つけた。素晴らしいアルバムだが、これはCD化されているのだろうか。
そして「日本のロック&ポップス・アルバム名鑑1979-1989」で布袋寅泰さんと大村憲司さんのギターバトルが収録されていると書かれていて、よく聴いていたのにそんなことにはまったく気が付いていなかった中島みゆきさんの「Miss M」も見つけた。
で、おどろくべきことにどちらも300円台で売っていた。
ジャケはどちらもシュリンクが残っていて美麗。帰って聴いてみたところ、盤質も極めて良好であった。
僕がエサ箱を漁っている最中にも、文化人然とした身なりの少壮の人がダンボールに詰めたレコードを持ち込んでいた。
エサ箱の下には、まだ陳列されていないレコードが山ほどあったし、良心的すぎる値付けに応えるためにも定期的に覗いてみる必要のある店と認識した次第だ。
ところで、Miss M購入のきっかけとなった、アルバム名鑑に寄稿された「ノスタルジアでの布袋寅泰と大村憲司のキレキレのギターバトル」という松山晋也氏の講評だが、ライナーによると、ノスタルジアは布袋寅泰と松原正樹による演奏となっており、ギターソロは無い。確かに左右のチャンネルで異なるリズムを奏でていて緊張感の高い好バッキングだが、バトルという趣ではない。むしろこのアルバムから感じるものは、バックがどうであろうと関係ない「中島みゆき」という音楽性の強固さである。
蛇足だが、念のため付記しておく。
2014年4月13日日曜日
2014年4月5日土曜日
音楽大衆化の時代に、僕はレコードコレクターの魂を知る
最近、昔のようにはCDを買わなくなった。
世界的に見ても、CDの売上は落ちてきていると聞く。
海外では音楽ストリーミングのサーヴィスが充実していて、海外単身赴任中の友人などは音楽を紹介するとAmazonで買ったりせずにSpotifyでささっと検索して聴いている。
日本ではYoutubeで充分だという声も聞く。
確かにYoutubeの音楽ライブラリは非常に充実していて、しかも無料だ。
鬱陶しいコマーシャルは入るが、検索して聴くという物理性の無さもスピーディーでいい。
先日先輩にダリル・ホールの番組がYoutubeに上がっていると教えてもらい、大ファンの僕はもちろん早速検索してたくさんの曲を観た。
その中に、ダリル・ホールのオリジナルかと思うような素晴らしい曲を歌う女性シンガーソングライターを見つけた。
ダイアン・バーチのNothing But A Miracleという曲だった。
これはすごい曲だ!と思って、昔気質の僕は電車に乗ってタワーレコードにでかけて彼女のファーストアルバムを購入した。
ところが、CDで聴く彼女の歌はYoutubeで観たのとは違って、なんだか平板だった。ダリル・ホールの向こうを張って充分な存在感を見せたあの“ソウル”は感じ取れなかった。
故佐久間正英氏が、生前、近年の音楽業界ではレコーディングに充分なコストと時間をかけられなくなったと嘆いていた。
あのドナルド・フェイゲンだって、スティーリー・ダンの頃のようにはレコードは売れない。だからスタジオにこもって妥協ない作品を作るなんて贅沢はできない。そんな暇があったら世界中を回って演奏をしなくてはならない、と言っていた。
もしかしたら、ダイアン・バーチもあまりクリエイティブでないレコーディング現場にノリ切れず、レジェンダリーなアーティストたちとの共演となるダリル・ホールの番組収録では、本来の力を発揮した、ということなのかもしれない。
もちろんこのような状況は、構造的にCDが売れない環境になったから起きたことで逆ではない。しかし、CDの売上減少に加速度をつける役割は果たしているのかもしれない。
こうして音楽を「購入する」時代は終わり、その影響は制作コストに跳ね返ってくる。
新しい音楽を作る商業的なモチベーションは失われ、握手券やコンサートチケットとの併売モノや、過去の名曲たちのカバー・アルバムを売り出すようになった。
一方でニコニコ動画のような新しいプラットフォームから、プログラミングと自宅録音とアニメを融合した次世代のコンポーザーである「P」が登場し、メジャーに起用されていく。
音楽は今、本当の意味で<大衆化>したのだ。
そしてそれは、あくまでも大衆化なのであるからして「音楽が好きだ」というだけでなく、音楽を生活の中の最も大切な「趣味」としてきた、いわばマニア的人間にとっては、ほとんど影響がない、とも言える。
事実、この音楽大衆化の時代においても、我々のような音楽「収集家」のやっていることは結局あまり変わらない。
我々はいまだにLPレコードで音楽を聞いて、ジャケットを眺めてはニヤニヤし、盤を磨いている。
周りにいる音楽収集家には、街のCDショップのようなところには、もう何年も行っていないという人が多い。新しい音楽を追いかけなくても、一生かけても聴ききれないほどの“名盤”が世の中にはあるし、だいたい人が名盤のお墨付きをつけた盤を「収集家」は好まない。
最近買った、「僕らのヒットパレード」という本には、レコード・コレクターに関するこの種のエピソードが満載で実に愉しい。
共著者のひとり、ピチカートファイブの小西康陽氏は、年下のレコードコレクターである友人が、大海晴彦という歌手の「花園町哀歌」というレコードのジャケットが大好きで見つけるたびに買ってしまうというエピソードを披露し、逆にその曲が哀愁ただようムード歌謡であることを知っている小西さんにとっては、内容を知っているゆえに買うことが出来ないという意味で、自分はずいぶんと不自由なコレクターだ、と言っている。
音楽を聴かずにジャケットだけを鑑賞しながら、頭のなかに浮かぶ想像の音を楽しむほうが、ときにはずっと素晴らしいとまで。
音楽とカバーアートは小西さんの中では、それぞれが欠くべからざる「レコード」というものの一部で、まったく同格なのだ。
もう一人の著者、片岡義男さんに至っては、音楽とカバーアートの比重は完全に逆転している。いわく、美脚レコードは、脚が綺麗なほど音楽もいいよね、となる。
だから、彼らは買う。
とにかく買う。
本に出てくるレコードはみんな数百円のレコードだった。
きっとすっごい美脚ジャケのレコードだったら、どんな高値でも買うんだろうけど、誰かが言った「名盤」なんかには興味がない、と書いてあった。
最近僕の中で、存在感を増している湯浅学さんという評論家が編んだ「嗚呼、名盤」というディスクガイドがある。
湯浅さんと鈴木慶一氏との対談が掲載されているが、その中で、ジャズなんかで、レコードの裏を見て、あ、ベースが誰で、ピアノが誰だ、じゃあ名盤だな、という「じゃあ名盤」が多すぎるんじゃないかという話があった。
ジャケの良し悪しでレコードを買い、それを愛で、出会いを寿ぐことのほうが、人の名前でレコードを買う「じゃあ名盤」よりもまともな感覚に思えるのは、もしかしたら小西さんと片岡さんの文章の美しさに目が曇っているせいかもしれない。
それでも「僕らのヒットパレード」のあとがきに寄せられた小西さんのこの言葉は、胸に刻んでおきたいと思う。
付け加える言葉は何もない。
そのようなレコードコレクター魂を僕もいつも心に抱いていたいと願うまでだ。
世界的に見ても、CDの売上は落ちてきていると聞く。
海外では音楽ストリーミングのサーヴィスが充実していて、海外単身赴任中の友人などは音楽を紹介するとAmazonで買ったりせずにSpotifyでささっと検索して聴いている。
日本ではYoutubeで充分だという声も聞く。
確かにYoutubeの音楽ライブラリは非常に充実していて、しかも無料だ。
鬱陶しいコマーシャルは入るが、検索して聴くという物理性の無さもスピーディーでいい。
先日先輩にダリル・ホールの番組がYoutubeに上がっていると教えてもらい、大ファンの僕はもちろん早速検索してたくさんの曲を観た。
その中に、ダリル・ホールのオリジナルかと思うような素晴らしい曲を歌う女性シンガーソングライターを見つけた。
ダイアン・バーチのNothing But A Miracleという曲だった。
これはすごい曲だ!と思って、昔気質の僕は電車に乗ってタワーレコードにでかけて彼女のファーストアルバムを購入した。
Diane Birch
S-Curve Records (2009-04-27)
売り上げランキング: 26,571
S-Curve Records (2009-04-27)
売り上げランキング: 26,571
故佐久間正英氏が、生前、近年の音楽業界ではレコーディングに充分なコストと時間をかけられなくなったと嘆いていた。
あのドナルド・フェイゲンだって、スティーリー・ダンの頃のようにはレコードは売れない。だからスタジオにこもって妥協ない作品を作るなんて贅沢はできない。そんな暇があったら世界中を回って演奏をしなくてはならない、と言っていた。
もしかしたら、ダイアン・バーチもあまりクリエイティブでないレコーディング現場にノリ切れず、レジェンダリーなアーティストたちとの共演となるダリル・ホールの番組収録では、本来の力を発揮した、ということなのかもしれない。
もちろんこのような状況は、構造的にCDが売れない環境になったから起きたことで逆ではない。しかし、CDの売上減少に加速度をつける役割は果たしているのかもしれない。
こうして音楽を「購入する」時代は終わり、その影響は制作コストに跳ね返ってくる。
新しい音楽を作る商業的なモチベーションは失われ、握手券やコンサートチケットとの併売モノや、過去の名曲たちのカバー・アルバムを売り出すようになった。
一方でニコニコ動画のような新しいプラットフォームから、プログラミングと自宅録音とアニメを融合した次世代のコンポーザーである「P」が登場し、メジャーに起用されていく。
音楽は今、本当の意味で<大衆化>したのだ。
そしてそれは、あくまでも大衆化なのであるからして「音楽が好きだ」というだけでなく、音楽を生活の中の最も大切な「趣味」としてきた、いわばマニア的人間にとっては、ほとんど影響がない、とも言える。
事実、この音楽大衆化の時代においても、我々のような音楽「収集家」のやっていることは結局あまり変わらない。
我々はいまだにLPレコードで音楽を聞いて、ジャケットを眺めてはニヤニヤし、盤を磨いている。
周りにいる音楽収集家には、街のCDショップのようなところには、もう何年も行っていないという人が多い。新しい音楽を追いかけなくても、一生かけても聴ききれないほどの“名盤”が世の中にはあるし、だいたい人が名盤のお墨付きをつけた盤を「収集家」は好まない。
最近買った、「僕らのヒットパレード」という本には、レコード・コレクターに関するこの種のエピソードが満載で実に愉しい。
共著者のひとり、ピチカートファイブの小西康陽氏は、年下のレコードコレクターである友人が、大海晴彦という歌手の「花園町哀歌」というレコードのジャケットが大好きで見つけるたびに買ってしまうというエピソードを披露し、逆にその曲が哀愁ただようムード歌謡であることを知っている小西さんにとっては、内容を知っているゆえに買うことが出来ないという意味で、自分はずいぶんと不自由なコレクターだ、と言っている。
音楽を聴かずにジャケットだけを鑑賞しながら、頭のなかに浮かぶ想像の音を楽しむほうが、ときにはずっと素晴らしいとまで。
音楽とカバーアートは小西さんの中では、それぞれが欠くべからざる「レコード」というものの一部で、まったく同格なのだ。
もう一人の著者、片岡義男さんに至っては、音楽とカバーアートの比重は完全に逆転している。いわく、美脚レコードは、脚が綺麗なほど音楽もいいよね、となる。
だから、彼らは買う。
とにかく買う。
本に出てくるレコードはみんな数百円のレコードだった。
きっとすっごい美脚ジャケのレコードだったら、どんな高値でも買うんだろうけど、誰かが言った「名盤」なんかには興味がない、と書いてあった。
最近僕の中で、存在感を増している湯浅学さんという評論家が編んだ「嗚呼、名盤」というディスクガイドがある。
湯浅さんと鈴木慶一氏との対談が掲載されているが、その中で、ジャズなんかで、レコードの裏を見て、あ、ベースが誰で、ピアノが誰だ、じゃあ名盤だな、という「じゃあ名盤」が多すぎるんじゃないかという話があった。
ジャケの良し悪しでレコードを買い、それを愛で、出会いを寿ぐことのほうが、人の名前でレコードを買う「じゃあ名盤」よりもまともな感覚に思えるのは、もしかしたら小西さんと片岡さんの文章の美しさに目が曇っているせいかもしれない。
それでも「僕らのヒットパレード」のあとがきに寄せられた小西さんのこの言葉は、胸に刻んでおきたいと思う。
レコードを愛することと、音楽を愛することは似ているようだがまったく違う。レコードが素晴らしいのは、そこに封じ込められた音楽や会話、あるいは音のすべては、過去に奏でられ、発せられたものだ、ということだ。
言葉も、歌も、音楽も、ひとたび発音された後は時間の彼方に消えてなくなっている。どんなに新しい音楽も、録音されたときには過去のものとなっている。レコード・コレクターとは、つまり古いものを、過去を、もう取り戻すことの出来ないものを愛おしく思う人々のことだ。
付け加える言葉は何もない。
そのようなレコードコレクター魂を僕もいつも心に抱いていたいと願うまでだ。
2014年3月31日月曜日
ドストエフスキー「白痴」に見える恋の真の姿
ドストエフスキーの五大長編のひとつ「白痴」を読了した。
これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。
まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。
まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。
さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。
「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。
僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。
ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。
無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。
実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。
そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。
これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。
まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。
まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。
さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。
「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。
僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。
ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。
無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。
実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。
そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。
2014年3月28日金曜日
「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」がめっぽう面白い
音楽評論家、湯浅学さん編集による「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」がめっぽう面白い。
ミュージックマガジン (2014-02-14)
1979年からの10年間とは、自分にとって中学三年生から社会人一年目にあたる。
間違いなく、一番音楽を聴いて、一番純粋に感動した時期だと思う。
だからページをめくるたびに音楽が聴こえてくる。
以前、故大瀧詠一が、無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、「レコードリサーチ」というカタログの1962~66年を持って行けば、全曲思い出せるから、ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らすことができる、とお答えになったと聞いた。
とうていそこまではいかないが、いくつかのアルバムのジャケットを見た時、本当に断片的にメロディが聴こえてきた。
特にはっきり聴こえてきたのがREBECCAのPOISONとBOØWYのPSYCOPATHの二枚だった。
どちらもレンタルしたレコードをカセットテープに録音して何度も聴いたお気に入りのアルバムだった。
「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」のレコード評では、BOØWYのアルバムではなんといっても「JUST A HERO」が頂点で、バンドサウンド回帰の次作BEAT EMOTIONが、欧州ポップの前作を超えられなかったところからBOØWYの終焉へのプロセスが始まったと書かれていた。
おいおい、ちょい待てや。最高傑作は「PSYCOPATH」やろ。
と、思ったら矢も盾も、でTSUTAYAにGO!なのであった。
TSUTAYAでは、BOØWYがJ-POP、REBECCAが昭和歌謡にカテゴライズされていた。なんとなくわかるような気もするが、正しくもないような気がする。
で、借りてきた「JUST A HERO」と「PSYCOPATH」を改めて聴き比べる。
レコードからカセットテープに録音することで、実にいろんなものが失われていたのだと再発見した。
特に「歌」は、声が消えていく場所にいろんなニュアンスを込めることが多いが、テープの音の記憶では、このあたりの印象が平板で希薄だった。
こんなに豊かなニュアンスを込めて歌っていたのか。
音が伸びている時のヴィブラートが表側の個性だとすると、減衰時にしゃくりあげたり、パッとカットオフしたりするテクニックは、楽曲そのものの勢いのようなものを左右する。
そこに注目して聴くと、「JUST A HERO」での氷室京介の歌には、確かにここが全盛であるというサインがある。
英語も日本語も取り混ぜてすべて氷室的発声で語りきったその「歌」は、日本語ロック歌謡のひとつの到達点であることは誰にも疑えまい。
「PSYCOPATH」は、といえば収録された楽曲の素晴らしさは、やはり群を抜いていると思うし、何よりギターが素晴らしい。
一聴布袋氏の音とわかる図太いトーンはここで確立されている。
またギターの印象的なリフが類型的でなく、もはやどこを取っても伴奏とは呼べないほどだ。
逆に言えば、この演奏に歌を載せるのは難事業で、さしもの氷室氏も少し乗り切れていない印象がある。
当時の僕にはそこが聴こえていなかった。
それでもやはり、聴き終えた後にどっしりとした印象を残すのは「PSYCOPATH」であるという感想は変わらない。
音楽とはそういうものなのだろう。
音楽とは純粋に客観的な評価ができるような芸術ではなく、その音楽とともに過ごした時代の空気から逃れることは出来ないのだ。
だって、音は空気の振動から出来ていて、それが僕らの体に染みつくことで心まで震わせるんだから。
頭で覚えたんじゃなくて、体に染みついたものはそう簡単には忘れられないよ、ね。
ミュージックマガジン (2014-02-14)
間違いなく、一番音楽を聴いて、一番純粋に感動した時期だと思う。
だからページをめくるたびに音楽が聴こえてくる。
以前、故大瀧詠一が、無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、「レコードリサーチ」というカタログの1962~66年を持って行けば、全曲思い出せるから、ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らすことができる、とお答えになったと聞いた。
とうていそこまではいかないが、いくつかのアルバムのジャケットを見た時、本当に断片的にメロディが聴こえてきた。
特にはっきり聴こえてきたのがREBECCAのPOISONとBOØWYのPSYCOPATHの二枚だった。
どちらもレンタルしたレコードをカセットテープに録音して何度も聴いたお気に入りのアルバムだった。
「日本ロック&ポップスアルバム名鑑1979~1989」のレコード評では、BOØWYのアルバムではなんといっても「JUST A HERO」が頂点で、バンドサウンド回帰の次作BEAT EMOTIONが、欧州ポップの前作を超えられなかったところからBOØWYの終焉へのプロセスが始まったと書かれていた。
おいおい、ちょい待てや。最高傑作は「PSYCOPATH」やろ。
と、思ったら矢も盾も、でTSUTAYAにGO!なのであった。
TSUTAYAでは、BOØWYがJ-POP、REBECCAが昭和歌謡にカテゴライズされていた。なんとなくわかるような気もするが、正しくもないような気がする。
で、借りてきた「JUST A HERO」と「PSYCOPATH」を改めて聴き比べる。
JUST A HERO
posted with amazlet at 14.03.28
BOΦWY
ユニバーサルミュージック (2012-12-24)
売り上げランキング: 12,551
ユニバーサルミュージック (2012-12-24)
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PSYCHOPATH
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ユニバーサルミュージック (2012-12-24)
売り上げランキング: 71,962
ユニバーサルミュージック (2012-12-24)
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レコードからカセットテープに録音することで、実にいろんなものが失われていたのだと再発見した。
特に「歌」は、声が消えていく場所にいろんなニュアンスを込めることが多いが、テープの音の記憶では、このあたりの印象が平板で希薄だった。
こんなに豊かなニュアンスを込めて歌っていたのか。
音が伸びている時のヴィブラートが表側の個性だとすると、減衰時にしゃくりあげたり、パッとカットオフしたりするテクニックは、楽曲そのものの勢いのようなものを左右する。
そこに注目して聴くと、「JUST A HERO」での氷室京介の歌には、確かにここが全盛であるというサインがある。
英語も日本語も取り混ぜてすべて氷室的発声で語りきったその「歌」は、日本語ロック歌謡のひとつの到達点であることは誰にも疑えまい。
「PSYCOPATH」は、といえば収録された楽曲の素晴らしさは、やはり群を抜いていると思うし、何よりギターが素晴らしい。
一聴布袋氏の音とわかる図太いトーンはここで確立されている。
またギターの印象的なリフが類型的でなく、もはやどこを取っても伴奏とは呼べないほどだ。
逆に言えば、この演奏に歌を載せるのは難事業で、さしもの氷室氏も少し乗り切れていない印象がある。
当時の僕にはそこが聴こえていなかった。
それでもやはり、聴き終えた後にどっしりとした印象を残すのは「PSYCOPATH」であるという感想は変わらない。
音楽とはそういうものなのだろう。
音楽とは純粋に客観的な評価ができるような芸術ではなく、その音楽とともに過ごした時代の空気から逃れることは出来ないのだ。
だって、音は空気の振動から出来ていて、それが僕らの体に染みつくことで心まで震わせるんだから。
頭で覚えたんじゃなくて、体に染みついたものはそう簡単には忘れられないよ、ね。
2014年3月27日木曜日
ジャック・ジョンソン「スリープ・スルー・ザ・スタティック」が教えてくれる“失われた鍵”のありか
Amazonで買ったジャック・ジョンソン「スリープ・スルー・ザ・スタティック」のアナログ盤が届いた。
マットな質感の良いジャケで、ダブル・フォールドになっている。
全14曲を収録するためにレコードは二枚組になっているから当然の仕様だ。
ダブル・フォールドの中面には全面に歌詞が印刷されている。
このアルバムは、環境意識の強いジャック・ジョンソンの発案で、太陽光発電によって得られた電力のみでレコーディングされたものだが、残念なことにレコーディングについての詳しい情報は記載されていない。
各レコードは、このような紙袋に収納されている。最近はあの半透明の内袋はめったにお目にかからない。紙袋のメリットは静電気の発生が抑えられることだが、このレコードでは盛大に静電気が発生していて、袋から取り出すのに苦労した。まさに「スタティック」であったわけだが、まさか故意にではないだろう。
いつものように洗浄液「ニーノ・ニーノ」とベンコット・ワイピング・ペーパーでクリーニングしてからターンテーブルに置く。
ライトの下に置くと、クリーニングで取りきれないほどこびりついた指の油脂が見えると思う。さらにターンテーブルを廻してみれば、盤面に映り込むライトの光が歪む。盤が反っているのである。これが現在のアメリカのレコード製作のレヴェルなのだ。
気にならないといえば嘘になるが、もう慣れた。
それでもアナログで聴きたい音というのがある、ということだ。
針を落とせばわかる。
CDで聴いてみて直感したとおりの音だ。
音が波であったという事実を体感させてくれる実在感がある。
たった三つの楽器と人の声で出来たこの肉体的な音楽の真相を感じ取るためにどうしても必要な音がここにある。
ことにエレクトリック・ギターの音が素晴らしい。
ギターアンプが震えている空気感が伝わってくる。
最終曲「LOSING KEY」にはジャック・ジョンソン自身の手によるギターと、ボーカルのユニゾンが入っているが、このギターと声が響き合って胸が苦しくなっちゃう感じはCDからは感じ取れなかったものだ。
もしかしたらこのドキドキが現代の商業音楽業界が失いかけている「鍵(LOSING KEY)」なのかもしれないな。
マットな質感の良いジャケで、ダブル・フォールドになっている。
全14曲を収録するためにレコードは二枚組になっているから当然の仕様だ。
ダブル・フォールドの中面には全面に歌詞が印刷されている。
このアルバムは、環境意識の強いジャック・ジョンソンの発案で、太陽光発電によって得られた電力のみでレコーディングされたものだが、残念なことにレコーディングについての詳しい情報は記載されていない。
各レコードは、このような紙袋に収納されている。最近はあの半透明の内袋はめったにお目にかからない。紙袋のメリットは静電気の発生が抑えられることだが、このレコードでは盛大に静電気が発生していて、袋から取り出すのに苦労した。まさに「スタティック」であったわけだが、まさか故意にではないだろう。
いつものように洗浄液「ニーノ・ニーノ」とベンコット・ワイピング・ペーパーでクリーニングしてからターンテーブルに置く。
ライトの下に置くと、クリーニングで取りきれないほどこびりついた指の油脂が見えると思う。さらにターンテーブルを廻してみれば、盤面に映り込むライトの光が歪む。盤が反っているのである。これが現在のアメリカのレコード製作のレヴェルなのだ。
気にならないといえば嘘になるが、もう慣れた。
それでもアナログで聴きたい音というのがある、ということだ。
針を落とせばわかる。
CDで聴いてみて直感したとおりの音だ。
音が波であったという事実を体感させてくれる実在感がある。
たった三つの楽器と人の声で出来たこの肉体的な音楽の真相を感じ取るためにどうしても必要な音がここにある。
ことにエレクトリック・ギターの音が素晴らしい。
ギターアンプが震えている空気感が伝わってくる。
最終曲「LOSING KEY」にはジャック・ジョンソン自身の手によるギターと、ボーカルのユニゾンが入っているが、このギターと声が響き合って胸が苦しくなっちゃう感じはCDからは感じ取れなかったものだ。
もしかしたらこのドキドキが現代の商業音楽業界が失いかけている「鍵(LOSING KEY)」なのかもしれないな。
2014年3月23日日曜日
そして僕は再び、ジャック・ジョンソンに出会う
ハロルド作石の「BECK」はマジで傑作だったと思う。
音楽漫画ってのは、実際の音が聴こえない分音楽のイデアが伝わってくる。
コユキのボーカルがどんだけ凄いのか、実音がないからこそ伝わってくる。
コユキを音楽の道に引きずり込んだ破滅型の天才ギタリスト竜介が、まともな音楽を聴きたいと言って駆け込んだバーでジャック・ジョンソンをかけてもらうシーンがある。
僕は、この時はじめてジャック・ジョンソンの名前を知った。
すぐにCDショップに行って、デビュー盤の「ブラッシュファイアー・フェアリーテイルズ」を買ってきた。一曲目がタイトル・トラックで、この曲に完全にヤラれた。
しかし、二枚目、三枚目とどうしてもこの一曲を超えられない。そう感じていた。
四枚目が劇場版「おさるのジョージ」というアニメ映画のサントラで、僕はジャック・ジョンソンが全曲書き下ろしたと聞いて、映画まで観たんだ。
で、それを聴いてもういいかな、と諦めがついちゃって、ここで聴くのをやめてしまった。
昨日久しぶりに古いハードロックが聴きたいなあと思ってTSUTAYAに出かけたが、アイアン・メイデンのどのベスト盤にもプロウラーが入っていないことに、僕のハードロック観が世界中から否定されてような気がして急にテンションが下がった。
突然音楽的興味が正反対に振れて、そういえば、その後のジャック・ジョンソンはどうしたんだろうと思って見てみると、けっこう出てる。聴いていないアルバムが3枚もあった。
まとめて借りてきて朝から聴いた。
結局「おさるのジョージ」の直後にリリースされたアルバム「スリープ・スルー・ザ・スタティック」が一番良かった。
サウンドがいい。
ピアノとエレクトリック・ギターというのはどうしてこんなに相性がいいのか。
思えば一枚目もこういうサウンドだ。
二枚目からオーガニックなサウンド志向が強まっていったが、アコースティック・ギターはバンドサウンドの中に入るとどうしてもパーカッシブな役割に染まっていく。
ところがジャック・ジョンソンのサウンドの魅力はちょっとルーズなリズムにあるわけで、アコギだとタイトになりすぎる。
「スリープ・スルー・ザ・スタティック」は買うしかないと思って調べると、アナログも出てる。さっそく発注をかけよう。久しぶりのレコードだ。
音楽漫画ってのは、実際の音が聴こえない分音楽のイデアが伝わってくる。
コユキのボーカルがどんだけ凄いのか、実音がないからこそ伝わってくる。
コユキを音楽の道に引きずり込んだ破滅型の天才ギタリスト竜介が、まともな音楽を聴きたいと言って駆け込んだバーでジャック・ジョンソンをかけてもらうシーンがある。
僕は、この時はじめてジャック・ジョンソンの名前を知った。
すぐにCDショップに行って、デビュー盤の「ブラッシュファイアー・フェアリーテイルズ」を買ってきた。一曲目がタイトル・トラックで、この曲に完全にヤラれた。
しかし、二枚目、三枚目とどうしてもこの一曲を超えられない。そう感じていた。
四枚目が劇場版「おさるのジョージ」というアニメ映画のサントラで、僕はジャック・ジョンソンが全曲書き下ろしたと聞いて、映画まで観たんだ。
で、それを聴いてもういいかな、と諦めがついちゃって、ここで聴くのをやめてしまった。
昨日久しぶりに古いハードロックが聴きたいなあと思ってTSUTAYAに出かけたが、アイアン・メイデンのどのベスト盤にもプロウラーが入っていないことに、僕のハードロック観が世界中から否定されてような気がして急にテンションが下がった。
突然音楽的興味が正反対に振れて、そういえば、その後のジャック・ジョンソンはどうしたんだろうと思って見てみると、けっこう出てる。聴いていないアルバムが3枚もあった。
まとめて借りてきて朝から聴いた。
結局「おさるのジョージ」の直後にリリースされたアルバム「スリープ・スルー・ザ・スタティック」が一番良かった。
サウンドがいい。
Jack Johnson Brushfire Records 2008-01-31
思えば一枚目もこういうサウンドだ。
二枚目からオーガニックなサウンド志向が強まっていったが、アコースティック・ギターはバンドサウンドの中に入るとどうしてもパーカッシブな役割に染まっていく。
ところがジャック・ジョンソンのサウンドの魅力はちょっとルーズなリズムにあるわけで、アコギだとタイトになりすぎる。
「スリープ・スルー・ザ・スタティック」は買うしかないと思って調べると、アナログも出てる。さっそく発注をかけよう。久しぶりのレコードだ。
2014年3月9日日曜日
絶望の果ての「期待」:米澤穂信「クドリャフカの順番」
琴線に触れる、という言葉を聞いてすぐに頭に浮かぶのは米澤穂信の「クドリャフカの順番」という小説だ。
僕たちはそれぞれの心に、それぞれの人生が張った響きやすい場所を持っていて、何気ない言葉がその琴線に触れてしまうのである。
帯に「泣ける小説」と書いてある本をよく書店で見かけるが、心根が冷たい性分の僕は、可哀想な境遇に同情するということが、どうにも苦手で、この手の本では涙は出てこない。
そのかわり、自分の才能に絶望し、でもそれを認めたくなくて頑張ろうとする心の叫びが聴こえてくると、嗚咽を伴った涙がふいに心の深いところから湧き出してきて、抑えることができなくなる。
「クドリャフカの順番」は、「氷菓」というタイトルでアニメ化までされた彼の「古典部シリーズ」の第三作にあたる。このシリーズは発表時ライトノベルに分類され、角川スニーカー文庫に所蔵されていた。しかし続編が出る度にスケールアップして、現在は角川文庫のほうに所蔵し直された。
クドリャフカは、スプートニク2号に載せられ、宇宙に初めて飛び立ったライカ犬の名前で、地球に帰投する設計になっていなかった宇宙船に乗せられたクドリャフカの「順番」という言葉には、それ自体になにやら切なさが伴うが、この意図に関して本編内では触れられていない。
シリーズの最初から重要な要素になっている学園祭「カンヤ祭」が、本作の舞台である。
主人公折木奉太郎は、「やらなくていいことはやらない。やらなければならないことなら手短に」という信条を持つ省エネ志向の高校生だが、シリーズ二作目の「愚者のエンドロール」において、他者の「期待」にほだされるカタチで自分の才能を信じてみようとする。そしてこの試みはその「期待」が言葉通りの意味でなく、第三者の思惑に乗せられた結果であったことを知り、大きな挫折を経験する。
この挫折は折木奉太郎を一段大きく成長させており、今作「クドリャフカの順番」において、実に落ち着いた探偵振りを披露してくれる。
そしてこの成長が、親友福部里志の心を屈折させる。
平行して福部里志に思いを寄せる伊原摩耶花という漫画部の少女が、先輩との確執を通して、才能というものの残酷さを思い知るエピソードが描かれる。
そして彼女が悟った才能への嫉妬という感情が、福部の秘めた想いに気付かせる。
もう全編ただ切ない。
僕自身の話をすれば、小学生の時、買ってもらったばかりのナショナルのラジカセで聴いた西城秀樹の「ブルー・スカイ・ブルー」になんだかとても黙っていられない気分になって、家の近くの海岸まで自転車を飛ばして、大声で歌った。
そのころはただ歌っていれば幸せだったのに、大学の音楽サークルに入ってみたら、もうプロデビューしている先輩がいて、その人がふらりと新歓コンサートに立ち寄ってピアノを弾きながら歌った歌に、才能ってこういうものかと感じて、落ち込みはしなかったけど、自分のやっていることのだいたいの限界が見えてしまった気がした。
同年代の多くの部員がプロと同じような声域で歌っているのを見て、正直嫉妬した。ギターも好きでずいぶん練習したつもりだけど、速いフレーズはいつまでたっても弾けるようにならなかった。
才能への嫉妬、が僕の琴線であることはずいぶん前から気付いていた。
会社では一生懸命仕事をすれば、運不運はあるけれど、それなりに評価はしてもらえた。パートナーにも恵まれ、可愛い娘の父親にもなれた。
だから普段、その感情は僕の心の奥の深い場所に眠っているけれど、時々、こんなふうに物語の何気ない言葉に触れられて、甲高い音を立てる・
今回僕の琴線を弾いた言葉は「期待」だった。
米澤穂信がこの物語で「期待」という言葉を使うとき、いつもその背後に「絶望」のはてに絞り出した言葉なんだよ、という意味合いを忍ばせている。
そして、最後にその「絶望」を彼らは受け入れる。
僕自身がそうしたように。
だからこの本の最終ページを閉じた時、僕は、それでも生きていくことってけっこう悪くないよ、と心の中で呼びかけたんだ。
張り詰めた琴の弦には、軽く触れただけで美しい音が出る。
僕たちはそれぞれの心に、それぞれの人生が張った響きやすい場所を持っていて、何気ない言葉がその琴線に触れてしまうのである。
帯に「泣ける小説」と書いてある本をよく書店で見かけるが、心根が冷たい性分の僕は、可哀想な境遇に同情するということが、どうにも苦手で、この手の本では涙は出てこない。
そのかわり、自分の才能に絶望し、でもそれを認めたくなくて頑張ろうとする心の叫びが聴こえてくると、嗚咽を伴った涙がふいに心の深いところから湧き出してきて、抑えることができなくなる。
「クドリャフカの順番」は、「氷菓」というタイトルでアニメ化までされた彼の「古典部シリーズ」の第三作にあたる。このシリーズは発表時ライトノベルに分類され、角川スニーカー文庫に所蔵されていた。しかし続編が出る度にスケールアップして、現在は角川文庫のほうに所蔵し直された。
クドリャフカは、スプートニク2号に載せられ、宇宙に初めて飛び立ったライカ犬の名前で、地球に帰投する設計になっていなかった宇宙船に乗せられたクドリャフカの「順番」という言葉には、それ自体になにやら切なさが伴うが、この意図に関して本編内では触れられていない。
シリーズの最初から重要な要素になっている学園祭「カンヤ祭」が、本作の舞台である。
主人公折木奉太郎は、「やらなくていいことはやらない。やらなければならないことなら手短に」という信条を持つ省エネ志向の高校生だが、シリーズ二作目の「愚者のエンドロール」において、他者の「期待」にほだされるカタチで自分の才能を信じてみようとする。そしてこの試みはその「期待」が言葉通りの意味でなく、第三者の思惑に乗せられた結果であったことを知り、大きな挫折を経験する。
この挫折は折木奉太郎を一段大きく成長させており、今作「クドリャフカの順番」において、実に落ち着いた探偵振りを披露してくれる。
そしてこの成長が、親友福部里志の心を屈折させる。
平行して福部里志に思いを寄せる伊原摩耶花という漫画部の少女が、先輩との確執を通して、才能というものの残酷さを思い知るエピソードが描かれる。
そして彼女が悟った才能への嫉妬という感情が、福部の秘めた想いに気付かせる。
もう全編ただ切ない。
僕自身の話をすれば、小学生の時、買ってもらったばかりのナショナルのラジカセで聴いた西城秀樹の「ブルー・スカイ・ブルー」になんだかとても黙っていられない気分になって、家の近くの海岸まで自転車を飛ばして、大声で歌った。
そのころはただ歌っていれば幸せだったのに、大学の音楽サークルに入ってみたら、もうプロデビューしている先輩がいて、その人がふらりと新歓コンサートに立ち寄ってピアノを弾きながら歌った歌に、才能ってこういうものかと感じて、落ち込みはしなかったけど、自分のやっていることのだいたいの限界が見えてしまった気がした。
同年代の多くの部員がプロと同じような声域で歌っているのを見て、正直嫉妬した。ギターも好きでずいぶん練習したつもりだけど、速いフレーズはいつまでたっても弾けるようにならなかった。
才能への嫉妬、が僕の琴線であることはずいぶん前から気付いていた。
会社では一生懸命仕事をすれば、運不運はあるけれど、それなりに評価はしてもらえた。パートナーにも恵まれ、可愛い娘の父親にもなれた。
だから普段、その感情は僕の心の奥の深い場所に眠っているけれど、時々、こんなふうに物語の何気ない言葉に触れられて、甲高い音を立てる・
今回僕の琴線を弾いた言葉は「期待」だった。
米澤穂信がこの物語で「期待」という言葉を使うとき、いつもその背後に「絶望」のはてに絞り出した言葉なんだよ、という意味合いを忍ばせている。
そして、最後にその「絶望」を彼らは受け入れる。
僕自身がそうしたように。
だからこの本の最終ページを閉じた時、僕は、それでも生きていくことってけっこう悪くないよ、と心の中で呼びかけたんだ。
2014年2月20日木曜日
ラリー・カールトンとデヴィッド・T・ウォーカーの札幌公演に行ってきた
昨日は、ラリー・カールトンとデヴィッド・T・ウォーカーの札幌公演に出かけた。
場所は2008年に出来たという札幌市民ホールで、初めて入った。
なにしろ大通駅至近というロケーションが、こんな雪道にはありがたい。
当たり前だが、比較的観客の年齢層が高め。
ギターを自分でも弾く人が多いのだろう。ステージ上の機材をみんなで盛大に撮影していた。
入り口でカメラチェックもなかったので、今日は撮影オッケーなんだなと思っていたら、慌ててホールの人が飛んできて撮影禁止です、と叫んでいた。
その直後、館内放送でも撮影と飲食の禁止を伝えるアナウンスが流れた。
僕の隣でサンドイッチを食べていたカップルが慌てて食べかけのサンドイッチを袋にしまっていた。
ラリー・カールトンのアンプといえばダンブルだが、今日はダンブル系の音が出て、比較的入手しやすいブルードが置かれていた。
デヴィッドの方は、フェンダーの小さなアンプ。ブルース・デヴィルに似ていたな。
演奏はラリーのソロ・ギターから始まった。
なにかこう、全部の弦の音が出きっていないように感じる。
弱音がPAに乗ってこない感じで、全体に音量が低めにセットされているようだ。
3曲目から、ベース(ラリーの息子です)、ドラムスが入ってきて、トリオでの演奏になる。 ここでもドラムスの音がPAに乗っていない。
バンドをドライブしない。
まいったな、と思って聴いていると、いよいよデヴィッドの登場で、合わせてキーボードとサキソフォンも追加された。
デヴィッドの音はもともと繊細で、弱音のニュアンスが重要だ。
今日のPAには、おそらく乗ってこないだろうと思ったが、まったくその通りで、ちっとも聴こえてこない。
しかしデヴィッド御大、しきりに自分のギターに内蔵しているプリアンプを演奏しながら調整して、曲の最後にはあの美しすぎるグリッサンドがきちんと聴こえるようになってきた。
さすがだ。
PAさんも目が醒めたのか、この曲以降徐々に各楽器のボリュームが適正になり、やっと札幌市民ホールにグルーブが戻ってきた。
バランスが取れてみると、ラリーとデヴィッドのバッキングの異なりが際立ってくる。
ラリーカールトンは、ソロを弾いていなくても、バッキングについキャッチーなフレーズを盛り込んで、そこだけで聴かせてしまう。
主役の声しか出せない声優というのが世の中にはいるのだが、ラリーカールトンもギターもそれによく似ている。
デヴィッドのバッキングは、それだけで楽曲の背骨を担うことはできない。
しかし、あの複雑なトリルを絡めながら上昇、下降と自由自在のグリッサンドは、まさに彼のシグニチャー・サウンドで、大昔のソロ期にすでに完璧に完成されていた。
さらに、普通にコードを弾くようなところでも、素早い装飾音をキラキラと輝かせる。
公演の間中、僕はデヴィッドの魔法のように動く指に釘付けだった。
そういう意味で、相性が良く、まことに見応えのある共演だが、この二人の共演歴は古く、1975年、マリーナ・ショウの名盤中の名盤「Who is this bitch,aniyway」収録のFeel like makin' loveが最初だと思われる。 帰って聴き直してみると、ホント二人ともあの頃からプレイスタイルまったく変わってないことがわかる。
それにしてもこの、ロバータ・フラック作のフィール・ライク・メイキン・ラブ、今改めて聴くとすごい歌詞だ。
それだけの歌だ。
こういう歌を自分で作って人前で歌う感覚は僕には理解できないが、二人のギターは本当に素晴らしい。
僕は、ラリーカールトン最大のヒット曲であるルーム335が、公演の最大のハイライトになるだろうと思っていたが、なぜかこの曲のみトリオに戻っての演奏となった。
複雑なコード・チェンジが身上のこの曲で、コード感を辛うじて息子くんのベースが作っているが、やはりあの独特の洗練は出てこない。
ちょっと残念な335ではあった。
その代わりってわけじゃないけど、ブルーズになると、もう年齢すらも若返ってしまった感じでノリノリで弾いていたなあ。
ギタリストというやつは俄然いきいきするものだが、この二人も例外ではなかったようだ。
場所は2008年に出来たという札幌市民ホールで、初めて入った。
なにしろ大通駅至近というロケーションが、こんな雪道にはありがたい。
当たり前だが、比較的観客の年齢層が高め。
ギターを自分でも弾く人が多いのだろう。ステージ上の機材をみんなで盛大に撮影していた。
入り口でカメラチェックもなかったので、今日は撮影オッケーなんだなと思っていたら、慌ててホールの人が飛んできて撮影禁止です、と叫んでいた。
その直後、館内放送でも撮影と飲食の禁止を伝えるアナウンスが流れた。
僕の隣でサンドイッチを食べていたカップルが慌てて食べかけのサンドイッチを袋にしまっていた。
ラリー・カールトンのアンプといえばダンブルだが、今日はダンブル系の音が出て、比較的入手しやすいブルードが置かれていた。
デヴィッドの方は、フェンダーの小さなアンプ。ブルース・デヴィルに似ていたな。
演奏はラリーのソロ・ギターから始まった。
なにかこう、全部の弦の音が出きっていないように感じる。
弱音がPAに乗ってこない感じで、全体に音量が低めにセットされているようだ。
3曲目から、ベース(ラリーの息子です)、ドラムスが入ってきて、トリオでの演奏になる。 ここでもドラムスの音がPAに乗っていない。
バンドをドライブしない。
まいったな、と思って聴いていると、いよいよデヴィッドの登場で、合わせてキーボードとサキソフォンも追加された。
デヴィッドの音はもともと繊細で、弱音のニュアンスが重要だ。
今日のPAには、おそらく乗ってこないだろうと思ったが、まったくその通りで、ちっとも聴こえてこない。
しかしデヴィッド御大、しきりに自分のギターに内蔵しているプリアンプを演奏しながら調整して、曲の最後にはあの美しすぎるグリッサンドがきちんと聴こえるようになってきた。
さすがだ。
PAさんも目が醒めたのか、この曲以降徐々に各楽器のボリュームが適正になり、やっと札幌市民ホールにグルーブが戻ってきた。
バランスが取れてみると、ラリーとデヴィッドのバッキングの異なりが際立ってくる。
ラリーカールトンは、ソロを弾いていなくても、バッキングについキャッチーなフレーズを盛り込んで、そこだけで聴かせてしまう。
主役の声しか出せない声優というのが世の中にはいるのだが、ラリーカールトンもギターもそれによく似ている。
デヴィッドのバッキングは、それだけで楽曲の背骨を担うことはできない。
しかし、あの複雑なトリルを絡めながら上昇、下降と自由自在のグリッサンドは、まさに彼のシグニチャー・サウンドで、大昔のソロ期にすでに完璧に完成されていた。
さらに、普通にコードを弾くようなところでも、素早い装飾音をキラキラと輝かせる。
公演の間中、僕はデヴィッドの魔法のように動く指に釘付けだった。
そういう意味で、相性が良く、まことに見応えのある共演だが、この二人の共演歴は古く、1975年、マリーナ・ショウの名盤中の名盤「Who is this bitch,aniyway」収録のFeel like makin' loveが最初だと思われる。 帰って聴き直してみると、ホント二人ともあの頃からプレイスタイルまったく変わってないことがわかる。
マリーナ・ショウ
EMIミュージック・ジャパン (2012-11-21)
売り上げランキング: 1,102
EMIミュージック・ジャパン (2012-11-21)
売り上げランキング: 1,102
夕方公園を歩いていると恋人たちの「行為」が目に入る。そんな時、わたしはあなたとしたくなる。
それだけの歌だ。
こういう歌を自分で作って人前で歌う感覚は僕には理解できないが、二人のギターは本当に素晴らしい。
僕は、ラリーカールトン最大のヒット曲であるルーム335が、公演の最大のハイライトになるだろうと思っていたが、なぜかこの曲のみトリオに戻っての演奏となった。
複雑なコード・チェンジが身上のこの曲で、コード感を辛うじて息子くんのベースが作っているが、やはりあの独特の洗練は出てこない。
ちょっと残念な335ではあった。
その代わりってわけじゃないけど、ブルーズになると、もう年齢すらも若返ってしまった感じでノリノリで弾いていたなあ。
ギタリストというやつは俄然いきいきするものだが、この二人も例外ではなかったようだ。
2014年2月18日火曜日
場違いな場所に立つ歌
ホイットニー・ヒューストンが、映画「ボディガード」で歌った、I Will Always Love Youという名唱がある。
静かな歌い出しの後、優しく伸びるファルセットで、And I,I,I I always love you.と歌われる。
切々とした情感を維持した美しい間奏の後、つかの間のブレイクが入り、スネアドラムの一閃とともに転調されたサビが、ホイットニーの絶唱によって歌われる。
再びのAnd I,I,I I always love you.が、今度は万感の愛のメッセージとして届けられる。
このダイナミックな展開は、結婚式の披露宴でカップルが登場するのにぴったりだ。
だから、その後「日本においては」無数の結婚式でこの曲が使われたと思う。
この曲は、カントリー系のシンガー・ソング・ライター、ドリー・パートンの作品でアルバム「ジョリーン」に収録されている。
そう、あのオリヴィア・ニュートン・ジョンの「ジョリーン」もこの人の作品なのである。
そしてこの「I Will Always Love You」こそは、ジョリーンに対置され、このアルバムのもう一方のコアとなるべく書かれた楽曲なのであった。
ジョリーンは、主人の浮気相手に、「わたしは美しさであなたには敵わないけど、主人はわたしにとっては一生の恋なの。どうか面白半分に奪わないで」と切実に訴えかける歌で、歌詞全文を読むと、もうわかったわよ、となりそうな誠意に溢れている。
そして「I Will Always Love You」は、このように歌い出される
そう、この曲は、条件の良い結婚話が持ち上がった年来の彼氏のもとから、愛ゆえにそっと身を引く女の心情を歌ったものなのだ。
「ジョリーン」に描かれた心情も、「I Will Always Love You」に描かれた心情も女性の愛の表現として、どちらも心に迫るものだ。
ドリー・パートンは、このふたつの曲をコアにアルバムを構成することで、アメリカの女性の恋を立体的に描いたのだ。
しかし、だ。
「I Will Always Love You」は、歌詞の意味がわかってしまうと、これほど結婚式の披露宴に似つかわしくない曲もない。
でもいいのだ。
音楽には、歌詞とメロディとアレンジがあり、その全体でひとつの「表現」を構成しているから、このような場違いな場所に、奇妙な存在感を持って成立してしまう時がある。
似たような不思議な成立を見せる楽曲にブルース・スプリングスティーンの「Born in the U.S.A」がある。
この案件は、村上春樹がステレオサウンド誌に書いていて、今は文春文庫にも収録されているので、お読みになった方もいらっしゃるかもしれない。
この歌はアルバム「Born in the U.S.A」のタイトルトラックで、大きな星条旗をあしらったジャケットのイメージと相まってアメリカへの愛国心みたいなものを想起させる。
ロナルド・レーガンの選挙スタッフもそう思ったのだろう。
この曲を大統領選挙のキャンペーンソングに使わせてほしいとオファーした。
結果的に、この曲を使った選挙キャンペーンは成功し、「Born in the U.S.A」はアメリカを讃える歌として機能した。
スプリングスティーンはおおいに戸惑っただろう。
何しろ、この曲はこういう歌詞を持っているのだ。
どこから見ても愛国的な歌詞ではない。
ホイットニーのラブソングを日本の結婚式に使うのは、まあそういうこともあるか、という感じだが、スプリングスティーンの場合には自分の国の国民が、まったく自分の意図と違う楽曲の捉え方をされたのだから、本当に驚き戸惑ったと思う。
ビリー・ジョエルもキャリアの上り坂でこのような案件に出会った。
それはアルバム「ストレンジャー」に収録された「Only The Good Die young」という曲だ。
その曲はこのように始まる。
つまり、ある種の教条主義に縛られがちな品行方正な淑女を、もっと楽しまないと、と説得する歌なのである。Only the good die young、つまり善人ばかりが早く死ぬっていうじゃないか、と。
この曲はカトリック協会の強い反発を招き、ラジオ局には圧力がかかった。
そしてかの国には何曲もある放送禁止曲の仲間入りをしたのである。
しかし、この曲が伝えたかったのは、カトリックが大切にしている清貧で禁欲的な生活への揶揄ではなかった。
ビリー・ジョエルが伝えたかったことはここにある。
聖人と泣く、には自分とは考え方の違う人達を否定して生きていくことの虚しさが、
罪人と笑う、には何より大切な「自分らしく」生きていく、ということにつきまとう責任のことが歌い込まれている。
普段なにげなく口ずさんでいる歌詞の中には、時に驚くほど大きな意思が込められていることがある。
それは最初からそこにあるのに、メロディの甘美さに隠されて、長い時間見つけられないまま、僕らと一緒にいたりする。
(それがたとえカラオケであっても)歌を歌う者のひとりとして、いつも肝に命じていたいと思う。
サントラ
SMJ (2010-06-02)
売り上げランキング: 73,996
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静かな歌い出しの後、優しく伸びるファルセットで、And I,I,I I always love you.と歌われる。
切々とした情感を維持した美しい間奏の後、つかの間のブレイクが入り、スネアドラムの一閃とともに転調されたサビが、ホイットニーの絶唱によって歌われる。
再びのAnd I,I,I I always love you.が、今度は万感の愛のメッセージとして届けられる。
このダイナミックな展開は、結婚式の披露宴でカップルが登場するのにぴったりだ。
だから、その後「日本においては」無数の結婚式でこの曲が使われたと思う。
この曲は、カントリー系のシンガー・ソング・ライター、ドリー・パートンの作品でアルバム「ジョリーン」に収録されている。
Dolly Parton
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そしてこの「I Will Always Love You」こそは、ジョリーンに対置され、このアルバムのもう一方のコアとなるべく書かれた楽曲なのであった。
ジョリーンは、主人の浮気相手に、「わたしは美しさであなたには敵わないけど、主人はわたしにとっては一生の恋なの。どうか面白半分に奪わないで」と切実に訴えかける歌で、歌詞全文を読むと、もうわかったわよ、となりそうな誠意に溢れている。
そして「I Will Always Love You」は、このように歌い出される
If I should stay, I'll only be in your way
So I'll go, but I know I'll think of you every step of the way
これ以上一緒にいたら足手まといになる
だからもう行くわ
でもわかってる。
きっと一足ごとに貴方を想うってこと
そう、この曲は、条件の良い結婚話が持ち上がった年来の彼氏のもとから、愛ゆえにそっと身を引く女の心情を歌ったものなのだ。
「ジョリーン」に描かれた心情も、「I Will Always Love You」に描かれた心情も女性の愛の表現として、どちらも心に迫るものだ。
ドリー・パートンは、このふたつの曲をコアにアルバムを構成することで、アメリカの女性の恋を立体的に描いたのだ。
しかし、だ。
「I Will Always Love You」は、歌詞の意味がわかってしまうと、これほど結婚式の披露宴に似つかわしくない曲もない。
でもいいのだ。
音楽には、歌詞とメロディとアレンジがあり、その全体でひとつの「表現」を構成しているから、このような場違いな場所に、奇妙な存在感を持って成立してしまう時がある。
似たような不思議な成立を見せる楽曲にブルース・スプリングスティーンの「Born in the U.S.A」がある。
この案件は、村上春樹がステレオサウンド誌に書いていて、今は文春文庫にも収録されているので、お読みになった方もいらっしゃるかもしれない。
この歌はアルバム「Born in the U.S.A」のタイトルトラックで、大きな星条旗をあしらったジャケットのイメージと相まってアメリカへの愛国心みたいなものを想起させる。
ブルース・スプリングスティーン
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この曲を大統領選挙のキャンペーンソングに使わせてほしいとオファーした。
結果的に、この曲を使った選挙キャンペーンは成功し、「Born in the U.S.A」はアメリカを讃える歌として機能した。
スプリングスティーンはおおいに戸惑っただろう。
何しろ、この曲はこういう歌詞を持っているのだ。
Born down in a dead man town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up
Born in the u.s.a., I was born in the u.s.a.
I was born in the u.s.a., born in the u.s.a.
救いのない街に生まれ、蹴飛ばされながら生きてきた
殴られどおしの犬のように、一生は終わる
身を守ることだけに汲々としながら
僕はそんな国アメリカに生まれてしまった。
それがアメリカに生きるってことなんだ
どこから見ても愛国的な歌詞ではない。
ホイットニーのラブソングを日本の結婚式に使うのは、まあそういうこともあるか、という感じだが、スプリングスティーンの場合には自分の国の国民が、まったく自分の意図と違う楽曲の捉え方をされたのだから、本当に驚き戸惑ったと思う。
ビリー・ジョエルもキャリアの上り坂でこのような案件に出会った。
それはアルバム「ストレンジャー」に収録された「Only The Good Die young」という曲だ。
ビリー・ジョエル
Sony Music Direct (2006-04-19)
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Come out Virginia, don't let me wait.
You Catholic girls start much too late.
こっちにおいでよ、ヴァージニア(この女性が処女であることを示唆している、もちろん)僕を待たせるなよ
君たちカトリックの女の子たちって、もったいぶるよね
つまり、ある種の教条主義に縛られがちな品行方正な淑女を、もっと楽しまないと、と説得する歌なのである。Only the good die young、つまり善人ばかりが早く死ぬっていうじゃないか、と。
この曲はカトリック協会の強い反発を招き、ラジオ局には圧力がかかった。
そしてかの国には何曲もある放送禁止曲の仲間入りをしたのである。
しかし、この曲が伝えたかったのは、カトリックが大切にしている清貧で禁欲的な生活への揶揄ではなかった。
They say there's a heaven for those who will wait.
Some say it's better, but I say it ain't.
I'd rather laugh with the sinners than cry with the saints,
the sinners are much more fun.
天国はそれを望む者のためにあるという
それが素晴らしいとは、僕には言えない
聖人と泣くのなら、罪人と笑いたい
ビリー・ジョエルが伝えたかったことはここにある。
聖人と泣く、には自分とは考え方の違う人達を否定して生きていくことの虚しさが、
罪人と笑う、には何より大切な「自分らしく」生きていく、ということにつきまとう責任のことが歌い込まれている。
普段なにげなく口ずさんでいる歌詞の中には、時に驚くほど大きな意思が込められていることがある。
それは最初からそこにあるのに、メロディの甘美さに隠されて、長い時間見つけられないまま、僕らと一緒にいたりする。
(それがたとえカラオケであっても)歌を歌う者のひとりとして、いつも肝に命じていたいと思う。
2014年2月16日日曜日
レコード・バイヤーズ・ダイヤリー
レコード・バイヤーズ・ダイヤリーという本がむちゃくちゃ面白い。
皆さんは中古レコード店で売っているレコードが、どこから仕入れられているかご存知だろうか。
一般の方にも馴染みの深い、古書店は、自分たちも本を売りに行くこともあるから、中古レコード店と聞いて、それはみんなが聴かなくなったレコードを買い取って、それを販売しているのだろうと思うだろう。
もちろんそれもある。
しかしこの時代にそのような集め方で商売になるような品揃えはまず出来ない。
多くの中古レコード店では、アメリカやヨーロッパの中古レコード店に買い付けに行っているのである。
まあ、そこまでは知っていた。
しかし、その実態といえば、それこそやってみなければわからない世界でとても興味があった。
なぜなら、このブログにGirasole Recordsという名前を付けているように、僕は心の中に架空の中古レコード店を持っていて、いつもその夢の世界で遊んでいる人間だからだ。呼びたければどうぞDreamerと呼んで欲しい。
その意味では、こんな本など読まないほうが、架空の中古レコード店を夢の中で経営するには楽しいのかも知れない。
でも一歩だけ、リアルな方向に足を進めてもいいかもな、と思いこの本を手にとった。
この本は、レコードへの愛のみにて生きる店主が、無計画に海外で買い付けを行う際に発生するトラブルを楽しむ趣向になっているため、まず背景になる部分だけ補っておこう。
まず、レコード文化の全盛期、日本は高度経済成長期にあった。だから人は概ね一生懸命働いていて、音楽にうつつを抜かせる人はそんなに多くはなかった。
同じ頃文化の発祥の地である欧米では、レコードという複製文化が発達する前から演奏会などで音楽を楽しむ風土があった。
しかしそれはいかんせん金持ちの趣味であったから、その複製が安価に手に入るレコードの発売は、家庭が娯楽の中心であった一般市民たちにとって福音であり、市場に大量のレコードが溢れた。
レコードは、なぜか男の収集マインドをくすぐる性質がある。
世界にはジャズやクラシックのレコードを屋敷いっぱい収集するコレクターも現れた。
村上春樹の短編には、そういう(実在の)ジャズレコード・コレクターの家で留守番を頼まれる「レキシントンの幽霊」という話がある。
しかし、ディジタル技術の革新で、コンパクトディスク=CDが登場し、コレクターはレコードを保持してはいたが、彼らの子どもたちは最初からCDで音楽を聴いた。
そして時は流れ、レコードコレクターたちも老い、亡くなっていく。
海外のニュースを注意深く見ていると、著名人が亡くなって、屋敷から大量のレコードコレクションが発見され、遺族が処理に困って、どこそこのレコード店に査定させてみるとウン百万ドル分だった、みたいなニュースを見つけることができる。
一般の人たちだって多くのレコードを家に持っていた人は多いだろう。
昨今のインターネットで音楽ソフトが配信されてしまう時代になって、一気のそれらのコレクションも市場に出てきている。
そのようにして、アメリカには、ちょっと我々には想像もつかないような巨大な中古レコード店があるのだそうだ。
この本では、買い付けにとロサンゼルスに飛び、毎日毎日レコード店に通い一日300枚近いレコードを買って、日本から持ち込んだダンボールに梱包し何千枚というレコードを国際宅配便で送るという日々が綴られている。
驚いたのは、ポータブルのレコードプレーヤーを持ち込んで、勝手に試聴するんだそうで、アメリカっちゅうのはおおらかな国ですな。
なにしろアメリカの中古レコードは30円くらいのものから、だいたい100円くらいのものが多く、「アメリカでの」人気盤が2000円程度。
アメリカでは人気がなく、100円で買った盤が日本ではそのレア度から人気を博していて5000円以上で売れるというタイトルもあるのだそうだ。
そういうマジック・タイトルを知っているかどうかがこのビジネスの肝なんですね。
この著者とはまったく違うスタイルと採っている中古レコード店主も何人か知っている。
一枚10万円近くで売れる、評価の定まった盤というのがあるのだが、とにかくそれを10枚探すために出かける、というタイプの人だ。
この場合は、ドイツあたりの古くからあるレコード店との関係を構築して、日常的に自分のための良盤をキープしておいてもらうことがキーになる。
しかしまあ、一回に300枚のレコード持って、レジに並ぶってのも大変だろうなあ、と思う次第で、しかし、10万円のレコードしか売ってない店ってのも僕の趣味じゃないな、と思ったりもするわけで、やはり中古レコード店の経営は妄想の中に置いておいたほうがいいのかな、というのが正直なところです。
皆さんは中古レコード店で売っているレコードが、どこから仕入れられているかご存知だろうか。
一般の方にも馴染みの深い、古書店は、自分たちも本を売りに行くこともあるから、中古レコード店と聞いて、それはみんなが聴かなくなったレコードを買い取って、それを販売しているのだろうと思うだろう。
もちろんそれもある。
しかしこの時代にそのような集め方で商売になるような品揃えはまず出来ない。
多くの中古レコード店では、アメリカやヨーロッパの中古レコード店に買い付けに行っているのである。
まあ、そこまでは知っていた。
しかし、その実態といえば、それこそやってみなければわからない世界でとても興味があった。
なぜなら、このブログにGirasole Recordsという名前を付けているように、僕は心の中に架空の中古レコード店を持っていて、いつもその夢の世界で遊んでいる人間だからだ。呼びたければどうぞDreamerと呼んで欲しい。
| この程度のシステムでは、レコードバイヤーにはきっとなれない DENON DP-500MにテクニカのAT-150LMX コンパクトで飾り気のないキャビネットが気に入っている |
その意味では、こんな本など読まないほうが、架空の中古レコード店を夢の中で経営するには楽しいのかも知れない。
でも一歩だけ、リアルな方向に足を進めてもいいかもな、と思いこの本を手にとった。
| コレクションも現状300枚程度の微々たるもの それでも聴ききれない。みんなどうしてるの? |
この本は、レコードへの愛のみにて生きる店主が、無計画に海外で買い付けを行う際に発生するトラブルを楽しむ趣向になっているため、まず背景になる部分だけ補っておこう。
まず、レコード文化の全盛期、日本は高度経済成長期にあった。だから人は概ね一生懸命働いていて、音楽にうつつを抜かせる人はそんなに多くはなかった。
同じ頃文化の発祥の地である欧米では、レコードという複製文化が発達する前から演奏会などで音楽を楽しむ風土があった。
しかしそれはいかんせん金持ちの趣味であったから、その複製が安価に手に入るレコードの発売は、家庭が娯楽の中心であった一般市民たちにとって福音であり、市場に大量のレコードが溢れた。
レコードは、なぜか男の収集マインドをくすぐる性質がある。
世界にはジャズやクラシックのレコードを屋敷いっぱい収集するコレクターも現れた。
村上春樹の短編には、そういう(実在の)ジャズレコード・コレクターの家で留守番を頼まれる「レキシントンの幽霊」という話がある。
しかし、ディジタル技術の革新で、コンパクトディスク=CDが登場し、コレクターはレコードを保持してはいたが、彼らの子どもたちは最初からCDで音楽を聴いた。
そして時は流れ、レコードコレクターたちも老い、亡くなっていく。
海外のニュースを注意深く見ていると、著名人が亡くなって、屋敷から大量のレコードコレクションが発見され、遺族が処理に困って、どこそこのレコード店に査定させてみるとウン百万ドル分だった、みたいなニュースを見つけることができる。
一般の人たちだって多くのレコードを家に持っていた人は多いだろう。
昨今のインターネットで音楽ソフトが配信されてしまう時代になって、一気のそれらのコレクションも市場に出てきている。
そのようにして、アメリカには、ちょっと我々には想像もつかないような巨大な中古レコード店があるのだそうだ。
この本では、買い付けにとロサンゼルスに飛び、毎日毎日レコード店に通い一日300枚近いレコードを買って、日本から持ち込んだダンボールに梱包し何千枚というレコードを国際宅配便で送るという日々が綴られている。
驚いたのは、ポータブルのレコードプレーヤーを持ち込んで、勝手に試聴するんだそうで、アメリカっちゅうのはおおらかな国ですな。
なにしろアメリカの中古レコードは30円くらいのものから、だいたい100円くらいのものが多く、「アメリカでの」人気盤が2000円程度。
アメリカでは人気がなく、100円で買った盤が日本ではそのレア度から人気を博していて5000円以上で売れるというタイトルもあるのだそうだ。
そういうマジック・タイトルを知っているかどうかがこのビジネスの肝なんですね。
この著者とはまったく違うスタイルと採っている中古レコード店主も何人か知っている。
一枚10万円近くで売れる、評価の定まった盤というのがあるのだが、とにかくそれを10枚探すために出かける、というタイプの人だ。
この場合は、ドイツあたりの古くからあるレコード店との関係を構築して、日常的に自分のための良盤をキープしておいてもらうことがキーになる。
しかしまあ、一回に300枚のレコード持って、レジに並ぶってのも大変だろうなあ、と思う次第で、しかし、10万円のレコードしか売ってない店ってのも僕の趣味じゃないな、と思ったりもするわけで、やはり中古レコード店の経営は妄想の中に置いておいたほうがいいのかな、というのが正直なところです。
2014年2月10日月曜日
文学の受難の時代
最近ネットで話題の中学生が書いたという、太宰の「走れメロス」のメロスは実は走っていなかったという論考を最初読んだ時、面白いことを考える子もいるもんだな、と思った。
微笑ましいこの小さな才能をみんなでシェアして楽しむのも悪くない風情に感じた。
そして、さらに叶うなら、文学を愛する者の立場から、大人になってしまった僕達がもう一度メロスを読む絶好の機会になるともっといい、と思っている。
そして、その時こそはこの少年の労作のことは忘れていただきたい。
メロスが妹の村に向かう場面を太宰はこう書いている。
「メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊(こんぱい)の姿を見つけて驚いた。」
実際には急ぎ足に歩いても充分着く距離を踏破したメロスが、体力がないせいかよろめいている、と読むべきではない、と僕は思う。
ぜひ、今一度、冒頭にある、王とメロスとの諍いの場面。その王のセリフに注目してご再読いただきたい。(僕はこの冒頭部こそが走れメロスの最重要部と思っています)
大人になった今、この王の気持には共感出来る部分がある。
むろん残虐な暴君を認めるわけではないが、
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
という王の言葉に、なにか思うに任せない社会というものへの諦めのようなものを感じ、他人事には思われないのだ。
そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
友の命をかけてまで走らせている。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。
太宰は、そのような男としてメロスを描いたのだ。
そして、同時に確かに太宰には、このような距離と速度と時間の関係について「計算」をしておく義務があったように、僕も思う。
この論考を書いた中学生が発動した一級のユーモアに身を委ねて、文学を読む態度についての考察ができた。
だが、こちらはユーモアでは済まない。
村上春樹が文藝春秋誌に掲載した短編「ドライブ・マイ・カー」の一件だ。
小説内で、北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていたのだそうだ。
これに中頓別町議が抗議。
ノーベル文学賞候補となる作家が事実と異なることを小説にしたことが町のイメージダウンにつながり、このまま放置すれば、本町への偏見と誤解が広がる訳ですから、作家に遺憾の意を伝え、なんらかの対処を求めることの緊急性は高いと思います。
活字化の事実を知りながら公式には何もしないということは、不本意な表現を認めることになります。環境美化や交通安全に励む町の代表である議員や首長は、こうした問題に敏感に反応すべきでしょう。
と述べている。
この発言からは、常に他者の失点を探して、自分の得点を上げることが求められる現代の病のようなものが感じられるが、それ以上に、文学を読む<態度>というものが、この国から決定的に失われ始めている危機感を感じる。
小説から該当の箇所を抜き出してみる。
小説から該当の箇所を抜き出してみる。
北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う
さて、この文中に、「中頓別町で、たばこを投げ捨てている人」は登場しているだろうか。
もちろんしていない。
この「ドライブ・マイ・カー」という短編小説を、小説として読んだ時、中頓別町に悪いイメージを抱く人はいないだろう。
分析的に読まなくたって、中頓別町の何かの瑕疵があって、住民たちにたばこのポイ捨てをさせる、というようなことがそもそも書かれていないことはすぐわかる。
よっぽど悪意のある読者でなければそのような言いがかりを付けはしないだろう。
分析的に読まなくたって、中頓別町の何かの瑕疵があって、住民たちにたばこのポイ捨てをさせる、というようなことがそもそも書かれていないことはすぐわかる。
よっぽど悪意のある読者でなければそのような言いがかりを付けはしないだろう。
だが、中頓別町の関係者だけは、中頓別町の内実についてそれぞれ思うところを持っていて、その内実が、この短編小説の「中頓別町」という単語に強く結びついて、読み方が変わってしまう。
文学とはそういうものなのである。
とはいえ、それは読み違いであることには変わりなく、こういう読み違いをしないために、我々は教育というものを受けているはずだが、その教育にも実効がなかったということなのだろう。
日本人の読書時間は極限まで減っているようだし。
日本人の読書時間は極限まで減っているようだし。
そしてその結果として、このようないいがかりがまかり通るのである。
だから町議の懸念は見当違いだとは思うが、それでもこれからは実在の町名で小説を書くことは控えたほうがいいのかもしれない。
だって、これが出版されたら、けっこうな人数が、北海道旅行のついでに中頓別町に行って、レンタカーの窓から火のついたままのたばこを投げ捨てて、写真をとって、「中頓別町で、たばこを投げ捨てているなう」とかやりそうな気がするもの。
村上春樹氏は、単行本化の際、町名を変更する旨を発言しており、事実上事態は沈静化したと言えるだろう。
文学の受難の時代は続く。
まいったね。
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