2013年10月14日月曜日

島田荘司「摩天楼の怪人」:欲望の境界が悲劇を生み出す時

島田荘司先生の御手洗潔シリーズは、語り手が石岡和巳であってこそ、と私は思っている。

探偵自身が語り手を務めることが多いハードボイルドでは、要するに探偵が真相に辿り着くまでのご本人の奮闘が読みどころになるわけだが、つまりそれは読み手の我々とほぼ同じ視点で物語が展開していくことになる。
しかし、天才的な探偵が、同じ手がかりを得ているのに誰も気付かない真相に、論理のはしごを二段飛ばしで駆け上がっていくのに快哉をあげたい時がある。
当然、その常人ならざる探偵ご本人が語り手を務めると、ふむ、つまり犯人は執事だね、と一行で終わってしまう。
だから、常識と先入観に囚われた愛すべき一般人の語り手が必要とされるのである。
そのような、推理小説の語り手として御手洗潔シリーズの石岡和巳氏は最高で、彼の独白の人間味にはなんというか自分自身の情けなさが島田荘司先生に見抜かれているような気恥ずかしさすら感じてしまうほどの共感を覚えるのだ。

だから一般に石岡を語り手としない御手洗ものには大事な何かが欠けているような気がするものだが、もちろん例外もある。
その筆頭が、この「摩天楼の怪人」だ。
これは、御手洗がアメリカに渡り、コロンビア大学の助教授だった頃の事件。
語り手をつとめるは、ブロードウェイの脚本家ジェレミーだ。


ミステリを主食として読んでいるとよく感じることだが、アメリカには本当に禁酒法時代を描いた作品が多い。
この物語でも禁酒法時代のアメリカについて、アメリカに定住するほど彼の国を愛しておられる島田先生なりの禁酒法時代の総括が書かれている。
それは外部からの視点から見たアメリカで、ある意味では一方的でさえある。
でも、公平な意見なんかに何の意味がある?


僕にはなぜ、アメリカの人たちが文学の題材としてこの時代を選ぶことが多いのかわかったような気がした。
新しい歴史教科書としても有用だと思うので、ここに抜粋してご紹介しようと思う。

1910年代、ニューヨークの株への投機熱は過度にヒートアップしていた。
現在の中国やBRICsのように「世界の(いや当時は欧州の、か)工場」として機能したアメリカは、その時期どの企業の業績も大きく伸びていったからだ。
街には遊民があふれ、皮肉なことに彼らの富を作り出していた労働人口は年を追うごとに減っていった。
ニューヨーカーは世界の王となり、農村の貧困を尻目に、欲しいものは全て手に入れた。

そして1914年、欧州は大きな戦火への火蓋を切った。
アメリカも17年4月にドイツに宣戦布告、大戦に参加した。国中から男たちがいなくなり、ニューヨークにはますます労働人口が不足して、州政府はセントラルパークの北に大々的な居住施設群を用意して、南部から大量の黒人労働力を誘致した。

さらに19年、信心深い婦人たちによって、男たちが留守の間に「禁酒法」がルーズヴェルトの拒否権発動にもかかわらず、議会を通過した。
ギャングたちは密造酒製造工場を各地に造り、軒並み億万長者になった。(ギャツビーのように)彼らは、農村で食い詰めていた人たちをこの非合法の工場に吸収し、おびただしい数の犯罪者予備軍とした。
そして粗悪酒の大量摂取はおびただしい廃人を作り出した。
ギャングは豊富な資金力で一国の軍隊並みの兵器と機動力を得て、多くの警官を殺した。

そして29年、金融大恐慌が起こる。
幻想の価格は無に帰し、恐慌の業火はウォール街を発し世界中を焼きつくした。

世界の王だったニューヨーカーの多くが無一文となり、路上に放り出された。失意と悪酒に沈んだ彼らは高層ビルの乱立で陽光を失った冷たい路上で凍死した。
そしてそこはギャングの王国となった。


・・こうしてみると、現在の世界の有り様というのは、やはり人間の欲望の連鎖が作り出した当然の帰結に思える。
人類は進歩しているように見えて、肝心なところには無自覚なままだ。
無自覚だから慣性にまかせて、サイクルが大きくなる。
また、禁酒法の施行に関しては、それが純粋な善意によるものであっても、一方の言い分だけで作られたものは良い結果を生まないという教訓のように思える。それもある意味では「欲望」のひとつの形なのだ。


このように世界を前提した島田荘司先生は、ニューヨークを舞台に壮大で社会的な「オペラ座の怪人」を描いた。
カネも名誉もいらなくなった、現世に利害を持たない「怪人」は純粋に自分の欲望で動く。その純粋さゆえに、その「善意」は鋭く一方的で迷いがない。そして筆者が前提した通り、その先には悲劇しかない。

隣り合った二人の人間の間には「欲望の境界」ができる。
車がびゅんびゅん走る車道を走るのは怖いから、自転車も舗道を走りたいが、歩行者だって、自分の横を自転車でびゅんびゅん走られるのは怖い。車道を我が物顔で走っているように見える自動車も信号を無視しながらいつも自分の前や横を走っている自転車の存在が怖い。
社会の中には複層的に「欲望の境界」が存在しているのだ。
そしてどこかで一方的な気分になった時に悲劇が起きる。

本来は、このような悲劇が起きないように、理性的に引かれた線が「法」であり「公共」という精神なんだと思う。
しかし、現代は欲望万能の時代。
法律さえも経済の下僕だ。

公共を公の秩序と読み替えるような憲法改正、集団的自衛権、消費税、秘密保全法。
後世の作家たちは、この時代をどんなふうに書くのだろう。

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