2015年2月22日日曜日

御手洗潔と進々堂珈琲:島田荘司

昨年の森博嗣「すべてがFになる」に続き、ついに御手洗潔がテレビドラマ化される!
→番組HP

ドラマ化されるのは「UFO大通り」収録の短編「傘を折る女」だそうだ。

UFO大通り (講談社文庫)
島田 荘司
講談社 (2010-10-15)
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「傘を折る女」はすでにコミカライズされている。「絵」になるストーリーに御手洗潔という名探偵の天才性を突き詰めて表現した、このタイプの代表作といえる。


島田荘司御大はいまだに旺盛に新作を書いており、御手洗ものの新作「星籠(せいろ)の海」で僕らを唸らせてくれたばかりだ。

その御手洗潔の大学生時代を描いた異色作が、新潮社から「進々堂世界一周〜カシュガルの追憶」というタイトルで出版されていたが、このたび文庫化された。
文庫化にあわせて「御手洗潔と進々堂珈琲」と改題された。

御手洗潔と進々堂珈琲 (新潮文庫nex)
島田 荘司
新潮社 (2015-01-28)
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が、あろうことか新潮文庫に新設されたライトノベルレーベル「NEX」からのリリースと聞いて昔からのファンは驚いたのではないか。
角川から出ていた「ロシア幽霊軍艦事件」と同時刊行となった。

表紙はサカサマのパテマやNO.6のキャラデザをやったtoi8さんだが、落ち着いたイラストでいい感じである。
が、やはり小説としてはNEX読者とはちょっと相性が悪いのではないか。

案の定、読書メーターなんかを見ていると、「初御手洗です。ミステリじゃなかったです。がっかり」的な反応が多く、明らかに失敗している。

これは御手洗潔という探偵物語の奥深さを指し示すAnother Sideなのであって、ファンにこそ深く刺さる作品。決して初御手洗にふさわしいものではないのだ。


ここに収録された4つの短編には、どれも国を跨ぐ人と人の繋がりが描かれている。
どの物語も、読み終えた後にむしろ「自分の国」について自分が知っていたと思っていたことが幻想であったということを思い知らされる。

田舎町にある「外国」と言っていいバーを経営する女性を好きになった高校生。
小さな街ながら、学習障害があるために異邦人として生きる少年が、自分の限界を超えていこうとする時に立ちふさがる偏見。
太平洋戦争を舞台に、植民地化された朝鮮の志願兵が体験する「祖国」からの迫害。
シルクロードの交差点で大英帝国とウイグルとの間で板挟みになった知識人の悲劇。

筆者はこの短篇集で、一貫して「愛国」という言葉の危険な思考停止を描いている。
それは日常にもあり、弱者の視線を見失った時に凶器に変わることを示唆している。
自分の視線がすべてだと思い込んだ人たちの善意が、抗い得ない運命として弱者を襲うことを教えてくれている。

誰もが、今よりもいい生活を望んでいるという幻想がそのエンジンを廻している。
隣の人が自分と同じだと思い込むシステムが僕らの神経組織には、ミラーニューロンという形でインストールされているので、なかばやむを得ないことではある。
それでも、自分と違う人がいるということ、その人が望んでいることもまた自分とは違うということを想像する知性がなければ、この世界から争いは無くならない。
争いが無くなることを望む人を「お花畑」という人は、それを想像したことがないのだろう。

ミステリだと思って読んだのにそうでなかったので残念だ、という感想こそが残念だ。
この物語は、人間という知性はなぜ時に想像する力を失うのかという最大の謎について描かれたミステリの傑作なのである。

最後に聴く曲

いつものように近所の少し大きめの書店に寄り新書の新刊などをチェックしていると、平台にPenの新刊が見えた。
中島美嘉さんの表紙に「最後に聴きたい歌。」のコピー。
これは買わねばなるまい。

Pen(ペン) 2015年 3/1 号 [最後に聴きたい歌。]

CCCメディアハウス (2015-02-16)

特集の冒頭にある、ピーター・バラカン氏の「愛した歌の数だけ、人生は豊かになる。」という言葉にこの特集の真意が端的に表現されていると思う。
自分の人生の最後に聴きたい曲を考えるということは、いいことも悪いこともあったはずの人生の瞬間瞬間に想いを馳せていくことに他ならない。
ちなみにバラカン氏が選んだのはアニマルズの「朝日のない街」でした。いいですね。

誌面では、朝日のない街(We've Gotta Get Out Of This Place)の収録アルバムとして「アニマル・トラックス」が紹介されている。

アニマル・トラックス(紙ジャケット&SHM-CD)
ジ・アニマルズ
ワーナーミュージック・ジャパン (2013-12-18)
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実質アニマルズにはファーストの「アニマルズ」とこの「アニマル・トラックス」しかオリジナルアルバムはない。これは2013年にその二枚ともを愛情たっぷりにオリジナルLPの仕様ごと復元させた紙ジャケット盤で、今が絶好の購入のチャンスだと思う。

久保田利伸が選んだヒートウェイヴというバンドの「オールウェイズ・アンド・フォーエバー」という曲は聴いたことがなかった。

Too Hot to Handle
Too Hot to Handle
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Heatwave
Sbme Special Mkts. (2008-02-01)
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マイケル・ジャクソンの「スリラー」を書いたロッド・テンパートンはこのバンドのキーボーディストで、オールウェイズ・アンド・フォーエバー」も彼のペンによるものと聞いたが、Youtubeで聴いてみたが、僕にはちょっとピンと来なかった。

今はまだその時期が来ていないのだろう。
音楽を理解する、ということにはそういう側面がある。
吉本隆明が、この作品の素晴らしさは僕にしかわからないはずだ、という強い感銘こそが芸術の本質なのだというようなことを言っていた。
そういうことなんだろう。

JUJUさんは、自身の芸名をもらったウェイン・ショーターの「JUJU」を挙げていた。

ジュジュ
ジュジュ
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ウェイン・ショーター
ユニバーサルミュージック (2013-11-20)
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通常最後の曲なんて言うと、ノスタルジックにさせてくれる美メロのバラードっぽい曲を想うもんだけど、この曲にはそういうセンチメンタルなところは欠片もない。
たぶんルートのコードも使ってないんじゃないかと思うような浮遊感。一瞬も聴き手を安心させない厳しい楽器同士のせめぎ合いが支配する曲。
これが、JUJUさんの音楽というものに対する基本的な姿勢なんでしょう。

各氏の選曲とも、概ねその人生の豊かさの反映になっていて素晴らしいのでぜひご覧頂きたいのですが、印象深かったファッションデザイナーのポール・スミス氏のページについて一言だけ。


ポール・スミス氏は毎朝6:00(!)にオフィスに出社すると、仕事場に置いてある3000枚のレコードコレクションからその日の気分のアナログレコードを聴くんだそうだ。
かっこいいなあ。
しかも使っている装置が、僕が小学生の時憧れて憧れて毎日カタログを眺めていたテクニクスのマットブラックに塗られたシステム・コンポじゃないか!!!





欲しかったなあ、これ。うーん、やっぱりかっこいい。
きっとこの装置からは、彼の人生がそこに凝集したような音が鳴るんだ。
他人が聞いたらちっともいい音じゃないかもしれないし、本当にすごい音なのかもしれないけど、そんなことどーでもいいんですよ。
もう文字通り、純然と自分の名前で勝負して生きてきた彼の生き方がどーんと伝わってくる。

もちろん音楽関係の知り合いも多い、彼のこと。CDを聴かないってわけにはいかないだろうけど、CDは部屋の隅に山積みなんだそうです。村上春樹さんと一緒ですね。


もちろん特集を読みながら、では自分の「最後に聴く曲」って何だろうと考えた。

僕を音楽に目覚めさせたベイ・シティ・ローラーズだろうか。
それとも自分で歌を書くことに向かわせた甲斐バンド?
その甲斐さんのラジオに教えてもらって、自分の作曲スタイルを決定づけた佐野元春かもしれない。
などと考えている間中、心の奥のどこかから、最後に聴くための自分の歌はまだ作れていないのかい?という声がずっと聞こえていた。

逃げられないものだ。
過去に書いた曲たちのリメイクをはじめてもうずいぶん経つが、あまりに昔書いた言葉が今の自分にフィットしなくて放り出しかけていたのだが、やるしかないね。

晩年、病気で記憶が曖昧になったモーリス・ラヴェルは、自分の作った「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いて、「この曲は素晴らしい。誰が書いたんだ。自分もこんな曲を書きたかった」と言ったという。
そこまでのものは望まないが、僕にとっての最後の曲が、やはり自分の書いた曲でないというのも寂しいとは思うから頑張ってみる。

2015年2月3日火曜日

セプテンバー・ラプソディ:サラ・パレツキー

サラ・パレツキーのV.I.ウォーショースキー・シリーズ第16作「セプテンバー・ラプソディ」
絶好調なのである。

シリーズ最長にして、間違いなく最高傑作の登場と言いたい。


セプテンバー・ラプソディ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
サラ パレツキー
早川書房
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不思議なことだが後半を読んでいて、なんとなくCDをバッハの無伴奏チェロにしなくては、と思った。
CDを換えると、まもなく物語の中でも同じ曲が流れ始めた。

Cello Suites
Cello Suites
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Harmonia Mundi Fr. (2007-10-09)
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この曲は、16世紀の繁栄の後、宗教的な対立がヨーロッパの歯車を狂わせていった時代に、そのような人間の欲得とは無縁のところにバッハが打ち立てた金字塔だ。


この物語にうずまく本当にいろんな形の「エゴ」と、純粋な学問への「愛」のどうしようもない交わらなさ、にその対比はよく似ている。

人間は理解し合うことが絶望的に難しいからこそ、超越したものに憧れるのだろうか。

2015年1月28日水曜日

日本語と私:大野晋

最近、北海道の砂川市という小さな街にある、いわた書店の一万円選書が話題だ。
その人の嗜好にあった本を、これまでの読書歴から店主が勘案して一万円分の本をセレクトして送ってくれるというサーヴィス。

店主のブログなどを読むにつけ、驚かせてくれそうで気になるが、自分で読みたいと思う本で僕の時間は精一杯だ。
逆にこの本ならすべての人に読んで欲しい、と思う本ならある。
でも書店さんのように責任はとれないからブログに書く程度にしておこう。

今なら断然この本。
大野晋先生の「日本語と私」だ。


日本語と私 (河出文庫)
大野 晋
河出書房新社
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国語学者が著した、学問としての「日本語」との格闘の記録。
だが、ここにはあらゆる働く人への示唆が満ちている。

夏目漱石の小説からすべての「は」と「が」の用法を書き抜いて、はじめて主格の助詞の用法を知る。
いくつかの時代にまたがる古い辞書をくまなくひいて、はじめて「お」と「を」の仮名遣いの相違の真意を識る。
コソ・・メの用例を知りうるだけ集めて吟味をして、万葉集の句に異解を示す。

誰もがハンナ・アーレントの言う「イェルサレムのアイヒマン」になる可能性がある。
そうならないための本当の確信とは、このような徹底した作業によってしか生まれないということだろう。

その大野先生から見れば、現代の国語教育はまことに不本意なものだろう。
古今東西の名作を2~3ページに細切れにし、「犬君が雀を逃した」という部分を「源氏物語」だと言って教える。こんな非道いことはないと嘆く。
このような形ばかりの平等主義を教育に導入したものこそ「アイヒマン」の精神なのだと感じられる。

では私学による個性的な教育に期待しようということになるが、そうなると経済格差が教育成果にまで及び、さらなる格差の拡大につながる。
北欧のように、教材は教員の自由という行き方がいいのではないかという思いが募るところだ。

教育改革に話が及べば、本書にも終戦以降の教育改革の歴史が記されており興味深い。
こうある。

戦後は、国語教育に、生活経験学習という行き方がアメリカから輸入された。文部省はそれを新教育と呼んでいた。従来の教育を暗記偏重、生活から遊離した知識の習得と非難し、実生活を通じた生きた知識を身につけなくてはいけないととなえた。

今さかんに議論されている大学入試の改革でも聞かれる言葉だ。
いつの時代も、それまでの教育は「知識偏重」と見えるのである。
ということはだ。
要するに、やはり教育とはどこまでいっても「暗記による知識の習得」であるということなのだろう。
新しい時代への対応のために、それまでの教育を批判しなくてはならなくなった時、ほかに言いようがないから「知識偏重」と言っているだけのことだ。

一見クイズのように見える問題が入試に出たとして、問うているものの本質がその解答限りのものであるという考え方は少し偏狭なのではないか。

もし大学入試改革が、ネットでの軽薄な言説のように、部分を切り取って批判を積む手法で行われるとしたら、戦後から今までずっとやってきた迷い道と同じだ。
こんなときこそ、大野晋先生が日本語と格闘するときにお見せになる、あくまでも真摯に事実と仮説を行き来する方法が採られるといいと思っている。
そして「働く」ということのすべてのシーンで、この真摯さが必要とされているはずだ。
その意味で、あらゆる人におすすめしたいと思う本なのである。

2015年1月25日日曜日

ラリー・カールトンとスティーブ・ルカサーの札幌公演を観に行ってきた。

今日はラリー・カールトンとスティーブ・ルカサーの札幌公演を観に行ってきた。
昨年も冬にラリーの札幌公演を観に行った。
こんな記事を書いている。

前回はデヴィッド・T・ウォーカーとの共演で、演奏は素晴らしかったが、前半PAに強い「不足」を感じたライブだった。

で、今日のPAは凄かった。
これはZEPPの音なのか(前回は札幌市民ホール)、それとも共演者スティーブ・ルカサーの趣味なのか。

ドラムスのキックがドン!と会場に響いた瞬間、僕の中の時計が70年代に戻った。
まだロック・コンサートが耳が痛くなるほどの音を出していた頃の音圧が出ていた。
リミッターで堅く締められた音もあの頃の音色によく似ている。
ベードラで心臓がバクバクいわなきゃロックじゃないと思っていた、忘れかけていたあの頃の音だ。

今日の主役はラリーでもスティーブでもなく、間違いなくこのドラマーだったと思う。
あの場にいた演奏者も含む全員に異論がないと思うが、後半の長いドラムソロが、今日一番の盛り上がりどころだった。

でもステージをリードするバンマスは、やはりスティーブ・ルカサーだった。
生で観たのは初めてだが、明るい。とにかく陽気だ。
MCはほとんどスティーブ・ルカサーがとっていた。
誰かのソロが終わると、観客の拍手を促す。
うまいよね。ステージ慣れしてる。コンサートっていうエンタメ空間をプロデュースしてる。

メンバー紹介もやってたけど、ラリーの紹介の時、「マイ・センセイ!」って紹介して笑いも取ってたな。

で、スティーブ・ルカサーは歌も歌う。歌う時は、MCで「もう俺、歌っちゃうぜ」と言う。歌うの好きなんだろうなあ、って感じ。
今日は3曲。
クリームのカバーでクロスロード。ジミヘンのリトル・ウィング。これは確かTOTOでもやってますね。
そしてアンコールでジョージのホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス。
全部、クラプトンがらみだけど、ルカサーとクラプトンって接点なさそうだよね。

ルカサーのアンプは今日はボグナーが二台。
たぶん、歪用とクリーン用を切り替えて使ってたんだと思う。
曲によって音が前に出てこなくなることがあって、しきりに足元でなんかいろいろ踏んでた。

でー、肝心のラリー・カールトンのギターですが、なんか今日はジョン・スコフィールド的とも言える、不思議な浮遊感のあるフレーズを弾いてて面白かった。
ルーム335も、前回はちょっと冴えない感じだったけど、今日はルカサーが弾きまくってたから、ラリーがバッキングに注力出来た分、この曲の素晴らしく凝ってるのにウルトラポップな本性がうまく表現されていてとても良かった。

昨年ルーム335を演奏するラリー・カールトンを観て、自分でも弾いてみようと練習をはじめたんだった。
けっこう難しくて頓挫してたんだけど、この動画を見つけて、メインのテーマはなんとなく弾けるようになった。



いい曲だよね。
練習した成果か、ラリーが何をやっているのか聴いていてよくわかった。
あー、そういえば後ろの席の人がみんなが異様に盛り上がってるのを見て隣の人に「これなんて曲?」「これ、あれですよ、ルームさんろくまる」って部屋番号違うよー、って突っ込みたくなったけど、そんなことも含めて楽しいライブだったと思う。
これでもう少し長く演奏してくれればなあ。
正味1時間50分くらいだったろうか。
やっぱりちょっと短いよね。
アンコールも一曲だったし。

気になることがあると言えばある。
途中、昨年9月に亡くなったジョー・サンプルに捧ぐという趣向でクルセイダーズの曲をやったんだけど、ラリーが亡くなってしまったジョー・サンプルのために、っていうしんみりしたMCをとってるのに、クルセイダーズの曲をやってくれるのがうれしかったのか一部の観客が、拍手したりイエイ!とか、ちょっと場違いな反応してて空気がすうっと薄くなる瞬間があったんだよね。
気を悪くして、なんてことないよね。
まさかね。

2015年1月15日木曜日

ぼくの住まい論:内田樹

内田樹先生の「日本辺境論」からは、「中華思想」というアジア全域を舞台に、想像を絶する長い時間をかけて展開し続けた壮大な政権交代システムのことを学んだ。

日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社
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「現代霊性論」という著作からは、信仰のあるなしにかかわらず、「死者を正しく弔うこと」への畏れの感情があることを学んだ。なぜなら人は死者のほんとうの気持ちがわからないからだ。

現代霊性論 (講談社文庫)
内田 樹 釈 徹宗
講談社 (2013-04-12)
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これらの「論」には定性的なエヴィデンスがない。
しかし心が納得する。
それはきっと自分自身のこれまでの経験が、その論を支えている思考の展開を支持するからだろうと思う。


新潮文庫に新しく収録された「ぼくの住まい論」は、それらよりもずっと身近なテーマを題材にしているが、論調は変わらない。

ぼくの住まい論 (新潮文庫)
内田 樹
新潮社 (2014-12-22)
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冒頭から、誰のものでもなかったはずの土地に、勝手に線を引いて売り買いする権利はどこから発生したのか、という刺激的な疑問の提起からこの本ははじまる。
家を建てるための最初の一歩である「土地の入手」への疑義からこの本ははじまるのである。

続いて、一般的な家族の有り様や、家の構造が、家族の中で最も弱いものをかばうようになっていないことに強い疑義が提示される。
家が、傷つき疲れたものが体を癒やし英気を養うためのものでなく、強者が住まうことが前提になっているから、バリアフリー化をしたり、手すりをいっぱいつけたりしなくてはならない。
その家に住めなくなった者のための施設も必要になる。
国家予算の半分ちかくを社会保障に費やす必要があるのは、個々の家に福祉の“思想”がないからだと喝破しているのである。

また家を建てるための材木を探す中で、グローバリズムが日本の林業を壊滅寸前まで追いやっている現状に直面する。
“安いからこっちを買う”という精神の貧しさ。
近隣の産業を壊滅させれば、今まで自分の生活を消費者として支えてくれていた隣人を失うことに気付けない愚かしさを指摘する。

左官職人や瓦職人の生き方から、分業でないことの力強さを語る。
寺田寅彦の「文明が進むほど、自然の暴威に破壊されるものが大きくなる」という言葉を引用し、レヴィ・ストロースの言う、間に合わせで生きていく技術「ブリコラージュ」に言及する。
なぜ分業し高度化するのか。
それは経済的成長のためだ。
では、経済的成長とは、いや有り体に「儲かる」ってどういうことだ。
内田先生、ここに至ってカネをたくさん得ることへの疑義を呈する。

「交換」を効率的に行うために作られた“虚構”であるところの貨幣は、それ自体に価値はない。
交換して得られるべきものも、自分の身体のサイズを超えて得る意味は無い。
サイズを超えて求めれば、貨幣で貨幣を買うしかない。
この滑稽なゲームが我々が現在金融経済とよんでいるものの正体であると。

家作りの工程に併せて、内田先生の社会観がひとつの形になっていく見事な論説集と思う。
いや、意地悪な言い方をすれば、今まで出されてきた衒学的で寄せ集め感の強い論考集の多くが、家作りという人間存在を嫌でも「表現」してしまうテーマの元でうまく統合された、というべきか。

効率重視で勝つことが最優先の世界への疑義。
弱き者への視線が社会を根本から変えていくというビジョン。
現代にこそ提示されるべき「小国寡民」と「アジール」の思想。
それらのすべてが「住まいの思想」の中に統合され得ると証明してみせたことが本書の真の果実なのである


2014年12月22日月曜日

新・戦争論:池上彰・佐藤優

池上彰さんと佐藤優さんの共著「新・戦争論」が売れている。
お二人とも、非常にフレーズ作りのうまい方だなあと、ご著書を読むたびに感心する。
それは、たとえば飲み屋なんかで時事的な話題になった時に、一言でおっと思わせるような印象的な切り口の言葉だ。

集団的自衛権の話題になった時、「ああ、あれは公明党がうまいことやったよね・・」と言えば、えっえっ、どういうことってなるでしょ?
また、今度のアメリカ大統領選では、ブッシュ弟が出てきて、ヒラリー・クリントンと一騎打ちになりそうで話題になっているが、そういう時も、「湾岸戦争の時のパパ・ブッシュは賢かったのにね・・」といえば、え、うそうそなんで?ってことになって、またしても居酒屋政談のイニシアチブはこっちのものだ。

どちらも答えは本書に書いてある。
本書は「プロっぽい」ものの言い方のカタログなのである。

なかなか理解し難いイスラムに関連する国際紛争も大筋で俯瞰できるし、これも報道などではあまり使われていない印象的な言葉でまとめてくれているので、用語が理解しにくい分、敬遠しがちなこのテーマの格好の入門書としても機能する。


通読して感じることは、二十世紀の戦争はまだ終わっていないんだな、ということだ。
勝者の思惑で引かれた新しい秩序という名の不完全な境界線は、多くの歪を生み出し、イデオロギー対立による東西冷戦という新しい大きな危機の陰にかくれて少しづつ臨界に近づいていった。
そしてその冷戦構造が無くなった今、古い起源の歪が前景化している。
すでに臨界は破れ、いくつもの軍事的衝突が起こっているこの時代は、のちの時代から見ればやはり二十世紀から続いた戦争の世紀であったと評価されるに違いない。

問題は、小国が対象になっているときは根本的な世界の有り様を考え始める機運がおこらないということではないだろうか。
結局のところどう言い繕ろっても、あらゆる紛争は大国同士の代理紛争なのであって、最終的には利害の主体同士の衝突になるだろう。
そうしてはじめて、新しい世界の体制が話し合われるのだろう。
第二次大戦と同じ。

ということは、この轍はその後もまた繰り返されるということか。
人の営みはそれ自体が連続性を持っていて、ある種の慣性にしたがって動いている。
しかしその方向転換の手段が戦争しかないというのではあまりにも寂しい。

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)
池上 彰 佐藤 優
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2014年12月16日火曜日

その女アレックス:ピエール・ルメートル

年末恒例のミステリ・ランキングで、海外部門の1位を総ナメにした傑作「その女アレックス」ほど書評を書くのが難しい本もない。
叙述トリックでもないのに、読み進めるほどに知らず纏わりついた先入観をひっくり返され続けていくこの感覚がこの物語の醍醐味だとすると、それはまさに「読んだ人にしかわからない」ものだからだ。

要素のひとつひとつに素晴らしい独創性があるわけではないと思う。
それなりに魅力的な人物造形だとは思うが、それだって「ミレニアム」ほどじゃない。
犯罪の残虐性もミステリ史に残る、とまではいかない。
しかし、作者ピエール・ルメートルによって丁寧に編まれた物語が生み出す「読書体験」の極上さはまさに筆舌に尽くしがたいものだ。

というわけでこれ、読むしかないです。
でも、この本に関してだけは「騙されたと思って」という常套句を付け加えることができません。
だって実際1ページ目から騙され続けるのを楽しむ本なのですから。

その女アレックス (文春文庫)
ピエール ルメートル
文藝春秋 (2014-09-02)
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2014年12月7日日曜日

ウディ・アレンのロンドン三部作に心が動かなかった理由

ウディ・アレンのロンドン三部作、全作観た。
正直どの作品もピンとこない。

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ウディ・アレンの夢と犯罪 [DVD]
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ウディ・アレンの映画に描かれる恋は、それまでの「生活」という連続体を、突然分断する。いくらなんでも衝動的にすぎて、それはいつも僕の価値観からはみ出している。

確かに「恋」という心理状態そのものは化学反応である。
比喩ではない。
強く心を動かす相貌が、ドーパミンを分泌させ、テストステロン値が上がることで性的欲求を亢進する。
ドーパミンはまたノルアドレナリンを派生し、人をある種の躁状態に導く。
脳内ドーパミン濃度が高まると、セロトニンの濃度が低くなって強迫観念に囚われる。

つまりこれは人のアンコントローラブルな本能だ。
だからこそそれは人間の「恥」の根源となる。

つまり、恋そのものは生理的で反射的なものであり、それが引き起こす社会的な存在としての自分の危うさをどのように飲み込んでいくかに、自分自身の本質が現れるということだ。
映画や文学が、他者と異なっているかもしれない自分自身の本質についての理解を描きたいとする情熱なんだとすると、「恋」そのものだけはその対象になりはしないということだと思う。
ウディ・アレンの描く「恋」は、その衝動の部分だけが描かれ、翻弄もされなければ抗いもしない。

一方この三部作ではそれに加えて、殺人や犯罪をテーマとして取り扱っている。
ウディ・アレンの描く殺人者は自らの行為に過度に逡巡する。
そして捜査する警察は殺人事件だろうとなんだろうと、サラリーマンとして事件を常識的に手順として処理していく。
「恋」の場合とは逆に僕の日常的な価値観の範疇に収まってしまっている、ということだ。

「殺人」なんだよ。
殺すということは、愛するということと密接な関連がある。
なぜなら人は「殺害できる」ものしか愛することができないからだ。
自分を殺害の対象とするものを愛することが出来るだろうか、と自問すればこの言葉の意味がわかるだろう。
犬や猫が僕らを殺しうる能力を持っていたら、または綺麗な花たちが突然僕らに噛み付いてくるようなものだったら、それらを愛することはできないのである。

だから殺人に関して言えば、物理的な障害はさほど大きくない。
むしろ、自分を殺すことなどないだろうと思っていた愛する人が、ある日自分に凶刃を向けるということが倒錯であるからこそ恐怖なのであり、「人を殺していけない」という刷り込まれた道徳観を乗り越えていくほどの事情にこそ描くべき個別性がある。
それは決して、日常の価値観に収まっていてはならないものだと僕は思うのだ。

だからウディ・アレンの映画は人間を何かの器のように描いているように思えてならない。
そのような目で見ると、器としての都市、器としての家、人間関係、自動車、楽器、服装、身のこなし、仕事、それらのすべてがスタイリッシュに描かれている。
悩みさえも。

美しくパッケージされた美意識。
それがウディ・アレン映画から僕が感じるもので、それはいまのところ僕の心を動かさない題材であるように思う。残念ながら。

2014年11月28日金曜日

ソロモンの偽証:宮部みゆき

宮部みゆき先生、お久しぶりの現代ミステリー「ソロモンの偽証」
実は刊行時にはちょっと食指が動かなかった。

いろんな意味でどん詰まりに来ているような気がしてならない社会を生きる者として、社会派ミステリーの直截性が、近年少し煩わしいと思っていたからだ。
しかし、おそらく2014年を政治の退廃が極まった年として記憶させることになるであろう愚かしい解散総選挙の様子を見ていて、このようなものに振り回される事自体が無意味だと感じるようになり、文庫化になったタイミングで、読んでみることにした。

まじで「読まされる」作品だった。
結局六巻を三日で、文字通り一気読みした。


ソロモンの偽証: 第I部 事件 上巻 (新潮文庫)
宮部 みゆき
新潮社 (2014-08-28)
売り上げランキング: 264

舞台が中学校。そして時は1990年。
1984年から1987年にかけて行われた中曽根臨教審の結果である「個性尊重、ゆとり教育」が教育機関に浸透していった時期である。

経済振興策としての「教育の自由化」を掲げた中曽根首相と、それを食い止めようとする文教族の闘いこそが臨教審の本当の姿だったわけだが、この闘いの折衷案として出てきたのが「個性尊重」で、従来の教育システムを残したまま、良くも悪くも受験競争の序列が作り出していた規律が崩壊していく混乱期の教育現場を「ソロモンの偽証」は描いている。

未成熟な心には「序列的な」個性しか認知できない。
今までは(たかが)成績の問題であったものが、人格にまで拡大されてしまう。
またかつてない好景気の中で、忙しい家庭は傷つきやすい子どもの心を包んであげられない。
停滞する現代社会の「原罪」を宮部は告発しているのである。

気になるのは、学校は必要悪である、というメッセージの唐突感と、説得力の薄さ。
もちろん茂木記者の見解だからどうしても役割的に、という理由もあるのだろう。
しかし実際は筆者の中に、学校の役割がでたらめに拡大していった時代であったことの認識が足りていないからではないのか。

経済成長を追いかけるばかりで、大人は家庭を「仕事だから」の一言で軽んじ、全人的成長をも学校に委ね始めていた。
それは職場で自分が詰られているビジネスの厳しい評価軸を、そのまま返す刀に使って学校を切りつける時代のはじまりだった。
学校を「必要悪」と表現する意味は、その延長線上にこそあると僕は思う。
この物語の背骨を支える重要な背景だっただけに、茂木のカウンターパートをセットしておくべきではなかったか。


固定化された身分制度の時代を終え、到来した市民社会は格差社会だった。
宮部はこの物語で格差の源泉は経済ではなく、家庭そのものだと言っている。
様々な親と子のカタチ。
それこそが宮部の描いたものだ。
真っ当に働く親の姿を知っている子を筆者は真っ当な人間に描いているように思える。

真っ当な人間と、真っ当でない人間の格差は端的に理解力に現れる。
そこで、万人に納得させるために人間社会が長い時間をかけて磨いてきた「裁判」という制度を骨組みに持ち出してくるのは必然だったと思う。



ミステリ読みの界隈で本作の評価が割れている理由はよくわかった。
宮部みゆきは本作において、せっかくの大技トリックが明かされる瞬間を最大限読者を驚かせるように配置させていない。
ミステリファンなら100%、途中でどういう筋書きかわかってしまう。

しかしそうしてでも、宮部先生は、登場人物の「心」を大切にしたのだと思う。
ミステリだからって、読者を驚かせばいいってもんじゃないんだと。
ネタが割れていくことを恐れずに徹底的に書き込まれた何人もの傷ついた若い心が、忘れたはずの自分の心の傷を思い出させる。

痛い。
こんな痛い読書体験は本当に久しぶりだ。

感情移入するのではない。
自分自身が痛いのだ。


向き合うものはそれぞれだと思う。
僕にとってのそれは、とてもじゃないがこんなところには書けない。
だからこそ、文学というものがこの世にある。
共有できない感想が本当の感想だ、と思い知らされる作品。
まいった。

2014年11月20日木曜日

バークリーメソッドの先にあるもの

ずいぶん昔のことだが、前職で広報のお手伝いをしていた某音楽系専門学校が、バークリー音楽大学との短期留学プログラムを作ることになり、僕も視察旅行に同行させていただけることになった。

憧れのバークリーである。うれしくないはずがない。
バークリーは、ポピュラー音楽教育の聖地なのだ。

起源は19世紀から20世紀にかけて活躍したナディア・ブーランジェという音楽教師にある。
ストラヴィンスキーなどとも親交のあった彼女はアーロン・コープランドなどの著名な作曲家を育てたが、クラシックのみならずその他の音楽分野にも広く通用する音楽理論を構築していた。
バーンスタインやバレンボイム、リパッティといったクラシック界の巨人に混じって、アストル・ピアソラや若き日のキース・ジャレットなども彼女の門を叩いている。

その多くの門人の中に、ヨーゼフ・シリンガーというロシア人の音楽家がいて、 彼のアメリカへの亡命が、ジャズの故郷アメリカに欧州クラシック音楽の理論的集成ともいえるナディアの和声理論を広めることになった。
ヨーゼフは、アメリカに渡ってガーシュインやベニー・グッドマン、ジョン・ルイスなど後のジャズの巨人たちの家庭教師を務めたのである。

ヨーゼフの生徒の一人だったローレンス・バークが作ったシリンガー・ハウスが、バークリーの前身。小さな私塾だったシリンガー・ハウスは人気を集め、学校組織に改組するにあたって、自分の息子の名前(リー・バーク)をとってバークリー音楽院と改称したのだった。
ローレンスさんも親バカさんだったんですね。わかります。


ともあれそのバークリー、実際に足を踏み入れると、そこは誇張ではなく音楽の王国であった。
クインシー・ジョーンズが、ジョン・スコフィールドが、そして小曽根真が、はたまたミッキー吉野が学んだ学び舎は、どこもかしこもオーラに充ちていた。

その時は舞い上がって、グッズなどを買い込んだだけだったが、日本に帰ってからバークリーメソッドについて書かれた菊地成孔さんの本などを読み、少し勉強してなるほどなあ、と思った。


今僕らが音楽を作るときに半ば無意識に使っているコード理論とか楽器の弾き方の背骨みたいなものがそこにはあった。



例えば、先日NHKの亀田音楽専門学校にゲスト出演した布袋寅泰さんが、ギターバッキングのひとつの方法として、コードのルート(根音)と五度(ドに対してのソ)だけを弾くと、ドライブ感が増す、というような解説をしていた。実際よく使う奏法である。パワーコード、と一般に言う。

バークリーでは、この弾き方はドとソを一緒に弾くと、その2つの音(基音)とは別に2つの音の周波数を引き算した結果の周波数が、独立した別の音(差音)として鳴る、と教えられる。
引き算なので非常に低い周波数の音になる。それが弾いてもいないのに出るのである。
ちなみにこの場合は2オクターブ下のドの音が出る。
実際にギターから出るはずのない低い音が第三音として鳴るのだ。
この迫力こそがパワーコードのパワーたる所以なのである、と。


また、作曲をするのに、キーボード・バッキングの勉強をしようと、ヤマハのデモンストレーターが作った教則DVDを買ってみると、ビデオの冒頭で「キーボードをはじめて二日目からは、Cのコードを弾く時はド・ミ・ソじゃなくてソ・ド・ミと弾いてください」と言っていた。「ド・ミ・ソじゃ素人っぽいから」と。

バークリーでもCコードはソドミと弾くが、その理由についてこのように教えられる。
基音(ここではド)の周波数を整数倍にした音を「倍音」という。ドの第二倍音(2倍)はオクターブ上のド。第三倍音はソ。第四倍音は2オクターブ上のド。第五倍音がミ。
並べると、ドド・ソドミとなる。
この、ひとつの音が発生させる倍音の様子を正しく再現するように、左手でド・ド、右手でソ・ド・ミと弾くことの自然さこそがこの弾き方の根拠である、と。

コードを弾く、ということだけなら結果は同じかもしれない。
知らなくてももちろん弾けるし、わかっていればうまく弾けるというものでもない。
しかし、学ぶ対象としての音楽への「敬意」は明らかに変わるだろう。
なにより、これは知的感興であり、それ自体に価値がある。

このような数論的音楽理論は、その先に進めば三角関数、フーリエ変換、オイラーの公式などが待ち受けていて、音楽が「音韻」と「音響」から成る科学の芸術であることが理解される。
バークリーメソッドの中核にこのような認識があることは、バークリーの創始者ローレンス・バークがマサチューセッツ工科大学の卒業生で、ピアニストをやりながら技術者としても糧を得ていたことと無関係ではないだろう。

難しいが、理解したい、と思っている。
現時点の理解でも、ギターを弾いている時、和音の響きがどのように合成されて、内声がどのように動いているか“視える”ようになってきたように感じている。

このような理解を踏み越えていった先にこそ、コードネームを意識しなくても楽曲にあったギターが弾ける技量が待っているような気がするのだ。
どのみち音楽とは一生付き合うつもりでいる。
とことんやってみようと思う。


【Anthologies #1】心に澱が積もる夜には|大貫妙子『ライブラリー』

 還暦を過ぎ、いつの間にか貪欲に新しい音楽を探すことはなくなった。 それでも、日々を生きていれば音楽に頼りたくなることはあるものだ。そんなとき聴きたくなるのは、アーティストたちの人生が垣間見える<アンソロジー>で、いくつか愛聴盤がある。 誰かの心無い言葉や、諍いに心に澱が募るよう...