2016年11月20日日曜日

有島記念館、冬。Nikomat EL & Zoom-NIKKOR 43-86mm 1:3.5

ニセコにある有島記念館に行くことになった。
冬の羊蹄山を撮るチャンスと、重いフィルムカメラを持って出かけたが、残念ながら天候が悪く、羊蹄山は姿を見せてくれなかった。
それでも有島記念館周辺は、やはり雄大な北海道ならではの雰囲気を持っていて充分感動的。
興奮してシャッターを切ったが、やはり構図を切る力は無く、見たままの迫力は感じられない。
それでも何枚かまともなものを選んでアップしてみます。

有島記念館の入り口の背の高い白樺。


門から入ると本館の塔が見える。


本館に辿り着く前に広い前庭があり、いくつものオブジェが。
いい雰囲気です。夏にも来てみたい。


有島武郎像。
有島はこのニセコの地にあった有島農園の農園主であった。ロシア革命の影響を受け、小作農に地所を開放したが、おそらくその時の様子を再現したものと思われる。
記念館内にその時の用水路の上に立ち演説している写真が展示されていたが、その構図によく似ている。



記念館内のカフェスペース。
せっかく来たしアイスクリームでも思ったが完売だった。



最寄り駅はJRニセコ駅だが、この駅からはバスの便が悪い。
この地域で最も大きな倶知安駅から道南バスに乗って行くのが便利だ。
写真は倶知安駅前のカフェ。
なかなかオシャレ。


駅前の電柱に集まる電線と大きなトランス。


秋の琴似発寒川を撮影してみた。Nikomat EL & Zoom-NIKKOR 43-86mm 1:3.5

フィルムカメラをもらって写真を撮り始めてから、紅葉の季節を待っていた。
すこし早いかなと思いながらも、あんまり天気がいいから10月も終わりそうな日曜日に、家から歩いていける琴似発寒川に出かけてみた。
生活に追われてなかなか現像に出せず、 やっと現像、仕上げができたのでアップします。


家を出てすぐに、ナナカマドが綺麗だったから撮ってみた。
秋の午前中の光が、鮮やかなはずの実を淋しげに見せてくれた。


琴似発寒川に架かる橋の上から望む稜線が霞んでこれも秋の気配。
紅葉はまだ三分というところ。


カメラを川面に向けた。
夏とは違う厳しい表情。


川沿いの散策路から覗く川面。


散策路を進んでいくと、分かれ道があった。
白樺の並木道も北海道らしい日常の風景と思う。


2016年10月31日月曜日

2016 北海道オーディオショウに行ってきた vol.3~「スピーカーの話をしよう」編

今回の北海道オーディオショウで最初に訪れたのはアクシスのブースだった。
はじめてお邪魔した年から一貫してウィルソン・オーディオのスピーカーにエアーのセパレートアンプでデモをしていた。

今回のウィルソンのスピーカーはまだ雑誌にも載っていないという新製品だったので、お願いして写真を撮らせてもらった。
製品名は聞き損なってしまった。


一見するとソフィアのツイータをアレクシア風に角度を付けてセッティングした感じ。
まあ、技術的にどうこうというよりはレコーディング・エンジニアであったデヴィッド・ウィルソン氏の感性が作り出す「真っ当な」音がこのブランドの魅力だと思う。

ソフィアや昨年聴いたサブリナに較べると、高音部に厚みというか落ち着きというか、そういうものが加わって確かに品位が上がっている感じがする。
キャラクタとしては少し重厚寄りで、去年聴いたサブリナの軽快さが好ましいものだったことを逆に思い出してしまった。
それでも今回出展されたスピーカの中で一、二を争ういい音だった。

次に、ステラのブースへ。
実は今回一番楽しみにしていたのが、この会社で扱っているVivid Audioの新作B1-Decadeだ。


昨年はG3 GIYAというスピーカーがあまりにもいい音で鳴っていたので、新作にも期待していたわけだが、結論から言うと期待はずれ。
アインシュタイン社のセパレートアンプでドライブしていたが、どこか詰まっているようなコモッたような音がしていた。


B&Wの800D3に関しては別稿にて詳述している。


NOAのブースではソナス・ファベールの新作、イル・クレモネーゼをブルメスターの大きなパワーアンプでドライブしていたが、これがソナスらしからぬ軽い音。
もうひとつの特徴が音像の大きさだが、こちらはその通りだった。
デモが終わってシステムを見ると、プリアンプがなくてパッシブのボリュームを繋いでいた。
なるほどね。
ブルメスターのプリでも繋いでおけば相当迫力のある音を聴けただろうと思うと少し残念だ。


エソテリックのブースではアバンギャルドのDuo XDという新しいモデルを鳴らしていた。



以前違うモデルを聴いたときは、音像ばかり大きくて、ホーンの風切音も気になって仕方なかったが、かなり練れてきてはいると思う。
ジャズ喫茶なんかでアツい音を聴かせる時なんかに、こういうスピーカーもいいのかもしれない。
見た目のインパクトに似合う雰囲気のある音。
ただこれ絶対部屋に入らないから。

最後に回ったのがエレクトリのブースで、今年もマジコの新作を持ってきてくれた。
今までの金属筐体にカーボンをプラスしてさらに強度を追求した「M3」というスピーカー。

しかし、記憶に残っているのは、マジコ社で最も小さいS1 Mk-2というモデルで、上級機のM3と音の姿がまったく変わらない。その上で寛いだ軽やかさの雰囲気も纏っている。
ナイスサウンド!

徹底的に物量投入して、どんな入力を入れてもビクともしないM3では、パコ・デ・ルシアの無名時代の激しいフラメンコの実況盤がかかったが、これには本当に驚いた。
他の機械でこの音量が出てきたら多少不快になると思うが、このスピーカーではそれがない。
揺るがない。
歪まない。

そのようなスペックに支えられたM3の美点にも関わらず、S1 Mk-2の音に理屈でない好感を感じる。
スピーカーを選ぶというのはそういうことだと思う。

それは伴侶を選ぶことに似ていて、違う音が聴きたいから、という理由で簡単に取り替える気持ちになれない。
それでも恋に落ちれば、いろんなことを犠牲にして替えるかもしれない。
そうか、試聴会ってお見合いパーティーみたいなもんなんだな。

vol.1「B&W 800D3」編
http://girasole-records.blogspot.jp/2016/10/2016-vol1b.html
vol.2「ネットワークプレーヤーへの換え時は来たか」編
http://girasole-records.blogspot.jp/2016/10/2016-vol2.html
vol.3「スピーカーの話をしよう」編
http://girasole-records.blogspot.jp/2016/10/2016-vol3.html

2016 北海道オーディオショウに行ってきた vol.2~「ネットワークプレーヤーへの換え時はきたか」編

昨年からリニューアルされた「北海道オーディオショウ」だが、二回目にして大きな転機が来たかなという印象を受けた。

いつも楽しみにしているブースはアクシス、ステラ、エレクトリの三社だが、今回この三つのブースともにCDプレーヤーを持ってこなかった。
ネットワークプレーヤーの先駆者LINNは、デモ冒頭の挨拶で、まずは日本ハムファイターズの日本一に祝意を示し、続いて北海道のオーディオユーザーは保守的で、ネットワークプレーヤーへの切り替えが進んでいないと述べた。

かくいうワタクシもネットワークプレーヤーに対しては、まだちょっと全幅の信頼を置くに至っていない。
むしろCDプレーヤーへの不信感もここにきて高まっているくらいで、この先も信頼感が高まっていく気がしないのである。

そもそもの原因を作ったのが当のLINNで、何年か前に別のホテルでやっていた試聴会の際、デモの途中でプレーヤーがWi-Fiを見失って、音楽が途切れたことがあった。
仕事用の書類を家で作っていて、本番用のちょっといい紙に印刷をしている途中で「通信エラー」のアラートが出て印刷が止まり、紙が台無しになったことがあって、すごく悔しい思いをしたこともある。

そのようなことはコンピュータを使っていれば、多々あって、しかも原因はたいていわからないまま復帰して再現性もないことが多いという、そのようなコンピュータの振る舞いについての根強い不信感がその背景にはある。
年々、ボク個人のオーディオ的関心がアナログに募っていく所以である。


しかし、多くの出展者がネットワークプレーヤーやPCからの音源をDACで再生してくれるから、いろいろとディジタル音源との付き合い方というか、作法のようなものについての考察が得られるのは有り難いことだ。

さて、今年のオーディオショウ全体を見れば、残念ながら本家LINNの音が一番ショボかった。

LINNは10年前に「Klimax DS」というネットワークプレーヤーの草分けを発表し、オーディオ界に革命を起こした。その後すぐにデジタルディスクプレーヤーの生産自体を止めてしまい、その本気度に感心したものだった。
その革命的ネットワークプレーヤー「DS」のフルリニューアル機「Klimax DS/3」というのが今回のデモの目玉だった。

旧モデルとの比較ではたしかに新開発のDACが効いていて音の鮮度がぐっと上がる感じが聴き取れたが、いかんせん音楽の熱さが伝わってこないのである。
冷え切った音。
四年前に聴いたLINNのアキュバリックというパワーアンプ内蔵スピーカーの音に痺れきった僕は、これをいつか必ず買うんだと決めていたが、今回のスピーカもそのパッシブ版で、パワーアンプもLINN純正。
その原因がさっぱりわからなかった。

デモの最後にセッティングの説明があり、ラックにはネットワークプレーヤー内臓のプリアンプが置いてあったのだが、DSにはデジタルボリュームがついていて、直接リモコンから音量コントロールができるため、今回は接続していないとのことだった。
であれば、それが原因に違いない。

一昨年、dCsというブランドの1000万円もする四筐体のSACDプレーヤーの音を聴いた。
これもデジタルボリュームがついていて、プリアンプ無しで直接パワーアンプに接続していたが、今日のLINNと同じような醒めきった音だったのだ。

対して、アクシスはエアー社の定評あるリファレンス・プリアンプを、エレクトリはマッキントッシュの真空管プリアンプを使ってデジタルファイルを再生していた。
どちらもとてもいい音で、今回のオーディオショウで甲乙つけがたいアツい音を聴かせてくれたブースとなった。
プリアンプ、大事なんだな。

僕自身の話をすれば、二十数年も前から自作曲を作っては自宅で録音するというのが趣味だ。
カセットテープに録音していた頃は、今とは比較にならないほどのナローレンジだったが、テープという狭いキャパシティに入り切らない熱量がもたらす「歪」が音楽をイキイキとしたものにしてくれていたように感じる。
デジタルで録音するようになると、キモチワルイほどそのままの状態で録音されるが、PAを通して聴くステージ音楽や、観客や演奏者の生体が出す盛大な暗騒音の中で聴くクラシックコンサートの音ともそれは違う。
演奏した音がそのまま出てくればいいというものではないのである。

アンプで増幅するときの「歪」が、
通ったケーブルでついた「匂い」が、
スピーカーのユニットが振動する時の「癖」が、
演奏者の想いと相乗して聴いている僕たちの心を震わせているのではないだろうか。

1982年にCDが出てきた時、これからは機器によっての音の差は無くなります、と技術サイドではアナウンスしていたらしいが、当然ながらそんなバカなことはなかった。
30年以上経った今、やっといい音のCDが出てきたなと思えるくらいなのである。
本格的なデジタルファイル移行の時代を迎えて、また同じような過ちをおかそうとしているのかもしれないと思う。

かくいう自分も、ノイズがなく、疵が即音飛びにつながらないといったCDの扱いやすさに飛びついて、それまでのレコードコレクションを手放しはしなかったものの、入手しないままになっている名盤がたくさんあって、今それを非常に後悔している。
個人的にはだからこそのアナログ回帰なのであって、デジタルファイルの新しい作法を覚えている暇は、今しばらくは無いのである。

vol.1「B&W 800D3」編
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vol.2「ネットワークプレーヤーへの換え時は来たか」編
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2016 北海道オーディオショウに行ってきた vol.1~B&W800D3編



CAVIN大阪屋の高級オーディオ試聴会がリニューアルされ、規模も大きくなった「北海道オーディオショウ」の、今年は第二回である。

まずは特別企画の「B&W800D3」について書いておく。
通常のブースは30分枠だが、ここだけマランツとB&Wの枠を繋いで60分構成となったのは昨年の「802D3、803D3」の特別発表会と同様。
しかし、せっかく繋いだ枠をわざわざ30分ずつに切り直して、マランツのSACDプレーヤーの新製品「SA-10」のデモを音決めの技術者に任せていた。

昨年聴いたヤマハの新スピーカーNS-5000も、デノンのPMA-SX11も、技術者然とした担当者が、どちらかというと野暮ったい系のサラリーマン姿で、技術的な説明の後に、ちょっとベタな色気を意識した選曲で音楽を聴かせていた。せっかくのいい音も、そのようには聴こえないから不思議だ。
今回のマランツもそんな感じだった。

空振り気味のマランツのパートをやり過ごして、B&Wのパートに移ると、オーディエンスの視線が集中して強くなり、部屋の温度が少し上がった。

仕立てのいいジャケット。
ストライプのニットタイ。
いつものデモンストレータが淀みのない、抑え気味のトーンで話し始める。
奇を衒わない、ストレートなクラッシク中心の選曲に自信を感じる。

昨年からリニューアルが始まった800系D3ラインのフラッグシップがついに登場ということなので、僕も期待はしていた。
しかし、昨年のデモでは小さい方の803D3が非常にいい音で、会場になっている200名ほども入りそうな宴会場でさえ充分な響きを見せていたし、大型の802D3との差も、確かにあるとは思うがほとんど誤差の範囲。
今年発表のフラッグシップ・モデルだって、そりゃいいだろうけど、アレ以上の完成度って出るのかという疑問があった。

果たして音を聴けば、まったく予想通りのいい音で、つまり803Dで充分ということだな、というのがよくわかった。
つまり単に予算に合わせてどれを買ってもいいというモデルラインで、これこそ工業製品というものだろう。
上級モデルのほうが音がいい、という先入観をあざ笑う余裕の企業姿勢にとりあえず敬意を表しておきたい。

vol.1「B&W 800D3」編
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2016年10月24日月曜日

The東南西北『内心、Thank You』は「世界を敵に回す」系ソングの元祖であったか。

大学時代、貸しレコード屋でバイトをしていた時、「The東南西北」という変な名前のバンドのデビュー盤が入ってきた。


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試聴してすぐ気に入って、店でBGMにもかけたし、それをそのままテープに録音させてもらって(役得!)何度も聴いた。

特にセカンドシングルにもなった「内心、Thank You」というベタつかないバラードが大好きだったが、その後我が身にふりかかった失恋があまりにもピッタリ歌詞にはまって、聴く度に身につまされるのでそのうち聴かなくなってしまった。
 
30年も聴かずにいたその曲が、大学時代の先輩がDJを務めるSTVラジオの帯番組「ミュージックJ」で不意打ちのようにかかって一気に時間が戻ったが、さすがに30年の月日は大きい。胸が痛むというよりは心地よい切なさを感じ、あらためて名曲だとの確信を深めた。


YouTubeを漁ると、現在の久保田洋司さん(The東南西北のボーカル&ソングライター)が歌っている動画があり、CキーをAキーまで落として落ち着いたトーンで歌っているのがとてもいい。



この曲の作詞をした松本隆さんの特集番組内での演奏で、その番組内で、久保田が松本隆さんに歌詞を書き換えてもらったエピソードが語られていた。


当初、学校を舞台に書かれた歌詞が、高校を卒業したばかりの久保田には近過去ゆえのリアリティの無さがどうしても我慢ならなかったようだ。

「一生歌える歌にしたいんです」
の言葉に応えて書き換えられたのが現在の歌詞で、久保田は、だからこの歌は一生大事に歌うんです、と言っていた。

幸せな歌だと思う。


この動画内にある松本隆さんのインタビューに、この歌が「世界を敵に回す」系の歌の元祖ではないか、という話があるが、これについて調べた労作がすでにある。
「足型日誌」さんの「世界を敵に回す歌年表」である。
素晴らしい。

これによると、内心、Thank Youの5年も前に、しかも松本隆さんご本人によって書かれているではないですか。たくさん書いてるからもういろいろわかんないんですよね。無理もないです。


そういえば、ネット界ではしばしば、その彼女と付き合うことで世界を敵に回すことになるってのは、いったい何をしでかした彼女なんだい?という疑問が呈されるが、確かに理屈で考えれば腑に落ちない表現ではある。
しかしそういう理屈を超えたロマンが「世界を敵に回す」というシチュエーションにはあるよなあ。

こんなのもあったよね。うのたん・・


2016年9月16日金曜日

社会との隔絶と静謐の美しさの関係についての考察~ジョン・ヴァーリイ『残像』

ジョン・ヴァーリイ傑作選「逆行の夏」から『残像』を

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原発事故が起き、近隣に住んでいた者たちへの差別がはじまる。

論理的根拠ではなく、心象的な嫌悪感から生じる差別意識の問題は現代でもいろんな局面で見られる。
人種や国籍の問題は心の問題で、だからどんなに法整備をしても万全にはならないだろう。
『ブルークリスマス』という映画では、宇宙船からの光線照射で血が青くなってしまった人たちへの差別を描いていましたね。

『残像』の物語では放射能汚染に対する恐怖からの差別意識が描かれるが、それはこの国でも5年前に福島第一原発事故による風評被害と言うカタチで経験したばかりだ。

主人公がそんな差別の視線から逃げ、迷い込んだのは、視聴覚障害者だけで運営される村だった。
ヴァーリイは、そのような差別意識は目も見えず、耳も聴こえない人にも生じるのか、と問おうというのだ。

風疹の大流行で、聴覚・視覚に障害を持った子どもたちが大量に産まれ、その中のひとりが、政府が支払っていなかった彼らへの年金を全額引き出したことからその村は生まれた。
まとまった額の年金を集め、完全な自給自足の村を彼らは作り出した。
ボディタッチによる新しい言語体系を作り、繊細な移動ルールを作り、巧みに村を運営していた。
そこに差別を受け逃げ出した男が入り込んだのである。

物語は、淡々と進む。
ラストも一見、あっけない。
しかしこれには理由がある。

この村で産まれた子供たち(第二世代)には視聴覚に障害はない。
だから親世代の言語を超えたコミュニケーションを、通常の言葉によって補って物語の語り手になっていたのだ。
それが時間を経てコミュニティに同化していって、物語そのものが新しい価値観の中に漉き込まれていった。
それがあのラストだ。
その静謐で言葉を受け付けない情景は、ヴァーリイの代表作と呼ばれるにふさわしい美しさだと思う。

2016年9月14日水曜日

「公共」と「公の秩序」の違いについてのサンプルケース~ジョン・ヴァーリイ『バーニーはなぜ殺される』

ジョン・ヴァーリイ傑作選「逆行の夏」から『バービーはなぜ殺される』を。

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バービーとはもちろんバービー人形のことで、個性を捨て完全に差別のない世界を指向する宗教団体が、未来の優れた医学で信者全員を寸分たがわない見かけに整形する、というお話。
この教団内で殺人事件が起きるが、見かけも同じでパーソナリティの基底である個々の名前すらも捨てているので、犯人が特定できない。
それどころか、誰でも同じだということで、教団は適当に誰かを犯人として差し出してくる始末。
ヴァーリイ作品ではお馴染みのアンナ=ルイーゼ・バッハが登場する作品で、それだけで嬉しくなってしまう。

個々がない世界では、人間の自由はどうなるのだろう。
人間はそれぞれが違っているから、望むものも違う。
その望みのために隣人が邪魔なら、それを排除する「自由」はある。あるかどうかでいえば、それは絶対的にある。
しかし同様の絶対さで、その隣人に排除されず社会で自己を全うする自由も存在するのである。
結び合ってひとつの社会を成しているから、個々人の願いは無制限には実現しない。
その自由と自由の境界線を「公共」という。


その「公共」を、「公の秩序」と読み替えるのが現在の自民党憲法改正草案のコアだが、これらは似ているようでまったく違う。
自由が個々に由来することを前提とする「公共」と、民衆の代表である為政者があるべき姿を規定し、成約する「公の秩序」。
バービーたちが縛られているのは、教義という名の「公の秩序」だったのである。
だからこそ抑圧からはみ出していくカタチで、起こるはずのないタチの悪い殺人が起こってしまう。

まことに他人事でない話ではないか。

2016年9月13日火曜日

楽園の崩壊とモラトリアム~ジョン・ヴァーリイ『さようなら、ロビンソン・クルーソー』

ジョン・ヴァーリイ傑作選『逆行の夏』から、今回は『さようなら、ロビンソン・クルーソー』を。

「八世界」シリーズの一作で傑作の呼び声高い短編。
キイワードは「モラトリアム」

モラトリアムには経済の用語としての意味と、発達心理学の用語としての意味がある。
前者は支払いの猶予であり、後者は自己決定の猶予である。
そしてこのダブル・ミーニングはそのままこの物語の構造になっている。

まず経済的な側面から。
「八世界」は遠く隔たった太陽系の惑星群を繋ぐネットワークであるので、経済の成否のカギを握る「情報」の到達スピードに差がある。
ことにひとつだけ遠く離れた冥王星(現在は準惑星の扱いになっている)は、最初から大きなハンデを抱えていて、いずれどこかの植民地になるのを免れない。
物語の舞台はその冥王星で、植民地化までの「モラトリアム」状態にある。

次に発達心理学的なモラトリアム。
上記のような厳しい経済戦争の中で、心が壊れてしまった経済戦略家が療養するのもまた、太陽系の中心から遠く離れた冥王星であった。

やがてモラトリアムを脱した経済戦略家が、惑星のモラトリアムを終わらせるべく経済という戦争に立ち向かっていく、という筋立て。

作中、登場人物たちが立ち会うのは、惑星内をくりぬいて作られた偽の地球環境「ディズニーランド」の崩壊であり、SF版ロスト・ジェネレーションの物語ともいえる。

2016年9月12日月曜日

現実になった原発事故がリアリティを剥ぎ取り、この映画はアートになったのかもしれない〜『原子力戦争 LostLove』

古い日本の映画を観ていくと、「日本アート・シアター・ギルド」制作の作品に多く行き会う。これはさすがに違うだろうと思って観始めた「原子力戦争」のオープニングにも「日本アート・シアター・ギルド」の名が出てきてびっくりした。
しかし考えてみれば監督は黒木和雄さんなんだからちっとも不思議じゃないですね。
で、黒木映画でおなじみの阿藤海さんとか、浜村純さん(浜村淳じゃないですよ)とか、名脇役が脇を固めている。



そしてこの映画、当ブログではお馴染みの虚淵玄さんのお父さん和田周さんが出てますね。

出番は少ないが重要な役。
役者和田周さんをはじめて観ました。


映画は田原総一朗さんの小説を原作にしたもので、福島第一原発を舞台に、燃料棒の事故とそれを揉み消そうとする東電、暴こうとするマスコミ、地域の利益のために板挟みになる住民たちを描いている。

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実際に苛烈な事故が起きてしまった今となっては、この映画に描かれていることをリアルに体感してしまったわけで、驚きはない。
しかし、事故そのものでなく、あくまでもそれぞれの人間が組織の都合や個人の情熱にフォーカスしていて、社会で起きているいろんなことに、正しい答えなんてどこにもないんだということを痛感させられる。
もしかしたら、現実になった原発事故がリアリティを剥ぎ取り、この映画は「アート」になったのかもしれない。

そして僕は動いてる山口小夜子さん、はじめて見たよ。


スティーリー・ダンの「エイジャ」のジャケット写真くらいでしか見たことなかったから。

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映画の中で砂浜歩いてたりするんですけどね。もうそこ(だけ)パリコレ?っていう感じなんですよ。

ホント、現実感カケラもないです。

対比的に、若き日の風吹ジュンさんもいい味出してる。
こっちは現実に閉じ込められているッて感じの不思議ちゃんキャラで、それがまたカワイイ。


原田芳雄さんは、黒澤映画における三船敏郎さんのような存在感ですなあ。


役割としての「ヒモ」をステレオタイプで演じているんだけど、物語が進んでいくと「自分自身」がどうしようもなく溢れでてしまう感じ。
カッコよかった。

エディプス・コンプレックスのない世界に描かれた、あまりにも純粋で美しいボーイ・ミーツ・ガール~ジョン・ヴァーリイ『逆行の夏』

ジョン・ヴァーリイ再評価の流れが嬉しい。
大学時代に「ブルー・シャンパン」を愛読していたが、いつの間にか絶版になっていた。
その「ブルー・シャンパン」を含む『逆行の夏』という短編集、というより傑作編が編まれたので購入した。

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まずは『逆行の夏』から読んでいく

ヴァーリイのSF作品はどれも、異星人に地球を征服され太陽系の各惑星に人々が散って独自の進化を遂げた世界を描いている。
その世界では、今我々が採用している生活習慣や社会構造が大きく変化している。
この『逆行の夏』では主に、家族構成の変化を主題にしているようだ。
そこは「父親」がいない世界だ。

特に珍しい話ではない。
現在の地球でも、ゴリラとテナガザルを除いて、父親を含む核家族を社会の構成要素にしている生物は(いまのところ)人間以外には発見されていない。
京都大学霊長類研究所長から京大総長を歴任した山極寿一氏の著作「父という余分なもの」 では、「父の創造」が文化の源流であるとしている。

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文明が極限まで進化した時、人類が再び「父親」を喪失するというアイディアがこの『逆行の夏』という物語のコアだということだ。

父の無い世界には、つまりエディプス・コンプレックスもない。
男の子が、成長期に抱く母親への愛着と父親への敵意。
男の子は、しかし、父親の替わりに母親の傍らに恋人として立つことはできないと識ることで、エディプス・コンプレックスを克服し、ほんとうの意味で社会の一員となっていくのである。

物語では、忘れかけられた母星(地球)の歴史として、妻殺し、夫殺し、子の虐待、戦争、飢え、といったものがいっしょくたになって、「誰かと結婚したあげく、手遅れになってから相手がまずかったとわかる」という悲劇に起因しているとして「一人の親に一人の子供」という新しい社会的伝統を作ってきたことになっている。
充分に発展した文化の中では、子供の心理的発達は教育によって担保される。
確かに現代においてさえ、巣立ちの装置としてのエディプス・コンプレックスは必要のないものなのだろう。

だからこの物語に展開される「ボーイ・ミーツ・ガール」はとても純粋だ。
情感的に希薄で、だから儚く美しい。
だからラストの虚無がこんなに美しいんだろう。

2016年9月7日水曜日

真行寺君枝も自らの代表作と言う、映画『風の歌を聴け』を観よ

村上春樹の「風の歌を聴け」が映画化されているのを知ったのはFacebookで先輩が教えてくれたからだった。

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20年ほど前、まだ銀座にオフィスのある会社でサラリーマンをしていた頃、会社の近くにある小さなバーに入り浸っていた。
「あらじん」という名前のそのバーはコリドー街近くの雑居ビルの地下にあった。
席につくと、ピーナッツの入った大きな瓶の中に手を入れて掴み取りをするのが決まりで、とれた分がその日のお通しになる。
マスターは「あ、殻はそのまま下に捨ててください」と言う。
見ると、 カウンター席だけのその店の丸い椅子の下には確かにピーナッツの殻が捨てられるままになっていた。
今でもそのマスターは別の看板を掲げて銀座でバーをやっていて、昔の仲間が時々行って、マスター元気だったよと教えてくれるから、懐かしくてピーナッツの話をFacebookに投稿したら、「風の歌を聴け」の映画版に出てくるジェイズ・バーの床にもピーナッツの殻が転がっていたね、と教えてくれたのだ。

近所のTSUTAYAにはそのDVDは置いていなくて、宅配レンタルを使ってやっと大森一樹監督の「風の歌を聴け」を観た。
そんなわけだから、ジェイズ・バーの床にまず注目することになるが、これは酷い。


床一面に殻が敷き詰められている。
ピーナッツを食べた客が殻を放り投げなければこのような状態にはなるまい。
そんな客も店もあるはずがない。殻はあくまでも自分の足下に捨てるのだ。
そしてその日の営業が終われば、殻はまとめて捨てられる。
これは、厄介な殻の始末をお客様ごとにやるのではなく、お客様にご勘弁いただいてそれだけは一日分まとめてやらせてね、という客とマスターとの間の暗黙の了解のようなものなのである。


この映画の気になるところはこれだけではないが、それらをすべて帳消しにする真行寺君枝の美貌を、まずはとくとご覧頂きたい。


レコード店の美女。
綺麗なだけじゃなくて、音楽にも詳しい。
「僕」が探しているレコードをすいすいラックから抜き出してくる。


いいなあ。ホントにいいなあ。

ところで、この美女に「僕」は、カリフォルニア・ガールズの入っているビーチ・ボーイズのレコードを探してもらうのだが、彼女、よりによってロンドンでのライブ盤を選んでいる。まあ、入ってるけどさ。普通はサマーデイズだよね。
このシーンでかかってるのもサマーデイズ収録のカリフォルニア・ガールズだし。


サマー・デイズ +3
サマー・デイズ +3
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この時点で真行寺君枝は小林薫演じる「僕」に不信感を抱いているので、意地悪をしたのかもしれないね。
そう考えるとなんか可愛いよね。

そういえば、このカリフォルニア・ガールズを映画に使うための使用料が数百万もかかっているらしく、他のシーンがチープなのはそのせいなんだそうだ。
真行寺君枝も、とにかく予算がなくて苦労したとインタビューに答えている。
同じインタビューで、真行寺君枝はこの映画を自らの代表作って言ってる。
うん、その言葉に値する雰囲気出てますよ。


「僕」はまた、思いつきでベートーヴェンのピアノ協奏曲の4番をグレン・グールド、レナード・バーンスタイン盤で選ばせるが、原作ではこれ3番なんである。
ということは、まあ、監督か脚本家の趣味なのかもしれない。

僕個人の話をすれば、一番よく聴くのはやっぱり4番で、第二楽章冒頭のストリングスの重厚なテーマが好きだ。だが、演奏者がグレン・グールドということになると話は変わってくる。
おそらく他のどのピアニストも、この3番をこんなにゆっくり弾いたりはしないだろう。特別な3番。村上らしいチョイスだと思う。

真行寺君枝の話ばかりでもなんなので、他の出演者にも触れておく。
小林薫(=「僕」)の相棒「鼠」には巻上公一が、そしてジェイズ・バーのマスターには坂田明が扮していてる。
バーにいる真行寺君枝さんも素敵(って結局そればかり)


そして室井滋さんの商業映画デビュー作なんだそうな。
もうデビューからすごい存在感ですね。


原作「風の歌を聴け」は、作家村上春樹の「なぜ小説は書かれなければならないのか」についての言葉にならない考察だった、と僕は思っているのだが、物語という形態でしか小説の蓋然性を描けないというある種のメタ構造になっている原作の主題は、メディア違いの映画には描きようがない。
そんなわけで「鼠」は小説ではなく映画を撮っているわけだが、その自主制作映画のシーンからは、粗野だがエネルギーに満ちた時代の空気が流れてくる。この自主制作映画は巻上公一の原案によるものだそうで、もともと演劇のシーンから出てきた彼の面目躍如というところかもしれない。




2016年9月4日日曜日

FUJIFILMのSUPERIA X-TRA400で、夏の終わりの札幌を撮ってみた

リバーサルフィルムの残りが少なくなってきたので、そちらは冬の札幌を撮影するために温存すべく、ネガフィルムを調達しにビックカメラに行ってきました。
ネガフィルムならば自転車を飛ばして桑園イオンのカメラのキタムラに行けば、60分で現像してCD-ROMに焼いてくれます。

カメラ用品はヨドバシカメラで探すことが多いです。
それは売り場の整理がユーザーの意識に寄り添っていて探しやすいからなんですね。
フィルムの売り場も、現像を依頼するカウンターの横に現像用品とセットになって置いてあります。

ビックカメラでは探しているものが見つからない事が多く、店員さんに訊いてみて、なんでここ?って思うことがよくあったんです。それで今回は敢えて店員さんに訊かずに、ビックカメラでのフィルム売り場を見つけるまで探してみようと決めていたのです。

果たして今回はホントに困難を極めました。
結局フィルム売り場は現像用品とはまったく違う場所で、デジカメのデータをプリントするコーナーの奥に冷蔵ショーケースが置いてあってその中に並んでいました。
プリントコーナーには常に人がたくさんいて、その横にフィルムの現像依頼コーナーもあるのですが、あろうことかその反対側の奥なのです。
まいった・・

で、これを買ってみました。
FUJIFILMのSUPERIA  X-TRA400です。


感度の高いフィルムを買ったので、早起きして夜明け直後の空などを。
改めて電線、電柱だらけの国なんだなと思いますな。
いつもの大倉山を登っているうちにすっかり日が昇ってしまいました。
札幌が山に囲まれた街であることがよく分かるアングルです。


大倉山から降りてくる道の途中には本郷新記念彫刻美術館があります。いつもの庭園の像に赤とんぼがとまっていました。もう少し倍率の高いズームがあれば、と一瞬思いましたが、無い物ねだりをしても仕方がないですね。
今回は、記念館(別館)の隣にある「宮の森緑地」という小さなスペースに知らなかった本郷作品を見つけました。


下界に降りてくると、舗道に植え込まれた向日葵が夏の終わりを惜しむように、せいいっぱい凛と咲いていました。