実は刊行時にはちょっと食指が動かなかった。
いろんな意味でどん詰まりに来ているような気がしてならない社会を生きる者として、社会派ミステリーの直截性が、近年少し煩わしいと思っていたからだ。
しかし、おそらく2014年を政治の退廃が極まった年として記憶させることになるであろう愚かしい解散総選挙の様子を見ていて、このようなものに振り回される事自体が無意味だと感じるようになり、文庫化になったタイミングで、読んでみることにした。
まじで「読まされる」作品だった。
結局六巻を三日で、文字通り一気読みした。
宮部 みゆき
新潮社 (2014-08-28)
売り上げランキング: 264
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舞台が中学校。そして時は1990年。
1984年から1987年にかけて行われた中曽根臨教審の結果である「個性尊重、ゆとり教育」が教育機関に浸透していった時期である。
経済振興策としての「教育の自由化」を掲げた中曽根首相と、それを食い止めようとする文教族の闘いこそが臨教審の本当の姿だったわけだが、この闘いの折衷案として出てきたのが「個性尊重」で、従来の教育システムを残したまま、良くも悪くも受験競争の序列が作り出していた規律が崩壊していく混乱期の教育現場を「ソロモンの偽証」は描いている。
未成熟な心には「序列的な」個性しか認知できない。
今までは(たかが)成績の問題であったものが、人格にまで拡大されてしまう。
またかつてない好景気の中で、忙しい家庭は傷つきやすい子どもの心を包んであげられない。
停滞する現代社会の「原罪」を宮部は告発しているのである。
気になるのは、学校は必要悪である、というメッセージの唐突感と、説得力の薄さ。
もちろん茂木記者の見解だからどうしても役割的に、という理由もあるのだろう。
しかし実際は筆者の中に、学校の役割がでたらめに拡大していった時代であったことの認識が足りていないからではないのか。
経済成長を追いかけるばかりで、大人は家庭を「仕事だから」の一言で軽んじ、全人的成長をも学校に委ね始めていた。
それは職場で自分が詰られているビジネスの厳しい評価軸を、そのまま返す刀に使って学校を切りつける時代のはじまりだった。
学校を「必要悪」と表現する意味は、その延長線上にこそあると僕は思う。
この物語の背骨を支える重要な背景だっただけに、茂木のカウンターパートをセットしておくべきではなかったか。
固定化された身分制度の時代を終え、到来した市民社会は格差社会だった。
宮部はこの物語で格差の源泉は経済ではなく、家庭そのものだと言っている。
様々な親と子のカタチ。
それこそが宮部の描いたものだ。
真っ当に働く親の姿を知っている子を筆者は真っ当な人間に描いているように思える。
真っ当な人間と、真っ当でない人間の格差は端的に理解力に現れる。
そこで、万人に納得させるために人間社会が長い時間をかけて磨いてきた「裁判」という制度を骨組みに持ち出してくるのは必然だったと思う。
ミステリ読みの界隈で本作の評価が割れている理由はよくわかった。
宮部みゆきは本作において、せっかくの大技トリックが明かされる瞬間を最大限読者を驚かせるように配置させていない。
ミステリファンなら100%、途中でどういう筋書きかわかってしまう。
しかしそうしてでも、宮部先生は、登場人物の「心」を大切にしたのだと思う。
ミステリだからって、読者を驚かせばいいってもんじゃないんだと。
ネタが割れていくことを恐れずに徹底的に書き込まれた何人もの傷ついた若い心が、忘れたはずの自分の心の傷を思い出させる。
痛い。
こんな痛い読書体験は本当に久しぶりだ。
感情移入するのではない。
自分自身が痛いのだ。
向き合うものはそれぞれだと思う。
僕にとってのそれは、とてもじゃないがこんなところには書けない。
だからこそ、文学というものがこの世にある。
共有できない感想が本当の感想だ、と思い知らされる作品。
まいった。