2013年10月9日水曜日

オーディオ装置の「所有」と音楽体験の「内部化」

2006年に会社を辞めて自分の店を出した時、自分のためにレコードプレーヤーを買った。
理由はいろいろある。

ひとつは、昔買い集めたレコードが、ダンボールに詰め込まれて、まだ家の押入れに眠ったままになっていたからだ。
100枚くらいの貧相なコレクションだが、多感な時期に買い集めた、自分の音楽観の基礎を作った音源たちを捨てることはできなかったし、大判のジャケットや黒く光るヴィニールの質感、レーベルのデザインなど、端的に言うとその「存在感」がコレクター心をくすぐるのだね。

大学生の頃、貸しレコード屋で長くアルバイトをしたことも関係あるのかも知れない。
Nagaokaのクリアトーン588というレコードスプレーと、同じNagaokaのアルジャントというヴェルヴェット・クリーナーで一日何枚のレコードを磨いたか。
いつの間にか身についた、B面を磨くときに、まるでレコード盤が手にくっついたように自然にくるっとひっくり返すあのやり方は、ちょっと言葉では説明できない。
僕の毎日はレコードとともにあった。
あの楽しかった日々が懐かしかったのかも。
自分のレコードじゃなかったけどね。

これも確実に関係あるなあ、と思うのは、お店用のオーディオ機器を探すのに雑誌を何冊か買ったんだけど、その一冊に村上春樹さんのインタヴュー記事が載っていて、その中に基本的に音楽はレコードでしか聴かないと書いてあったことだ。
この時の雑誌は、もう手元にはないが、2011年に出た「雑文集」の82p「余白のある音楽は聞き飽きない」に全文収録されている。
あの頃僕は、村上春樹の小説の良い読者とはいえなかったけど、彼の生き方はロールモデルのひとつとして参照していたので、うん、やっぱり音楽はレコードだよなと思い込んだ。

そんなわけで、レコードプレーヤーを買おうと思って、雑誌を買い込んで調べたり、ネットの海をあてどなく放浪したりした。
わかったことは、もうダイレクトドライブのレコードプレーヤーはほとんど作られていないということだ。
ダイレクトドライブっていうのはレコードを載せて回るターンテーブルをモーターの回転軸であるシャフトで直接回す方式のことだ。
現在はベルトドライブというのが一般的で、こちらはモーターのシャフトとターンテーブルをベルトで繋いで回す方式。

僕はこの伸縮性のあるベルトに回転の正確性を委ねるというコンセプトにどうしても抵抗がある。
それにベルトのかかったプラッターは、ほぼ例外なくツルツルした部材が使われていて、滑っているような気がしてならない。
実際にどうか、ということではない。
そう思う気持ちが、音楽に向き合う純粋な時間の中にわずかな疑念を差し挟むのだ。

例えば知人宅で、例えば試聴会で、ベルトドライブのプレーヤーで演奏されている音楽を聴いて、「滑ってるな」とか「回転が不安定な気がするな」などとは一切思わないのだ。
そこには、それぞれのプレーヤーやカートリッジの個性があるだけだ。

ところが、これを「所有」しようと想像した瞬間に、ベルトの伸縮性がどうしても許せない要素として、購入の検討どころか、それ以上の想像すらも許さないほど僕の心を占拠してしまう。

「所有」というプロセスを踏まないと、自分の中に「音楽を聴く」という行為を内部化できないタイプの人間なのだろう。
実は僕は図書館で借りた本だと、まったく内容が頭に入ってこない。
困った体質だ。

このような性向について、オーディオ愛好家特有の過剰なこだわりと見て、機械から出る「音」ではなく、僕は「音楽」を聴いているのだ、と突っ張ってみても現代の音楽のほとんどは、電気技術による増幅とトランスデューシングから逃れられるわけではない。
機械も含めて音楽を捉えなければ、懐古趣味の罠の中で「自分の中にある音」だけを反芻していくことになってしまう。
音楽だって文学だって「他者」を内部化していくプロセスに創作と鑑賞の意義があるのだ。


つまりオーディオという趣味がいかに個人的なものであるかという、これは証左である。
単にこのアンプと、このスピーカーを組み合わせたらこうだった、とか、スピーカーの位置をこう変えたらこうなった、というような話は、オーディオのほんの一面に過ぎない。
もちろんこういう話は実際に自分のシステムで音を聴く際に参考になることが多いし、セッティングを工夫して音が変わっていくのは本当に楽しいものだ。
そうして内部化された音に対する工夫は、もうその瞬間からその人のものとなり、今度は他者にとっては参考程度のものとなっていくのだ。

結果として、オーディオについての話は、お互いが持つ絶対開かない箱の中にあるカブトムシのツノの自慢のようなものとなる。

だから究極のいい音などというものがもしあるとしても、それは絶対に外部には存在しないし、そこへの道のりに、他者の評価のようなものが有効だとは僕には思えない。
そしてそれは絶対的に内的なイデーとして存在せねばならず、何かと比較しなければわからない差異などそもそも意味がないのだ。

そう思うようになってから、世評も高いが価格も高いスピーカーやアンプへの憧れは嘘のように姿を消した。
でもねえ、ちっとも新しいオーディオ装置なんて欲しくないのに、不思議な事にこいつと一生添い遂げたいと思うような機械にはきちんと出会うんだよなあ。



そうやって僕は生涯のパートナー、TANNOY GREENWICHと出会ったのだし、McIntosh C2200とMC275にアンプリフィケーションを委ねているし、スウェーデンの真空管アンプCOPLANDにもちゃんと出会えた。

目で見て惚れ惚れ、音を聴いてうっとりしている。

そして、もし僕と出会うべき新しいパートナーがどこかで待っているのなら、然るべき時に現れ、決して見逃すことはないと確信しているのだ。

2 件のコメント:

  1. 職場の先輩から頂いた20年も前のsonyのスピーカー&アンプには
    なんの不満もなかったのです。
    でもある日中古のB&W804sを見つけて聴いた時
    「みつけたー!これだー!欲しいー!」と思いました。
    今ではsonyと仲良く鳴ってくれています。
    そんなものなのですね。

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    1. B&Wご購入、おめでとうございます!もうホント、恋愛と一緒で理由なんてわかるようでわからないんですよね。間違いなく運命だったと思います。

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