2013年10月18日金曜日

歌うことと聴くことの応答性の中で〜小山卓治「PASSING」

懐かしい友人の消息を聞いた日には、その頃の音楽が心の中を流れていく。
そんな時によく手が伸びるレコードが何枚かあるが、大学時代のことを思い出した時には、このPASSINGというレコードをターンテーブルに載せることが多い。

このアルバムに収録されている小山卓治のPASSING BELLという曲には想い出があるのだ。

この曲を教えてくれたのは、貸しレコード屋で一緒にバイトしてたギター弾きの男で、ビル・ローレンスのストラトをいつもかついでいた。
ボーカリストの声にうるさい男で、僕が大好きだった村田和人の新譜が入ってきたから、この人いいですよって言ったら、うん、確かにいい曲書くけど声がないよね、なんて言われて、えーそうかなあ、って。
そうだよ、それならこれ聴いてみなよ、と言われて聴いてのけぞった。

一発でやられてレコード買って、何度も聴いた。

A面の4曲目にPASSING BELLという曲が入っている。
PASSING BELLっていうのは、弔いの鐘のことだ。
昔の友人の訃報を聞いて古い仲間が故郷の町に集まってくる。
そして身の上話を語り始める仲間たち。
まるでそのみんなで歌っているように、最後のサビが大人数のコーラスで壮大に歌われる。
葬式が終わって、たぶん誰かの家に集まって、不揃いのグラスに一本のシャンパンを注いだ、という歌詞だ。
歌はそこで終わっているが、たぶんその不揃いのグラスが乾杯の時に奏でるそれぞれの音が、死んだ旧友へのPASSING BELLだ、と言いたいのだろう。
それぞれの人生が奏でるそれぞれの弔いの鐘。
なぜだかいつも、そこにくると胸が痛くなってちょっと泣いた。

音楽系のサークルに所属していた僕は、アコースティック・ギターのうまいAという男にこの曲を教えた。彼が歌うのにふさわしい曲だと思ったからだ。
彼は僕らが夏に企画していたコンサートでこの曲を歌ってくれた。
そして僕を含めた何人かのメンバーをステージに集めてこの曲の最後のサビをみんなで歌った。


何年かして、会社員になっていた僕のデスクの電話が、この歌の歌詞の通りに「いつもより静かに」鳴った。
そのサークルでお世話になった先輩が亡くなったという報せだった。
黒いスーツを着て、葬式に向かった。
サークルの仲間たちがたくさん来ていた。
誰かが自殺だったらしいと教えてくれた。
優しすぎるぐらい優しい人だった。
コンサートでいつも最後に歌うあの歌で、決まってサビのところにくると、自分で書いた曲なのに涙ぐんで、歌えなくなってしまう。
そういう人だった。
葬式の帰り道、みんなで何も言わずに駅までの道の途中の店に入り、静かに乾杯して酒を飲んだ。
そして、昔と同じジョークを交換しあった後、お互いの近況を語り合った。
何から何まで小山卓治の言っていた通りだった。


歌は、それを聴いた人の「経験」の中に存在する。
僕の中にある特別な「PASSING BELL」という楽曲は、幾度となくターンテーブルに載ったあのレコードに見えない溝となって付加された「想い」のようなものによって出来ているはずだ。
あの曲を一緒に歌った仲間たちとはその一部を共有している。
そして、あの日先輩の死を教えてくれた人は、新しい歌を書いた。
翌年、年賀状の代わりにその曲を吹き込んだCDが送られてきた。
僕の中のPASSING BELLにまた新しいメロディが加わった。

歌うことと聴くことの応答性の繰り返しの中に、歌の本質はきっとある。

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