ジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」は、古代、中性の社会が経験した数々の文明崩壊の実例を検証し、現代社会の問題を抉ろうとする労作だ。
しかし、激動の二十世紀に我々の社会に起こったほんの数十年前の過ちでさえ、なぜその時そんなことになったのか、にわかには理解できないほど自明な過ちに見える。
そして科学的合理性は充分検討されているように思われる二十一世紀になっても、その自明な過ちを僕らは簡単に繰り返しているように思える。
僕自身も一度は興奮して読んだこの「文明崩壊」に編み込まれている意図が、本当には理解できていないのではないか、と自分を疑っているところだ。
そこで、過去の文明崩壊の実例を検証する第2部を中心に精読してみることにした。
本稿では第2部第2章「イースターに黄昏が訪れるとき」を読む。
イースター島は、巨人(モアイ)像で知られる南海の孤島だ。
1722年4月5日、復活祭(イースター・デイ)の日にオランダの探検家ヤコブ・ロッへフェーンによって発見され、発見した日にちなんでこの名が付けられた。
発見された時、この島には2~3000人程度のポリネシア人が住んでいたのではないかと言われている。
しかしこの島はまさに孤島なのである。
東方向に隣接するチリの海岸までは3600kmの距離があり、西のピトケアン諸島からも2100km離れている。
人が住む場所としては最も孤立した立地である。
彼らの持っていた舟は雑多な木材を矧(は)ぎ合わせて作った上、水漏れを止める機構も持たない原始的なもので、当時のヨーロッパの新型艇でも十七日もかかるような航海をこなせるようには見えなかった。
彼らはどうやってこの島に入植してきたのか。
さらにヨーロッパ人たちを驚かせたのはもちろん巨人像で、ろくに舟を作るための材料もない枯れ果てた島に、巨大な木造の構造物の助けを借りなければ立てることができない巨石による像が無数に立っているのである。
いったいどうやって作ったのか。
このような謎は、学者たちの好奇心を強く刺激し、しかし孤島であるがゆえの困難もあり、この島の研究は断続的ながら徹底的に行われた。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールは、インディオ入植説をとなえ、インカ帝国の巨大石造建築との関連を説いた。
スイスの著述家エーリッヒ・フォン・デニケンは、地球外生命体が不時着し、その高い知性と最先端の工作機械で石像を作ったという想像力豊かな仮説を提出した。
しかし島から掘り出された土器や石器、家屋や聖堂の遺跡、食物の有機堆積物、そして人骨の考古学的考証からは、探検家や著述家のロマンティックな想像力をはるかに超える意外な真相が姿を現したのだ。
この島は、まだ人間が入植する前の数十万年のあいだ、さらには紀元900年頃に入植が始まってから暫くの間は、背の高い樹木と低木の茂みからなる亜熱帯性雨林の島だった。
そして不毛の荒れ地となったイースターには今や営巣する海鳥はほとんどいないが、その頃は太平洋全体でも最も豊かな鳥類の繁殖地であったらしいことがわかっている。
アシカやウミガメ、大型のトカゲなどのタンパク源にも恵まれ、島の社会は大いに繁栄し、少なくとも1万5千人以上の人口を抱えるまでになったようだ。
イースター島の首長と司祭は、かねてより自分たちと神とのつながりを声高に唱え、島民たちに繁栄と豊穣を保証することで支配層としての地位を正当化していた。
このイデオロギーは、大衆を感服させるための大掛かりな建造物と儀式によって強化されていた。
巨人(モアイ)像はその象徴的なものである。
この巨石を加工し、垂直に立てるには大規模なクレーンのような機構が必要で、当時の住民は大量の木材を切り出し、その機構を製作した。
豊かな森林資源に支えられて大きくなった社会には、必然的に権力闘争が起こり、その闘争はより大きな巨人像を作ることによって行われた。
必然的な帰結として島中の樹木はあっという間に刈り尽くされ、全種の樹木が絶滅した。
そこからイースターの文明の終焉がはじまる。
まず、木材をくり抜いて作っていたカヌーが作れなくなり、外洋魚や海獣をタンパク源として摂取できなくなった。
島に営巣していた海鳥類のほとんども姿を消してしまい、従来通り手に入る食糧はネズミだけになってしまった。
また樹木がない土壌は、実や落ちた葉や枝などによる自然堆肥がなくなり、枯渇していく上に、養分の溶脱がどんどん進んでいってしまう。
目に見えて農業の収量が落ちていき、食糧は絶望的に減っていった。
また、冬のイースターは気温10度程度で、強い風雨にさらされる。
この期間を凌ぐための薪が手に入らなくなった。
火葬も不可能になり土葬になった。
衛生状態も悪化し、病気も蔓延しただろう。
それだけではない。
もともとこの事態を引き起こした巨人像は神の恩恵による繁栄と豊穣の象徴なのであり、その保証が絵空事に過ぎなかったことが証明されてしまったことによって、彼らの社会は秩序を失った。
モアイ像は引き倒され、島民同士が残された少ない資源を取り合い、闘争が慢性化した。
その同士討ちは、資源のない環境の中ですぐに食人習慣(カニバリズム)に変容した。
なんという急激な凋落か。
しかもその原因は社会の繁栄がもたらした「不用意な環境破壊」だ。
現代に生きる我々からみれば、自明な不用意さも、その場にいた当事者にとってはそうではない。
そしてその我々だって、その不明さをまだ捨てきれてはいないのだ。
決定的な危機に直面してさえ、彼らが最初にやったことが「モアイを引き倒すこと」であったという象徴性からも僕は目を離すことができない。
ソヴィエト連邦が崩壊した時にはスターリンの、ルーマニアの共産党政府は倒れた時にはチャウシェスクの銅像が、やはり打ち倒されていたではないか。
我々は、自身の文明のステータスがどのようになっているのか、思った以上にわからないまま生きているということを、イースター島文明の滅亡は時空を超えて我々に教えてくれているのではないだろうか。
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