2013年7月30日火曜日

アナログレコードと、芸術の死と再生

未だに、一番よく使う音楽メディアはアナログレコードである。

それは単純な話、音楽に夢中になった少年時代、音楽メディアの主力はアナログレコードだったから、なけなしのカネでレコードのコレクションを揃えたし、だから強い愛着があって、今でも所有しているからに他ならない。

時代が変わり、CDに主力メディアの地位が移っても、配信データがCDの特性を上回り、受け皿になる再生装置が揃ってきた今日においても、僕が感受性豊かな若いころを一緒に過ごしたアナログレコードから流れてくる音楽の価値が変わることなどないのだ。


でもそれだけだろうか。
それだけのことで、持ち歩きに容易でない上に傷の付きやすい30cmのヴィニール盤を慎重に取り出し、いちいち埃を取り去り、スタイラス(針)を下し半分聴いたらひっくり返して、また埃を払い、というような手間をかけて音楽を聴いているのだろうか。

それだけのことで、まとまった自由な時間ができるといそいそと出かけて行って、カビ臭い中古レコード店の棚を、まるで宝物を隠した洞穴を覗きこむような期待を持って紐解いているのだろうか。


はっきりした理由はわからない。
わからないが、小さなダイヤモンド製のスタイラスが塩化ヴィニール盤に刻まれたマイクログルーヴをトレースしていく時、本来楽器や声の響きを「複製」したはずの空気の振動に、抽象的なサムシングを付け加えて再生しているような気がするのだ。




それが何かを知ろうとして同じ音源をCD化したものと聴き比べると、不思議なことにそのサムシングは霧散してしまう。
確かに音は違うように思うが、周波数特性のことが言いたいのではなくて、音の生命感や演奏の芸術性といったものに関わることの「何か」が違っているように思う。
しかし、そのことをうまく表現する言葉が見つからない。
だからいつもレコードが回転し続けるのを眺めながら、複製された芸術が息を吹き返していくのを虚心坦懐に受け止めることしかできない。

なんであれ芸術が複製される、ということがその芸術性のある意味での「死」であることは、絵画が原画で観るのと写真で観るのではまるきり違う顔を見せるのを経験した方には同意いただけると思う。
また、生演奏だけが音楽に触れる機会であった時代には神聖なものであったはずの演奏行為が、複製音楽が流通することによって大衆化していったことにも異論はないだろう。
現代の我々が生演奏の享受であると思い込んでいるコンサートでさえ、ひとつの演奏を大量の人に聴かせるために多くの楽器を並べたり(オーケストラ)、電気的に増幅したり(PA)して音楽体験を増幅する「大衆化」戦略の一環なのである。

大衆化は音楽を消費財に変貌させ、解釈に一定以上の努力を要求される高度だが豊穣な喜びを与えてくれる音楽よりも、わかりやすく心を動かしてくれるものをより多く生産させるようになる。

このような比定がCDとアナログレコードの関係にあてはまるかどうかは異論のあるところだろう。
しかしそれでも僕は、少なくとも生演奏が録音によって複製された時に失われたはずの「一回性」を、アナログレコードの溝をスタイラスがなぞっていく過程で書き戻しているような気がするのだ。




細川周平氏の「レコードの美学」には、こうある。
レコードのスタイラス stylus という言葉は古代文明で、象形文字やヒエログリフを刻み込むための鉄や骨でできた尖筆に由来する。
そしてそれは刻みこむ道具でありながら、同時に刻まれた跡 style に意味を転じていくのである。



刻みこむ道具と、エクリチュール(書法)の担い手が同一のものであるという一点において、このアナログレコードというメディアが、他のあらゆる大衆的な商業複製芸術の中でも極めて特殊な存在であることは間違いない。

そしてそれは聴き手の側にも、この再生そのものが「原音」であるとして聴くことができるかどうかの覚悟を要求する、ということでもある。
原音を忠実に再現しようとして芸術の死に加担するオーディオ趣味からの卒業の一歩が、その覚悟の先にある。
レコードを「演奏する」という覚悟が。

せっかくここまで音楽を愛して生きてきたのである。
そこまで行きたい。
アナログレコードと一緒に。

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