時々どうしようもなく聴きたくなってシングル盤を取り出す。
そういう曲はきまってB面。
A面のヒット曲は、だいたいどこかのコンピレーションに入っていて、レンタルCDからiTunesの中に収められているからいつでも聴ける。B面の曲は、そうはいかないから、レコードを取り出してターンテーブルに載せ、針を落として聴く。
最近思い出してよく聴くのは、クリスタルキングだったりする。
クリスタルキングのデビュー曲「大都会」のB面「時流」と2曲目の「蜃気楼」のB面「朝焼けの街角」は、どちらも安部恭弘の作曲による佳曲で、二人の声のコントラストに最大限にフォーカスしたA面曲とは違い、いい意味で普通のフォーク寄りのポップスだ。
こういう曲だとムッシュ吉崎がどんだけ歌うまかったかよくわかるね。
ずいぶん後になってから安部恭弘さんの「モデラート」というアルバムに出会って彼の音楽が大好きになった。
ある日シングル盤のクリーニングをしていてクリスタルキングのB面に彼の名前を見つけた時は本当に驚いたんだ。
それ以来、よく聴くようになった。
両シングルともA面はギタリストの山下さんが作曲している。
二人のキャラクターを最大限活かした曲作りはとても巧みで、一世を風靡しただけのことはあると思う。
でも肝心のギターの方は、まあなんというかアレだったよね。
ちなみにあの素晴らしいハイトーンボイスの田中さんは、草野球をしていて喉にボールが当たって、もうあの声は出ないんだそうだ。お気の毒に・・
あと、クリエイションの大ヒット「ロンリー・ハート」のB面もよく聴く。
収録されているのは、なんと「ロンリー・ハート(英語版)」である。
彼らの音楽志向を考えるとたぶん、こっちが先なんだろうなと思う。
いつかカラオケで、と思うがなかなか歌詞が覚えられない。
かっこいいよ。英語版。
こういう構成の妙ってCDでは成立しないよね。
CDでカップリングしたとしてもオマケに見えちゃうんじゃないかしら。
あ、あとあのB面は究極の仕掛けだな。
ナイアガラ・トライアングルの「A面で恋をして」
A面で恋をする歌だから、なんとB面がない、という。
音が刻まれてなくてつるつるなの。
買った時、B面見て驚いて、ちょっと考えてにやりとして。
いいよね。
これも立派な、忘れられないB面です。
2014年11月15日土曜日
2014年11月14日金曜日
サスペンスの複層構造:「インセプション」
クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』は、SFアクションの映画だが、同時にどうしようもなくサスペンス映画なんだと思う。
ここではまず、サスペンスとは何か、について確認しておきたい。
テキストに、北海道大学出版会「日本探偵小説を読む」に収蔵された、僕の大学時代の友人でもある評論家大森滋樹氏の論文「サスペンスの構造と『クラインの壺』『ジェノサイド』の比較考察」を引用する。
まず「サスペンス」の定義だが、権田萬治・新保博久『日本ミステリー事典』によれば、文学におけるサスペンスは、
論文で大森は、サスペンスは
そしてその「拘束」は、「閉じ込める」「追い詰める」といった空間的な要素か、または制限時間を決め、その間に複雑な作業を手早く処理させ、刻々とセコンドを刻んでいく時間を限定するもの、あるいは両方を組み合わせて精神的な自由を失う状態を作り出す、としている。
そしてそれは、つねに生命の危機と絡む形でプロットに組み込まれるのだ、と。
さて、映画「インセプション」では、人の夢(潜在意識)に入り込んでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイに、いつもとは逆にアイディアを“植え付ける”=インセプションのミッションが舞い込む。
植えつけたアイディアを自分のものと確信してもらうために、夢の中の潜在意識にさらに夢を見させ、その第二階層の夢の中で信頼する人物に扮した者からアイディアを吹きこませるというミッション。
クリストファー・ノーランは、この複層構造の夢の中で行われる冒険にある興味深い条件をつけている。
ひとつは、階層が深くなっていく度に時間の進度が速くなるというもの。
これはよくわかる。
僕らが実際に見る夢も、数十分に感じるものも実際にはほんの一瞬に経験しているものだそうだから。
しかしそれだけではない。さらにこの時間差のある世界で深い階層側に入ってしまった時は、その複数の階層に自分が必ず居ることになるのだが、すべて同時に目覚めないと現実社会に意識が戻ってこれないという制限までついている。
映画では、ミッションがスムーズにはいかず、結局第四階層まで潜っていくようになる。
第一階層の夢の中でほんの数秒しか残されていないタイムリミットの中でミッションを成し遂げるために。
この時間の進度に差異がある世界構造をうまく使って、サスペンスの定義にある、時間的制約を何倍も複雑で面白い制限に仕立てているのだ。
もうひとつは、どこかの階層で死ねば、その一階層下から意識をサルベージしないと帰ってこられないというものだ。各階層には、心を守ろうと潜在意識が配置したコンバットが待っている。
実際キーマンが撃たれ、それを救うためにもう一階層深く潜らざるを得なくなる。
この一捻りもふた捻りもある空間的制限が、このミッションの達成を限りなく困難なものにしているのだ。
まさにサスペンスを知り抜いた脚本の妙味である。
ここではまず、サスペンスとは何か、について確認しておきたい。
テキストに、北海道大学出版会「日本探偵小説を読む」に収蔵された、僕の大学時代の友人でもある評論家大森滋樹氏の論文「サスペンスの構造と『クラインの壺』『ジェノサイド』の比較考察」を引用する。
諸岡 卓真 押野 武志 高橋 啓太 近藤 周吾 横濱 雄二 小松 太一郎 成田 大典 井上 貴翔 大森 滋樹
北海道大学出版会
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まず「サスペンス」の定義だが、権田萬治・新保博久『日本ミステリー事典』によれば、文学におけるサスペンスは、
主人公の不安、緊張など緊迫した心理を描くもので、論理的な謎解きよりも主人公の恐怖感に主点が置かれるため、心理小説的な色彩が強い。と定義されている。
論文で大森は、サスペンスは
「自由意志の拘束」という状況で示される。としている。
そしてその「拘束」は、「閉じ込める」「追い詰める」といった空間的な要素か、または制限時間を決め、その間に複雑な作業を手早く処理させ、刻々とセコンドを刻んでいく時間を限定するもの、あるいは両方を組み合わせて精神的な自由を失う状態を作り出す、としている。
そしてそれは、つねに生命の危機と絡む形でプロットに組み込まれるのだ、と。
さて、映画「インセプション」では、人の夢(潜在意識)に入り込んでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイに、いつもとは逆にアイディアを“植え付ける”=インセプションのミッションが舞い込む。
植えつけたアイディアを自分のものと確信してもらうために、夢の中の潜在意識にさらに夢を見させ、その第二階層の夢の中で信頼する人物に扮した者からアイディアを吹きこませるというミッション。
クリストファー・ノーランは、この複層構造の夢の中で行われる冒険にある興味深い条件をつけている。
ひとつは、階層が深くなっていく度に時間の進度が速くなるというもの。
これはよくわかる。
僕らが実際に見る夢も、数十分に感じるものも実際にはほんの一瞬に経験しているものだそうだから。
しかしそれだけではない。さらにこの時間差のある世界で深い階層側に入ってしまった時は、その複数の階層に自分が必ず居ることになるのだが、すべて同時に目覚めないと現実社会に意識が戻ってこれないという制限までついている。
映画では、ミッションがスムーズにはいかず、結局第四階層まで潜っていくようになる。
第一階層の夢の中でほんの数秒しか残されていないタイムリミットの中でミッションを成し遂げるために。
この時間の進度に差異がある世界構造をうまく使って、サスペンスの定義にある、時間的制約を何倍も複雑で面白い制限に仕立てているのだ。
もうひとつは、どこかの階層で死ねば、その一階層下から意識をサルベージしないと帰ってこられないというものだ。各階層には、心を守ろうと潜在意識が配置したコンバットが待っている。
実際キーマンが撃たれ、それを救うためにもう一階層深く潜らざるを得なくなる。
この一捻りもふた捻りもある空間的制限が、このミッションの達成を限りなく困難なものにしているのだ。
まさにサスペンスを知り抜いた脚本の妙味である。
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2014年11月13日木曜日
ボナパルティズムの倒錯と赦し:「レ・ミゼラブル」
映画「レ・ミゼラブル」は、ヴィクトル・ユゴーの同名小説を原作としたミュージカルを映画化したものである。
原作はナポレオンの敗走直後から六月暴動までの30年を描く大河小説であって、ミュージカルや映画では当然すべてを再現できず、簡略化されたストーリーとなっている。
それでもヨーロッパ史に詳しい西欧文化圏の視聴者ならば、たとえば、マリユス・ポンメルシーはボナパルティズムの人であって、行動をともにしている共和派の秘密結社の人たちとは信条が異なってはいるが、それでも小異を捨てて、フランスの王政復古を阻止しようと行動しているということはわかるのかも知れない。
ボナパルティズムは、ある種の倒錯だと思う。
狭義には、ナポレオンの一族をフランスの支配者に据えようとする政治活動のことを言う。
しかし、ナポレオンのフランス帝政は独裁体制であり、フランスが多くの犠牲を払って勝ち得た革命の精神を逆行させるもののように見える。
続く対外戦争で、民衆の生活は疲弊し、国土も荒廃した。
それでも、文官が行う金権政治の腐敗よりも、フランスのために戦う為政者がもたらす自らの痛みのほうがましだ、というボナパルティズムが、倒錯でなくてなんだろうか。
しかしこの倒錯の中にこそ人が人を赦すということの本質が潜んでいると思う。
劇内でミリエル司教が、銀器を盗んだジャン・バルジャンを無罪放免した上に銀の燭台までを差し出すシーンこそは<赦し>そのものだ。赦すという行為には自分の痛みを差し出し、他者を救うという側面がある。
では「革命」はどうか。
これは拒絶そのものだ。自らに痛みを与えるものを許さない強い怒りだ。
原作者ヴィクトル・ユゴーは、ボナパルティストであった。
フランスからヨーロッパ全体に広がった王政から民主制への革命の火が、何か誰もが誰も許さない自由という檻を自らに課した世界のように感じていたのではないか。
優れた為政者による絶対王政と、愚かな政治家による民主政治のどちらが優れているかという古くて新しい問いには、それでも権力は必ず腐敗するという黄金律がある限り、民主政治を選ばざるを得ないという答えを我々はもう得ている。
レ・ミゼラブルという物語が時を超えて愛され続けるのは、 それでも仕方なく民主制を選んでいるのだ、という認識に伴う謙虚さを僕らに思い起こさせてくれるからだと思う。
映画としては、スーザン・ボイルで有名になっちゃったあの歌のアン・ハサウェイによるパフォーマンスは本当に素晴らしかったですね。
エポニーヌ役のサマンサ・バークスも本当によかった。テナルディエの家に生まれて不運な人生を送るが恋が彼女を変えたっていう境遇を見事に表情で表現していた。テイラー・スウィフトとかスカヨハがオーディション受けてたっていうけど、こんな複雑な役、あのキャラでは無理だよね。
あとラッセル・クロウは、確かにはまり役だけど歌はちょっとキツイかな。
でもあれ歌はみんなご本人なんでしょう。みんな歌うまいんだなあ。
原作はナポレオンの敗走直後から六月暴動までの30年を描く大河小説であって、ミュージカルや映画では当然すべてを再現できず、簡略化されたストーリーとなっている。
それでもヨーロッパ史に詳しい西欧文化圏の視聴者ならば、たとえば、マリユス・ポンメルシーはボナパルティズムの人であって、行動をともにしている共和派の秘密結社の人たちとは信条が異なってはいるが、それでも小異を捨てて、フランスの王政復古を阻止しようと行動しているということはわかるのかも知れない。
ボナパルティズムは、ある種の倒錯だと思う。
狭義には、ナポレオンの一族をフランスの支配者に据えようとする政治活動のことを言う。
しかし、ナポレオンのフランス帝政は独裁体制であり、フランスが多くの犠牲を払って勝ち得た革命の精神を逆行させるもののように見える。
続く対外戦争で、民衆の生活は疲弊し、国土も荒廃した。
それでも、文官が行う金権政治の腐敗よりも、フランスのために戦う為政者がもたらす自らの痛みのほうがましだ、というボナパルティズムが、倒錯でなくてなんだろうか。
しかしこの倒錯の中にこそ人が人を赦すということの本質が潜んでいると思う。
劇内でミリエル司教が、銀器を盗んだジャン・バルジャンを無罪放免した上に銀の燭台までを差し出すシーンこそは<赦し>そのものだ。赦すという行為には自分の痛みを差し出し、他者を救うという側面がある。
では「革命」はどうか。
これは拒絶そのものだ。自らに痛みを与えるものを許さない強い怒りだ。
原作者ヴィクトル・ユゴーは、ボナパルティストであった。
フランスからヨーロッパ全体に広がった王政から民主制への革命の火が、何か誰もが誰も許さない自由という檻を自らに課した世界のように感じていたのではないか。
優れた為政者による絶対王政と、愚かな政治家による民主政治のどちらが優れているかという古くて新しい問いには、それでも権力は必ず腐敗するという黄金律がある限り、民主政治を選ばざるを得ないという答えを我々はもう得ている。
レ・ミゼラブルという物語が時を超えて愛され続けるのは、 それでも仕方なく民主制を選んでいるのだ、という認識に伴う謙虚さを僕らに思い起こさせてくれるからだと思う。
映画としては、スーザン・ボイルで有名になっちゃったあの歌のアン・ハサウェイによるパフォーマンスは本当に素晴らしかったですね。
エポニーヌ役のサマンサ・バークスも本当によかった。テナルディエの家に生まれて不運な人生を送るが恋が彼女を変えたっていう境遇を見事に表情で表現していた。テイラー・スウィフトとかスカヨハがオーディション受けてたっていうけど、こんな複雑な役、あのキャラでは無理だよね。
あとラッセル・クロウは、確かにはまり役だけど歌はちょっとキツイかな。
でもあれ歌はみんなご本人なんでしょう。みんな歌うまいんだなあ。
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン (2014-03-05)
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2014年11月10日月曜日
ナイロビの蜂
「ナイロビの蜂」は、ジョン・ル・カレの同名小説の映画化作品。
もちろんフィクションだが、世界がアフリカを搾取しているのは疑いようのない現実だ。
僕はコーヒー豆を焙煎し、コーヒーを淹れることを生業とする者である。
コーヒー豆はエチオピアのアビシニア高原を原産地とし、赤道から南北にそれぞれ緯度で10度の幅で広がる“コーヒーベルト”で広く栽培され、国家的な産業となっている。
しかし彼らの生活は貧しい。
BBCが製作したドキュメンタリーを映画化した「おいしいコーヒーの現実」という映画を観ただろうか。
ウルグアイ・ラウンドで、貿易交渉を細かく細分化して、交渉団に人数を割けないアフリカ勢に対して西欧諸国は一国200名近い役人を投入して、いわば状況的欠席裁判を作り出した様子が描かれている。
不満を述べるアフリカ勢に「君たちにはよくわかっていないのだ」と言って聞く耳を持たない先進国の代表たちの姿には、本当に恥ずかしい気持ちになった。
地図がもしあればアフリカの地図を見て欲しい。
いたるところ直線的な国境で区切られている。
西欧列強の都合で、地図の上に引かれた「線」だ。
地形的な境界で形作られる文化的な民族区分を無視した資源のための線引。
その資源の中には「人」そのものも入っている。
労働力のことを言っているのではない。
奴隷として人身そのものを貿易していたのである。
奴隷貿易のような非人道的な行いがそう長く続くはずがない。
長い時間がかかったが奴隷貿易は廃止され、植民地経営も傾いた。
アフリカの各国は相次いで独立するが、不自然な国境は内戦を呼んだ。
映画でもこうした搾取されるアフリカの悲劇をテーマにしたものは多い。
「ホテルルワンダ」ではベルギー植民地時代に管理上分離されたフツとツチが、独立後の経済悪化で対立し、ジェノサイドを引き起こした事件を描いてる。
そしてシエラレオネの内戦で紛争ダイヤモンドの存在が戦火を拡大している状況を描いた「ブラッド・ダイヤモンド」。
音楽家たちも搾取され貧困にあえぐアフリカを救おうと動いた。
1984年のバンドエイド(英)、1985年のUSA for Africa(米)はそれぞれチャリティソングヒットさせ、85年夏、英米同時開催の大規模なチャリティ・コンサート「ライブ・エイド」に結実する。
この2つのプロジェクトから、ライブ・エイド・トラストという基金が立ち上げられ、継続的なアフリカ支援を行ってきた。
このプロジェクトを精神的に率いてきたといえるボブ・ゲルドフは、USA for AfricaのWe Are The Worldのレコーディングにも立ち会っているが、あまりにもお祭り騒ぎ的なムードに激怒し、集まったアメリカのトップスターたちにアフリカの惨状を延々と語り、全員の眼の色を変えたという。
レコーディングの様子を収めた映像を見れば、それぞれのアーティストたちがその日特別なオーラを放っていたのがわかる。
ボブ・ゲルドフはバンドエイド・トラストが稼働していてもなかなか改善されないアフリカの現状を憂い、2005年にも大きなイベント「ライブ8」を実施する。
素晴らしいイベント。
挨拶に立ったボブ・ゲルドフが、「これは音楽が世界に勝利した瞬間だ」と述べるシーンには何度も泣かされた。
2001年にル・カレによって書かれた「ナイロビの蜂」が、映画化されたのが、このイベントと同じ2005年だった。
それから、また10年が経とうとしている。
アフリカは未だ民主化の大きなうねりの中を正しい道を探しあぐねて彷徨っているように見える。
経済の成功で存在感を大きくしている中国が、マラウイやシエラレオネに大きな影響力を行使しはじめていることは、かの国々にどのような影響を及ぼすのだろうか。
前出の「おいしいコーヒーの真実」には、ODAなどの支援になによりまず<学校>を作って欲しいと住民たちが訴えているにもかかわらず、ODAのカネを自国の企業の利益に還元したい先進国が井戸か橋しか作らないという現実も記録されている。
政治の問題は民主化された世界では国民自身の問題である。
こうしている間にも、アフリカから搾取し還元されてきた豊かさを我々自身が享受しているのだ。
「ナイロビの蜂」の冒頭、レイチェル・ワイズ扮するテッサが、「なんのために国連を作ったのか」とイギリスの外交官に詰め寄るが、これは自身が活動家で、奮闘するほどに募る徒労感ゆえだった。
無関心な大多数がいるかぎり、すべての負担が活動家に集中し、結果アフリカは、グローバル経済がいっそうドライブする国益至上主義の犠牲になり続けるだろう。
主権者のひとりとして、世界に関心を持ち、正しく影響力を行使できるよう努めていきたいと思う。
もちろんフィクションだが、世界がアフリカを搾取しているのは疑いようのない現実だ。
僕はコーヒー豆を焙煎し、コーヒーを淹れることを生業とする者である。
コーヒー豆はエチオピアのアビシニア高原を原産地とし、赤道から南北にそれぞれ緯度で10度の幅で広がる“コーヒーベルト”で広く栽培され、国家的な産業となっている。
しかし彼らの生活は貧しい。
BBCが製作したドキュメンタリーを映画化した「おいしいコーヒーの現実」という映画を観ただろうか。
ウルグアイ・ラウンドで、貿易交渉を細かく細分化して、交渉団に人数を割けないアフリカ勢に対して西欧諸国は一国200名近い役人を投入して、いわば状況的欠席裁判を作り出した様子が描かれている。
不満を述べるアフリカ勢に「君たちにはよくわかっていないのだ」と言って聞く耳を持たない先進国の代表たちの姿には、本当に恥ずかしい気持ちになった。
アップリンク (2008-12-05)
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地図がもしあればアフリカの地図を見て欲しい。
いたるところ直線的な国境で区切られている。
西欧列強の都合で、地図の上に引かれた「線」だ。
地形的な境界で形作られる文化的な民族区分を無視した資源のための線引。
その資源の中には「人」そのものも入っている。
労働力のことを言っているのではない。
奴隷として人身そのものを貿易していたのである。
奴隷貿易のような非人道的な行いがそう長く続くはずがない。
長い時間がかかったが奴隷貿易は廃止され、植民地経営も傾いた。
アフリカの各国は相次いで独立するが、不自然な国境は内戦を呼んだ。
映画でもこうした搾取されるアフリカの悲劇をテーマにしたものは多い。
「ホテルルワンダ」ではベルギー植民地時代に管理上分離されたフツとツチが、独立後の経済悪化で対立し、ジェノサイドを引き起こした事件を描いてる。
ジェネオン エンタテインメント (2006-08-25)
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そしてシエラレオネの内戦で紛争ダイヤモンドの存在が戦火を拡大している状況を描いた「ブラッド・ダイヤモンド」。
ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-04-21)
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音楽家たちも搾取され貧困にあえぐアフリカを救おうと動いた。
1984年のバンドエイド(英)、1985年のUSA for Africa(米)はそれぞれチャリティソングヒットさせ、85年夏、英米同時開催の大規模なチャリティ・コンサート「ライブ・エイド」に結実する。
この2つのプロジェクトから、ライブ・エイド・トラストという基金が立ち上げられ、継続的なアフリカ支援を行ってきた。
このプロジェクトを精神的に率いてきたといえるボブ・ゲルドフは、USA for AfricaのWe Are The Worldのレコーディングにも立ち会っているが、あまりにもお祭り騒ぎ的なムードに激怒し、集まったアメリカのトップスターたちにアフリカの惨状を延々と語り、全員の眼の色を変えたという。
レコーディングの様子を収めた映像を見れば、それぞれのアーティストたちがその日特別なオーラを放っていたのがわかる。
ボブ・ゲルドフはバンドエイド・トラストが稼働していてもなかなか改善されないアフリカの現状を憂い、2005年にも大きなイベント「ライブ8」を実施する。
素晴らしいイベント。
挨拶に立ったボブ・ゲルドフが、「これは音楽が世界に勝利した瞬間だ」と述べるシーンには何度も泣かされた。
EMIミュージック・ジャパン (2005-11-09)
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2001年にル・カレによって書かれた「ナイロビの蜂」が、映画化されたのが、このイベントと同じ2005年だった。
それから、また10年が経とうとしている。
アフリカは未だ民主化の大きなうねりの中を正しい道を探しあぐねて彷徨っているように見える。
経済の成功で存在感を大きくしている中国が、マラウイやシエラレオネに大きな影響力を行使しはじめていることは、かの国々にどのような影響を及ぼすのだろうか。
前出の「おいしいコーヒーの真実」には、ODAなどの支援になによりまず<学校>を作って欲しいと住民たちが訴えているにもかかわらず、ODAのカネを自国の企業の利益に還元したい先進国が井戸か橋しか作らないという現実も記録されている。
政治の問題は民主化された世界では国民自身の問題である。
こうしている間にも、アフリカから搾取し還元されてきた豊かさを我々自身が享受しているのだ。
「ナイロビの蜂」の冒頭、レイチェル・ワイズ扮するテッサが、「なんのために国連を作ったのか」とイギリスの外交官に詰め寄るが、これは自身が活動家で、奮闘するほどに募る徒労感ゆえだった。
無関心な大多数がいるかぎり、すべての負担が活動家に集中し、結果アフリカは、グローバル経済がいっそうドライブする国益至上主義の犠牲になり続けるだろう。
主権者のひとりとして、世界に関心を持ち、正しく影響力を行使できるよう努めていきたいと思う。
TCエンタテインメント (2012-09-05)
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2014年11月9日日曜日
みせられているものと、見えていないもの〜「プレステージ」:クリストファー・ノーラン
ダークナイト・トリロジーがあまりにも素晴らしかったので、レンタル店のクリストファー・ノーラン監督のコーナーにあった2006年作「プレステージ」を借りてきた。
観ているうちに、強い既視感を覚えたが、 クリストファー・プリーストのファンタジー小説「奇術師」だと気がついた。原作付きだったか。
でもこれはまるで別の作品と思ったほうがいいだろう。
原作の方は、アンジャーとボーデンの曾孫たちが主人公。お二人は手記と伝記で登場する。非常に技巧的な小説で、映画とは大きく異るラストシーンに心がひやりと冷える上質なホラー風味が施された傑作だ。
映画の方は、ダークナイト・トリロジーのブルース・ウェインと執事のアルフレッドまでが揃って出演しているので、バットマンにしか見えないところに、ヒュー・ジャックマンまで出てきて、もはやバットマン vs X-MENの様相。
スカーレット・ヨハンソンも似合いの役どころで魅力を発揮している。
それにしても俳優としてのデヴィッド・ボウイの存在感はどうだ。
そこに居るだけで放つその存在感は、謎めいた科学者ニコラ・テスラに実にふさわしい。
よく出来た手品は、誰もがその不思議さに諦めに似た納得感まで持たされるという意味で科学と変わらない。
本当の意味での最先端科学は、誰にも理解はできないが、確かに現象は認めざるをえないという意味で手品と変わらない。
だから手品と科学に魅せられた者の運命はよく似ている。
理論の科学者であった実際のニコラ・テスラと、理論よりは実証で実用品を作り続けたエジソンが終生対立したのはやむを得ないことだったのだろう。
エンタテインメントとしての手品の領域を離れてテスラに近づいていったボーデンに、エンタテインメントとしての手品の領域から逸脱していく危うさを警告したカッターは正しかった。しかし時代を作っていくほどの飛躍を作り出せるのも逸脱を恐れなかった者だけだ。
エジソンが推進したシンプルな機構の直流電源ではなく、テスラが推進した送電性能に優れる交流電源が世界の主流になっていることはそのことの証のひとつである。
我々の生活に欠かせない多くのものを発明して圧倒的に知名度の高いエジソンだが、その裏でエジソンが、交流電源の普及を失敗させようと、米国で評判の悪い絞首刑に代わって発案された電気椅子の開発会社に自分の部下を送って交流電源を採用させた事実はあまり知られていない。交流電源は危険であるという幻想をエジソンは大衆にしかけたのである。
まるでマジシャンのように。
日常という平穏の裏側にいつも、見えていない部分がある。
手品のような悪意のないものの種を知りたがっている場合ではないのかもしれない。
観ているうちに、強い既視感を覚えたが、 クリストファー・プリーストのファンタジー小説「奇術師」だと気がついた。原作付きだったか。
でもこれはまるで別の作品と思ったほうがいいだろう。
クリストファー・プリースト
早川書房
売り上げランキング: 238,835
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原作の方は、アンジャーとボーデンの曾孫たちが主人公。お二人は手記と伝記で登場する。非常に技巧的な小説で、映画とは大きく異るラストシーンに心がひやりと冷える上質なホラー風味が施された傑作だ。
映画の方は、ダークナイト・トリロジーのブルース・ウェインと執事のアルフレッドまでが揃って出演しているので、バットマンにしか見えないところに、ヒュー・ジャックマンまで出てきて、もはやバットマン vs X-MENの様相。
スカーレット・ヨハンソンも似合いの役どころで魅力を発揮している。
それにしても俳優としてのデヴィッド・ボウイの存在感はどうだ。
そこに居るだけで放つその存在感は、謎めいた科学者ニコラ・テスラに実にふさわしい。
よく出来た手品は、誰もがその不思議さに諦めに似た納得感まで持たされるという意味で科学と変わらない。
本当の意味での最先端科学は、誰にも理解はできないが、確かに現象は認めざるをえないという意味で手品と変わらない。
だから手品と科学に魅せられた者の運命はよく似ている。
理論の科学者であった実際のニコラ・テスラと、理論よりは実証で実用品を作り続けたエジソンが終生対立したのはやむを得ないことだったのだろう。
エンタテインメントとしての手品の領域を離れてテスラに近づいていったボーデンに、エンタテインメントとしての手品の領域から逸脱していく危うさを警告したカッターは正しかった。しかし時代を作っていくほどの飛躍を作り出せるのも逸脱を恐れなかった者だけだ。
エジソンが推進したシンプルな機構の直流電源ではなく、テスラが推進した送電性能に優れる交流電源が世界の主流になっていることはそのことの証のひとつである。
我々の生活に欠かせない多くのものを発明して圧倒的に知名度の高いエジソンだが、その裏でエジソンが、交流電源の普及を失敗させようと、米国で評判の悪い絞首刑に代わって発案された電気椅子の開発会社に自分の部下を送って交流電源を採用させた事実はあまり知られていない。交流電源は危険であるという幻想をエジソンは大衆にしかけたのである。
まるでマジシャンのように。
日常という平穏の裏側にいつも、見えていない部分がある。
手品のような悪意のないものの種を知りたがっている場合ではないのかもしれない。
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2014年11月8日土曜日
スタートレック&スタートレック・イントゥ・ダークネス
子供の頃、特に厳しい家だった記憶はないが、テレビに関しては一日に一プログラムのみと決められていた。僕は迷わず平日の夕方放送されていた「宇宙大作戦」を選んだ。
カーク船長が、エンタープライズ号に「コンピュータ」と話しかけて情報を得たりしているのを観て、これが「未来」だ!と思い、自分でもティッシュの空き箱の側面に「コンピュータ」と書いて、話しかけたりしていた。
もちろん「麻痺」モード付きのフェイザー銃も自作していた。
このTVシリーズと「カーンの逆襲」までの映画、そしてハヤカワから出ていた劇場版のノヴェライゼーションが僕の「宇宙大作戦」体験のすべてだった。
だからJ.J.エイブラムスのスター・トレック・リブートは、カーク船長のエピソードであるというだけで嬉しい。
実際に観てもっとうれしくなったのは、オリジナル(The Original Series)の俳優さんたちの細かい癖を新しい俳優さんたちが実に上手に再現してくれていることだ。
カーク船長のあのちょっと斜めに椅子に腰掛けるところなんか、ほんとうにそっくりでニヤニヤしてしまう。
しかしやはり時代は変わっている。
あの頃、規則第一主義のスポックと自由奔放なカークのやり取りはコメディ以上のものではなかったわけだが、新シリーズでは、この二項対立が<キャプテンの資質>をメタファーとして一貫して問われ続ける。
艦隊の誓いを破ってもスポックを救出するカークの姿。
カークを更迭しながらも自分の副官に据えるパイク。
クリンゴンとの開戦を目論み、密かに軍備を整える提督。
あらゆるものと引き換えに仲間の命を救おうとするカーン。
キャプテンの判断は、それが正しいかどうか、その時がこないとわからないものばかりだ。
そして、この世知辛い現実の世の中を生きる僕らにも、同じようなケースがしばしば現実の問題として付きつけられている。
グローバリゼーションによる競争の激化とコンプライアンス(企業の法令遵守)の狭間で、しわ寄せはいつも<人間>の部分に集まる。
抽象化された概念には弾性がないから。
かくして感情とルールは乖離し、利益と幸福は相反した存在となる。
いつしかトップは、責任を取るだけの存在となり、リーダーシップという言葉は舵取りから管理の意味合いに変わった。
つまらない世界だ。
残念ながら、宇宙=残された最後のフロンティアへ旅に出た彼らもこのような運命から逃れることはできなかったようだ。
つまり本当の意味での最後のフロンティアは自分自身の心にある、そういうことなんだろう。
カーク船長が、エンタープライズ号に「コンピュータ」と話しかけて情報を得たりしているのを観て、これが「未来」だ!と思い、自分でもティッシュの空き箱の側面に「コンピュータ」と書いて、話しかけたりしていた。
もちろん「麻痺」モード付きのフェイザー銃も自作していた。
このTVシリーズと「カーンの逆襲」までの映画、そしてハヤカワから出ていた劇場版のノヴェライゼーションが僕の「宇宙大作戦」体験のすべてだった。
だからJ.J.エイブラムスのスター・トレック・リブートは、カーク船長のエピソードであるというだけで嬉しい。
実際に観てもっとうれしくなったのは、オリジナル(The Original Series)の俳優さんたちの細かい癖を新しい俳優さんたちが実に上手に再現してくれていることだ。
カーク船長のあのちょっと斜めに椅子に腰掛けるところなんか、ほんとうにそっくりでニヤニヤしてしまう。
しかしやはり時代は変わっている。
あの頃、規則第一主義のスポックと自由奔放なカークのやり取りはコメディ以上のものではなかったわけだが、新シリーズでは、この二項対立が<キャプテンの資質>をメタファーとして一貫して問われ続ける。
艦隊の誓いを破ってもスポックを救出するカークの姿。
カークを更迭しながらも自分の副官に据えるパイク。
クリンゴンとの開戦を目論み、密かに軍備を整える提督。
あらゆるものと引き換えに仲間の命を救おうとするカーン。
キャプテンの判断は、それが正しいかどうか、その時がこないとわからないものばかりだ。
そして、この世知辛い現実の世の中を生きる僕らにも、同じようなケースがしばしば現実の問題として付きつけられている。
グローバリゼーションによる競争の激化とコンプライアンス(企業の法令遵守)の狭間で、しわ寄せはいつも<人間>の部分に集まる。
抽象化された概念には弾性がないから。
かくして感情とルールは乖離し、利益と幸福は相反した存在となる。
いつしかトップは、責任を取るだけの存在となり、リーダーシップという言葉は舵取りから管理の意味合いに変わった。
つまらない世界だ。
残念ながら、宇宙=残された最後のフロンティアへ旅に出た彼らもこのような運命から逃れることはできなかったようだ。
つまり本当の意味での最後のフロンティアは自分自身の心にある、そういうことなんだろう。
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン (2013-07-19)
売り上げランキング: 5,800
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パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン (2014-06-25)
売り上げランキング: 1,155
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2014年11月7日金曜日
SFマガジン700[国内編]
SFマガジン通巻700号を記念して編まれたアンソロジー。
多くのSFアンソロジーを編んだ大森望氏の手腕が光る。
まず、手塚治虫、松本零士、吾妻ひでおの漫画三編の収録が絶妙。
日本SFをマンガ抜きで語るのはムリですからね。
手塚治虫の「緑の果て」(1963)は、スタニスワム・レフの「ソラリスの陽のもとに」(1961)のプロットと酷似しているが、「ソラリス」の邦訳は1964年ということなので、手塚先生が原書(ポーランド語)か、英訳で読んでいたか、それとも偶然の一致なのか、そんなところも非常に興味深い問題作。
松本零士の「セクソロイド」は有名な作品だが収録作品は番外編として書かれたタイムトラベルもの。立派なハードSFだ。
吾妻先生の短編も安定のクオリティ。
貴重なのは、今や出版物が非常に入手しにくくなった平井和正の短編「虎は暗闇より」が収録されていることだ。
中学・高校と僕の頭のなかは半分くらい平井和正で占められていた。
ウルフガイ、アダルト・ウルフガイ、超革命的中学生集団、幻魔大戦、真幻魔大戦。
大好きだったなあ。
懐かしいなあ。
こうして歴史的に日本SFを読んでいくと、時代を下って段々技巧的になっていく様子がわかる。
昔のSFは書き方が実直だ。
だからこそ、<作り物>の未来が読み手の胸に迫るのではないか。
円城塔を代表とする新しい書き手の技巧は見事だと認めるが、技巧的に書かれた虚構のどこに僕は心をあずければいいのか。
日本SFの正統な後継者の筆頭は、だから野尻抱介だろうと思う。
本アンソロジーでも「素数の呼び声」というアクロバティックなのに平易な短編が収録されている。
松崎有理さんのように実直に科学に向き合う若い作家も出てきた。
この先は、アニメーションとの連携でマーケットを拡大していけるといいと思う。
漫画という表現を得て、日本SFは発展してきたのだから。
早川書房
売り上げランキング: 174,047
多くのSFアンソロジーを編んだ大森望氏の手腕が光る。
まず、手塚治虫、松本零士、吾妻ひでおの漫画三編の収録が絶妙。
日本SFをマンガ抜きで語るのはムリですからね。
手塚治虫の「緑の果て」(1963)は、スタニスワム・レフの「ソラリスの陽のもとに」(1961)のプロットと酷似しているが、「ソラリス」の邦訳は1964年ということなので、手塚先生が原書(ポーランド語)か、英訳で読んでいたか、それとも偶然の一致なのか、そんなところも非常に興味深い問題作。
松本零士の「セクソロイド」は有名な作品だが収録作品は番外編として書かれたタイムトラベルもの。立派なハードSFだ。
吾妻先生の短編も安定のクオリティ。
貴重なのは、今や出版物が非常に入手しにくくなった平井和正の短編「虎は暗闇より」が収録されていることだ。
中学・高校と僕の頭のなかは半分くらい平井和正で占められていた。
ウルフガイ、アダルト・ウルフガイ、超革命的中学生集団、幻魔大戦、真幻魔大戦。
大好きだったなあ。
懐かしいなあ。
こうして歴史的に日本SFを読んでいくと、時代を下って段々技巧的になっていく様子がわかる。
昔のSFは書き方が実直だ。
だからこそ、<作り物>の未来が読み手の胸に迫るのではないか。
円城塔を代表とする新しい書き手の技巧は見事だと認めるが、技巧的に書かれた虚構のどこに僕は心をあずければいいのか。
日本SFの正統な後継者の筆頭は、だから野尻抱介だろうと思う。
本アンソロジーでも「素数の呼び声」というアクロバティックなのに平易な短編が収録されている。
松崎有理さんのように実直に科学に向き合う若い作家も出てきた。
この先は、アニメーションとの連携でマーケットを拡大していけるといいと思う。
漫画という表現を得て、日本SFは発展してきたのだから。
早川書房
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マン・オブ・スティール
スーパーマンのリブートである。
バットマンのリブートで最高の手腕を見せたクリストファー・ノーランの製作で、監督は「オタク監督」で知られるザック・スナイダー。
ゆうきまさみの「鉄腕バーディー」に強い影響を受けたというアクション・シーンが、この監督らしさということか。
それにしてもこの超人同士の戦闘、人間社会に与える被害が甚大すぎないか。
青年期のクラーク・ケントは石油採掘場で倒れてくる鉄塔を支えてヘリコプター一台を救うが、ゾットとの戦闘ではおそらく万単位の死者を出しているだろう。
しかもこの超人二人、打たれ強すぎて、戦闘そのものが無意味に見えてくる。
頭も使えよ!と思わずにいられなかった。
それでも全体としてはいい映画だと思う。
物語は、ゾット将軍のクーデターから始まる。
政治家の無策から惑星の資源を使い果たし、種族そのものの絶滅をなすすべも無く待つクリプトン星の主導権を軍事力で奪おうとするこのクーデターは、何度も何度も人類が繰り返してきた過ちの、あまりにも直接的なメタファーだ。
最後の希望として逃されるカル=エルは、若い太陽を持つ、かつてのクリプトンの植民地「地球」に送られた。カル=クラーク・ケント=スーパーマンは、その若い太陽の力をエネルギー源として超人の力を発揮する。
日本の戦争も含め近代の戦争の多くは、エネルギーの周辺で起きてきた。
埋蔵された有限の地下資源をあてにして暮らしていくのはやめて、新しい考え方に基づいた社会を構築すべき時期が来ているのではないか。
クリストファー・ノーランにとってのスーパーマンは、そのような考え方の象徴としてこの映画の<良心>を支えているのである。
だからこそ、クラーク・ケントは、青年期にかけて自分探しの旅をしている。
強すぎる力は、人を助けることもできるが、恐怖の源泉にもなる。
そもそも考えてみれば、美しい花も愛玩動物も自分を襲ってこないから愛情を注げるのである。
人は、 自分が“殺せる”ものしか愛することは出来ないのだ。
クラークを保留なしで愛してくれるのは生みの親と育ての親だけだった。
そしてクラーク・ケントは、自分探しの旅の最後に自分を理解し、愛してくれるレインを見つけた。
この手続を経てはじめて、スーパーマンは人類の未来を象徴する<良心>として機能できるというわけだ。
数多く製作されているリブーテッド・ヒーローたちは、みな苦悩するヒーローとして描かれている。
善か悪かのストレートな二分法で語れない現代の反映として。
力のレベルが異次元にあるスーパーマンの苦悩は、だから最大級に大きい。
愛は彼を救うのか。
愛は地球を救うのか。
その答えはまだ描かれていない。
バットマンのリブートで最高の手腕を見せたクリストファー・ノーランの製作で、監督は「オタク監督」で知られるザック・スナイダー。
ゆうきまさみの「鉄腕バーディー」に強い影響を受けたというアクション・シーンが、この監督らしさということか。
バンダイビジュアル (2010-12-22)
売り上げランキング: 39,008
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それにしてもこの超人同士の戦闘、人間社会に与える被害が甚大すぎないか。
青年期のクラーク・ケントは石油採掘場で倒れてくる鉄塔を支えてヘリコプター一台を救うが、ゾットとの戦闘ではおそらく万単位の死者を出しているだろう。
しかもこの超人二人、打たれ強すぎて、戦闘そのものが無意味に見えてくる。
頭も使えよ!と思わずにいられなかった。
それでも全体としてはいい映画だと思う。
物語は、ゾット将軍のクーデターから始まる。
政治家の無策から惑星の資源を使い果たし、種族そのものの絶滅をなすすべも無く待つクリプトン星の主導権を軍事力で奪おうとするこのクーデターは、何度も何度も人類が繰り返してきた過ちの、あまりにも直接的なメタファーだ。
最後の希望として逃されるカル=エルは、若い太陽を持つ、かつてのクリプトンの植民地「地球」に送られた。カル=クラーク・ケント=スーパーマンは、その若い太陽の力をエネルギー源として超人の力を発揮する。
日本の戦争も含め近代の戦争の多くは、エネルギーの周辺で起きてきた。
埋蔵された有限の地下資源をあてにして暮らしていくのはやめて、新しい考え方に基づいた社会を構築すべき時期が来ているのではないか。
クリストファー・ノーランにとってのスーパーマンは、そのような考え方の象徴としてこの映画の<良心>を支えているのである。
だからこそ、クラーク・ケントは、青年期にかけて自分探しの旅をしている。
強すぎる力は、人を助けることもできるが、恐怖の源泉にもなる。
そもそも考えてみれば、美しい花も愛玩動物も自分を襲ってこないから愛情を注げるのである。
人は、 自分が“殺せる”ものしか愛することは出来ないのだ。
クラークを保留なしで愛してくれるのは生みの親と育ての親だけだった。
そしてクラーク・ケントは、自分探しの旅の最後に自分を理解し、愛してくれるレインを見つけた。
この手続を経てはじめて、スーパーマンは人類の未来を象徴する<良心>として機能できるというわけだ。
数多く製作されているリブーテッド・ヒーローたちは、みな苦悩するヒーローとして描かれている。
善か悪かのストレートな二分法で語れない現代の反映として。
力のレベルが異次元にあるスーパーマンの苦悩は、だから最大級に大きい。
愛は彼を救うのか。
愛は地球を救うのか。
その答えはまだ描かれていない。
ワーナー・ホーム・ビデオ (2013-12-18)
売り上げランキング: 4,034
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2014年11月6日木曜日
大いなる眠り:レイモンド・チャンドラー、翻訳:村上春樹
1939年発表のレイモンド・チャンドラー、長編第一作「大いなる眠り」である。
現在、早川書房で村上春樹による全作品の新訳が進行中で、この「大いなる眠り」は、その第四弾ということになる。
マルセル・プルーストの筆致が、あらゆる抽象を文字に定着するのに対して、チャンドラーのそれは、あらゆる具象を活写する。
あるときは、それは完全に新しい比喩によって語られ、あるときは印象的な「つよがり」によって語られる。
隙のない文体だ。
あまりにも見事にものごと(のみ)が語られるので、それを読んでいる僕らは、マーロウが何に気付いているのかに気付けない。
語られていることだけを読んでいても、事件の真相に気付くことはできない。
これは、ミステリの作法としてはいささか型破りな方法論だ。
確かに読んでいて、あれ、これどうしてわかったんだろうと思うところもある。
しかしそのような<詮索>が無粋に思えるほど、この語り口は冷ややかで美しい。
心配しなくても、最後にすべてマーロウが教えてくれる。
それでいいのだ。
マーロウは犯罪捜査をしているのではなく、人の「助けて欲しい」という声に応えているのだから。
だからマーロウの物語は、法や警察組織といったものが、人の世にあるいくつもの理不尽に対していかに無力であるか、また生か死かの判断を迫られるような局面では、結局のところ頼れるのは<人間>という存在だけなのだという、日常の中で僕らが知らん振りをしている事実をそっと目の前に差し出してくる。
そして僕らの電話帳に<フィリップ・マーロウ>の名前は載っていない。
今はその事実が、どうしようもなく胸に重い。
現在、早川書房で村上春樹による全作品の新訳が進行中で、この「大いなる眠り」は、その第四弾ということになる。
レイモンド チャンドラー
早川書房
売り上げランキング: 30,281
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マルセル・プルーストの筆致が、あらゆる抽象を文字に定着するのに対して、チャンドラーのそれは、あらゆる具象を活写する。
あるときは、それは完全に新しい比喩によって語られ、あるときは印象的な「つよがり」によって語られる。
隙のない文体だ。
あまりにも見事にものごと(のみ)が語られるので、それを読んでいる僕らは、マーロウが何に気付いているのかに気付けない。
語られていることだけを読んでいても、事件の真相に気付くことはできない。
これは、ミステリの作法としてはいささか型破りな方法論だ。
確かに読んでいて、あれ、これどうしてわかったんだろうと思うところもある。
しかしそのような<詮索>が無粋に思えるほど、この語り口は冷ややかで美しい。
心配しなくても、最後にすべてマーロウが教えてくれる。
それでいいのだ。
マーロウは犯罪捜査をしているのではなく、人の「助けて欲しい」という声に応えているのだから。
だからマーロウの物語は、法や警察組織といったものが、人の世にあるいくつもの理不尽に対していかに無力であるか、また生か死かの判断を迫られるような局面では、結局のところ頼れるのは<人間>という存在だけなのだという、日常の中で僕らが知らん振りをしている事実をそっと目の前に差し出してくる。
そして僕らの電話帳に<フィリップ・マーロウ>の名前は載っていない。
今はその事実が、どうしようもなく胸に重い。
2014年11月5日水曜日
ドラゴン・タトゥーの女
デヴィッド・フィンチャーが撮ったミレニアム1の映画化作品。
暗く重々しい彼の画調は、この寒く美しい北欧の地に息づく狂気に似つかわしい。
それにしても、あの複雑なプロットをよくぞここまで明快に再構築したものだと感心する。
カッレくんのことや、ハリエットの経営的成功などのサイドエピソードを削いで、シンプルに事件への興味で物語を牽引していった成果だろう。
だから、この映画では「ミレニアム」の小説世界を貫いているテーマがはっきりと浮き彫りになってくる。
それが「弱者への暴力」である。
第一部である「ドラゴン・タトゥーの女」では、それが女性へのレイプというカタチで現れる。
原作者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ったという経験を持つ。
そしてその翌日、勇気を出して被害者の女性に許しを請うが、拒絶されてしまう。
その日以来ラーソンの心から、自らの臆病さに対する罪悪感と、女性への暴力に対する怒りが消えることはなかった。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」だったのだ。
ミレニアムシリーズのアンチヒロイン、リスベット・サランデルは、15歳のラーソンが抱いた悔恨の象徴なのである。
そしてラーソンは、物語の中でこの悔恨を「私的制裁」によって晴らそうとする。
法の運用の<穴>に落ちて、後見弁護人からレイプを受けるリスベットの報復。
ミカエルを罠に落としたヴェンネルストレムの隠し財産をハッキングして奪い取る、など。
逃げるマルティンを追うリスベットが、ミカエルに「殺していい?」と聞くときの嬉しそうな表情は忘れられない。この台詞は原作にはないものだが、本当の苦しさは<法>には委ねられないというラーソンの考えを補強しているのだろう。
暗く重々しい彼の画調は、この寒く美しい北欧の地に息づく狂気に似つかわしい。
それにしても、あの複雑なプロットをよくぞここまで明快に再構築したものだと感心する。
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント (2012-11-21)
売り上げランキング: 4,701
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カッレくんのことや、ハリエットの経営的成功などのサイドエピソードを削いで、シンプルに事件への興味で物語を牽引していった成果だろう。
だから、この映画では「ミレニアム」の小説世界を貫いているテーマがはっきりと浮き彫りになってくる。
それが「弱者への暴力」である。
第一部である「ドラゴン・タトゥーの女」では、それが女性へのレイプというカタチで現れる。
原作者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ったという経験を持つ。
そしてその翌日、勇気を出して被害者の女性に許しを請うが、拒絶されてしまう。
その日以来ラーソンの心から、自らの臆病さに対する罪悪感と、女性への暴力に対する怒りが消えることはなかった。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」だったのだ。
ミレニアムシリーズのアンチヒロイン、リスベット・サランデルは、15歳のラーソンが抱いた悔恨の象徴なのである。
そしてラーソンは、物語の中でこの悔恨を「私的制裁」によって晴らそうとする。
法の運用の<穴>に落ちて、後見弁護人からレイプを受けるリスベットの報復。
ミカエルを罠に落としたヴェンネルストレムの隠し財産をハッキングして奪い取る、など。
逃げるマルティンを追うリスベットが、ミカエルに「殺していい?」と聞くときの嬉しそうな表情は忘れられない。この台詞は原作にはないものだが、本当の苦しさは<法>には委ねられないというラーソンの考えを補強しているのだろう。
2014年11月4日火曜日
アナーキズムに対置されるもの~ダークナイト・トリロジー
クリストファー・ノーラン監督がリブートしたバットマン・シリーズ。
アン・ハサウェイが出ているというので観ただけだったのが、これは面白かった。
アン・ハサウェイももちろん素晴らしかったが。
一見して単なるアクション巨編でないことがわかる。
バットマンの<仮面>に与えられた意味がそれを象徴している。
通常、人が<仮面>をつけるときは、その正体を隠したい時だ。
だから本来、仮面そのものは無個性でなければならない。
ところが、バットマンの<仮面>は、法を超えて悪を制裁するという強い意味性を持っている。
職業に紐付いた制服と同じ。
つまり<仮面>を引き継げば、役割も継承できる。
ヨーロッパ社会が大きな犠牲を払いながら確立してきた人権社会が、結果として人間の心の闇に潜む巨悪を助長してしまうという矛盾。
バットマンはその匿名性を背景に、この矛盾を圧倒的な暴力で制圧するものである。
つまりバットマンは、人間の社会が現在の制度の延長にあるかぎり必要とされ続ける、ある種の<社会的存在> として描かれているのではないか。
しかし、バットマンの存在をこのように仮定すると、否応なくもうひとつの形態が想起されてしまう。
それは市民自身による圧政である。
それが、三作目の「ダークナイト・ライジング」で、ベインが率いた反乱政府だ。
いわばそれはアナーキズムの社会だ。
ゴードン警察本部長が自分を逮捕しようとする市民軍の兵士に「誰の権限で警察を逮捕しようとするのか」と問うた時、兵士は「市民だよ」と返答した。
皮肉なことに法治的な仕組みの行使には、匿名性を盾に行動できた彼らが、 囚人と市民の船がお互いの船に仕掛けられた爆弾の起爆装置を持たされた時、両者ともにスイッチを押すことはできなかった。
正義と信じたものを法を超えて実行するために必要なものは匿名性などではなかったのだ。
法治的でない社会は、その維持に個々人の高い徳性が必要とされる。
一般的なイメージと違い、アナーキズムの社会は高度に個々の民度を練った末にしか生まれ得ないものなのである。
しかし悪を巨悪で以って討つ、という構造はいたちごっこを産むだけで、悪の存在を進化させるバットマンは、やはりこの世に存在してはいけないものなのだろう。
おそらくそれが、この長い物語の中でブルース・ウェインが学んだ多くのものごとの中で最も重要なものだったはずだ。
わざわざGPSを仕込んだ真珠のネックレスを持ちだして、彼が見つけた新しい人生をアルフレッドに見せたのはその証明なんだと思う。
アン・ハサウェイが出ているというので観ただけだったのが、これは面白かった。
アン・ハサウェイももちろん素晴らしかったが。
一見して単なるアクション巨編でないことがわかる。
バットマンの<仮面>に与えられた意味がそれを象徴している。
通常、人が<仮面>をつけるときは、その正体を隠したい時だ。
だから本来、仮面そのものは無個性でなければならない。
ところが、バットマンの<仮面>は、法を超えて悪を制裁するという強い意味性を持っている。
職業に紐付いた制服と同じ。
つまり<仮面>を引き継げば、役割も継承できる。
ヨーロッパ社会が大きな犠牲を払いながら確立してきた人権社会が、結果として人間の心の闇に潜む巨悪を助長してしまうという矛盾。
バットマンはその匿名性を背景に、この矛盾を圧倒的な暴力で制圧するものである。
つまりバットマンは、人間の社会が現在の制度の延長にあるかぎり必要とされ続ける、ある種の<社会的存在> として描かれているのではないか。
しかし、バットマンの存在をこのように仮定すると、否応なくもうひとつの形態が想起されてしまう。
それは市民自身による圧政である。
それが、三作目の「ダークナイト・ライジング」で、ベインが率いた反乱政府だ。
いわばそれはアナーキズムの社会だ。
ゴードン警察本部長が自分を逮捕しようとする市民軍の兵士に「誰の権限で警察を逮捕しようとするのか」と問うた時、兵士は「市民だよ」と返答した。
皮肉なことに法治的な仕組みの行使には、匿名性を盾に行動できた彼らが、 囚人と市民の船がお互いの船に仕掛けられた爆弾の起爆装置を持たされた時、両者ともにスイッチを押すことはできなかった。
正義と信じたものを法を超えて実行するために必要なものは匿名性などではなかったのだ。
法治的でない社会は、その維持に個々人の高い徳性が必要とされる。
一般的なイメージと違い、アナーキズムの社会は高度に個々の民度を練った末にしか生まれ得ないものなのである。
しかし悪を巨悪で以って討つ、という構造はいたちごっこを産むだけで、悪の存在を進化させるバットマンは、やはりこの世に存在してはいけないものなのだろう。
おそらくそれが、この長い物語の中でブルース・ウェインが学んだ多くのものごとの中で最も重要なものだったはずだ。
わざわざGPSを仕込んだ真珠のネックレスを持ちだして、彼が見つけた新しい人生をアルフレッドに見せたのはその証明なんだと思う。
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント (2014-07-23)
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【Anthologies #1】心に澱が積もる夜には|大貫妙子『ライブラリー』
還暦を過ぎ、いつの間にか貪欲に新しい音楽を探すことはなくなった。 それでも、日々を生きていれば音楽に頼りたくなることはあるものだ。そんなとき聴きたくなるのは、アーティストたちの人生が垣間見える<アンソロジー>で、いくつか愛聴盤がある。 誰かの心無い言葉や、諍いに心に澱が募るよう...
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※当記事の内容をリファインした 新記事<2026年版> をアップしています。よろしければそちらもぜひ。 レコードクリーニング液を自作する方法|成分・配合・コスト比較まで徹底解説 <2016年版> 年に一度、地元の新聞販売店主催の古本バザーがあって、そこにけっこうな数のアナログレコ...
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僕の愛用するTANNOYのGREENWICHというスピーカーは、20cmの同軸ユニットを積んでいて、一般にスピーカーは大きい方がいいという認識を持つオーディオファイルからは「中途半端」なスピーカーと見られている。 また、弦の流麗な表現よりは軽快なリズムを得意にしていて、TAN...





