2016年9月14日水曜日

「公共」と「公の秩序」の違いについてのサンプルケース~ジョン・ヴァーリイ『バーニーはなぜ殺される』

ジョン・ヴァーリイ傑作選「逆行の夏」から『バービーはなぜ殺される』を。

逆行の夏 ジョン・ヴァーリイ傑作集 (ハヤカワ文庫SF)
ジョン・ヴァーリイ
早川書房
売り上げランキング: 275,599

バービーとはもちろんバービー人形のことで、個性を捨て完全に差別のない世界を指向する宗教団体が、未来の優れた医学で信者全員を寸分たがわない見かけに整形する、というお話。
この教団内で殺人事件が起きるが、見かけも同じでパーソナリティの基底である個々の名前すらも捨てているので、犯人が特定できない。
それどころか、誰でも同じだということで、教団は適当に誰かを犯人として差し出してくる始末。
ヴァーリイ作品ではお馴染みのアンナ=ルイーゼ・バッハが登場する作品で、それだけで嬉しくなってしまう。

個々がない世界では、人間の自由はどうなるのだろう。
人間はそれぞれが違っているから、望むものも違う。
その望みのために隣人が邪魔なら、それを排除する「自由」はある。あるかどうかでいえば、それは絶対的にある。
しかし同様の絶対さで、その隣人に排除されず社会で自己を全うする自由も存在するのである。
結び合ってひとつの社会を成しているから、個々人の願いは無制限には実現しない。
その自由と自由の境界線を「公共」という。


その「公共」を、「公の秩序」と読み替えるのが現在の自民党憲法改正草案のコアだが、これらは似ているようでまったく違う。
自由が個々に由来することを前提とする「公共」と、民衆の代表である為政者があるべき姿を規定し、成約する「公の秩序」。
バービーたちが縛られているのは、教義という名の「公の秩序」だったのである。
だからこそ抑圧からはみ出していくカタチで、起こるはずのないタチの悪い殺人が起こってしまう。

まことに他人事でない話ではないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿