「火星のプリンセス」が映画化されると聞いて、興奮しないSFファンはいないだろう。
魅力的な主人公と、SF史上に残るヒロイン、デジャー・ソリスの恋。
奇想天外な火星人社会と恐ろしくも魅力的なクリーチャーたち。
そしてなんといっても異形の火星犬ウーラの外見を裏切る忠実さと能力といったら!
めまぐるしく展開する物語構成も含めて、これが映画になるならぜひ観てみたいと、少年時代にスペースオペラに胸を熱くした者なら誰でも思うはずだ。
そしてそれは実現した。
したものの、ファンは一抹の不安を覚えたはずだ。
製作がディズニーで、2億5000万ドルを投じる「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだというのだから。
スペースオペラというのは、科学的根拠なんてそっちのけの荒唐無稽さが面白いのだし、安っぽい色気こそが似合うのだし、クリーチャーはグロテスクだからこそイイのである。
万人が面白いと思うようなものではないのだ。
これは中途半端なものになりそうだぞ、と多くのファンは思ったに違いないし、報道でも興行的には映画史に残る大失敗になりそうだと報じられていた。
実際に観てみると、半分は予想通りで、半分は嬉しい裏切りが待っていた。
監督を務めたアンドリュー・スタントン監督(ピクサー)は、バロウズへの愛情をこの映画にきちんと盛り込んでいる。
映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところで、店主に黄金を突きつけたカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴る。
これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたという、故野田昌宏宇宙軍大元帥がご著書で紹介してくれた有名なエピソードに引っかけた洒落だ。
もうこれだけでニヤリなのだ。嬉しいではないか。
昔のSFファンの初恋の人はだいたいデジャー・ソリスか、ジョオン・ランドールと相場が決まっているが、正気を疑われるのを覚悟で個人的な見解を申し上げれば、日本では武部本一郎画伯の挿絵の清楚さでデジャー・ソリスが半馬身ほど有利だったと思う。
鶴田謙二氏の挿絵で復活したジョオンがすごい勢いで形勢逆転したわけだが、それに関してはここで語られるべき話ではないだろう。
で、普通に考えれば、このデジャー役にハリウッドの有名美人女優をあてて興行収入を稼ぐというのが常道だろうが、ここでもスペースオペラのいい意味での「安っぽさ」を監督は尊重してくれている。
しかし、だ。
ものが「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだ。そんなキッチュな造りでスポンサーが納得するはずがないのである。
また、アンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
結果物語は整理され、科学的整合性を得て、非常に安定感のある物語になった。
この安定感が「敵」なのだよ。
ジョン・カーターが火星へ移動する理屈は、原作では「不思議なことに」の一言ですましている。
これに納得行く説明を与えて、説明する画面作って、登場人物出して、とやっているうちに普通のSF映画になってくる。
そうすると今度は、重力の差で凄いジャンプが出来るということだけが優位性だったジョン・カーターに、どうしてあそこまでの大活躍ができるんだろうかという、まあこの物語の背骨ともいえる構造に亀裂を入れてしまう。
だから今度はカーターの人物造形に力を入れることになるが、その際、ピクサーの方程式に合わせるために、大切なものに執着するカーター像を作る必要があって、地球にも妻子がいたことにしなくちゃならなくなる。
唐突だし、書き込み不足と感じられてもしかたないだろう。
反面、いいこともある。
移動の根拠に使った、不思議な力を使う民族「サーン」は、原作には出てこない。
もっと後の続編に出てくるのだ。
これを地球往復のエピソードに使ったことで新しい物語の幅が出てきたと思う。
続編への自然な導入にもなるだろう。
この映画は故スティーブ・ジョブス氏に捧げられている。
続編には、唯我独尊と言われても我が道を貫いた故スティーブ・ジョブスに倣って、これがいったい誰のための映画であるべきだったのか、をもう一度考えていただきたいと心から思う。
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