1985年に発表されたケニー・ロギンスのアルバム『Vox Humana(ヒューマン・ヴォイス)』は、彼の長いキャリアの中でも大きな転換点であり、80年代ポップ・ミュージックの狂騒と進化を象徴する野心作だと思う。
■ 謎めいたタイトル「Vox Humana」に込められたケニーの想い
まず目を引くのが、この「Vox Humana」という聴き慣れないタイトルだ。Vox Humana(ヴォックス・フマーナ)は、ラテン語で「人の声」を意味するが、パイプオルガンにおける最も古いリードストップの一つで、「人間の声」を模した音色を持つ特殊な音栓のことも意味する。16世紀末にはすでに存在し、特にフランス古典オルガンやシアターオルガンで重要な役割を果たしてきたらしい。
1980年代半ば、音楽制作の現場はフェアライトCMIやシンクラヴィアといった超高額なデジタル・シンセサイザーが席巻していた。機械でいかに人間らしい響きを再現するかに熱狂していた時代にあって、ケニーは「機械で人間の声を模した音色」の名前をタイトルに冠した。自分自身の肉体的な「ヴォーカル」とテクノロジーによって生み出される新しい音楽との関係を、このアルバムの中で表現しようとしていたのかもしれない。
■ 『フットルース』が生んだ巨大な重圧と、ヒットメイカーへの転身
本作を語る上で避けて通れないのが、1984年の映画『フットルース』の世界的な社会現象である。主題歌「Footloose」が全米1位を記録したことで、ケニーはそれまでのフォーキーでオーガニックなスタイルから、サウンドトラックの要望に応えて、時代の音を奏でるヒットメイカーとなった。
この空前のヒットは、次作にあたる『Vox Humana』の制作にあたって大きなプレッシャーになったはずだが、ロギンスは、エレクトリック・ギターの鋭いカッティングと、マシン・ビートが共存するハイテク・ポップ路線のアルバムを見事に仕上げてみせた。
■ 1985年のミュージックシーン:デジタル化への過渡期と熱狂
本作がリリースされた1985年は、音楽制作の風景が劇的に変化した年でもある。
- デジタル・レコーディングの標準化
音の分離が良く、クリアで硬質なサウンドが好まれた。
- MTV時代の視覚効果
ヴィジュアルと同期するエネルギッシュなビートが求められた。
- ライブ・エイドの開催
スタジアムに響き渡るようなスケールの大きなサウンドが主流となった。
先行シングルとなったタイトル曲や、映画『フットルース』に提供された「I'm Free (Heaven Helps the Man)」に見られる派手なシンセ・ブラスは、まさにこの「1985年」という時代の空気をそのまま真空パックしたような質感を持っている。
■ 時代に正対し、時代を超えた、ロギンスの回答
だが『Vox Humana』は、単なるトレンドの追随ではないと思う。
急激にデジタル化する世界の中で、「人間の声」という唯一無二の魔法を、どうやってポップ・ミュージックとして成立させるか。このアルバムがケニー・ロギンスの回答だったのかもしれない。

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