その頃住んでいたのは釧路市の桜ヶ岡という町で、大きな生協の店舗に隣接してそうご電器という電器店があった。
小学生の頃ラジカセが流行って、休みの日には悪友たちとその電器店をひやかしに行った。
次のステップとしてのステレオのカタログを無闇矢鱈と集めたりした。
いろんなメーカーのカタログを集めたが、当時テクニクスのカタログがぶっちぎりでカッコ良かった。
中学に入って、ステレオを買ってくれることになった。
カタログを手に母と意気揚々と電器店に乗り込んだが、その時点で自分の中ではすでにテクニクス一択。
あとはスポンサーである母の予算次第で、どのランクのものが手に入るのか。そういう選択なのだと思っていた。
そう、その時までは。
ところが、母が「ステレオが欲しいのです。息子がテクニクスというのがいいと言うのですが、どれですか。」と聞くと店員は
「ああ、テクニクスはいけません。あれはナショナル。家電メーカーが副業でやっているようなものです。専業メーカーのものになさい。中学生ならこのくらいでしょう。」
とONKYOのシステムコンポを指差すのだった。
それはその店で扱っているテクニクスのシステムコンポのどれよりも安価で、それなのにラックはガラス扉付きで豪勢だったし、スピーカーのサイズが一回り大きかった。
価格が思っていたより手頃で、しかも理由が一見まっとうで、あまりに店員が自信たっぷりに言うものだから、もう即断に近いカタチで、そのONKYOは僕のものになったのだった。
長いこと憧れていたテクニクスは手に入らなかったが、そのセットが僕の部屋に来たちょうどその日にNHK-FMで甲斐バンドの武道館ライブが放送された。これをその真新しい機械を使ってエアチェックした。
甲斐バンドは小学生の時に大ヒットした「HERO、ヒーローになる時それは今」を聴いて、それまで好きだった西城秀樹や松山千春なんかとはずいぶん違う音楽で、これがロックだと思っていたBay City Rollersともちょっと違うカッコよさをもった音楽だなと思っていた。
放送がはじまると、大きなスピーカーから松藤英男が叩くシンプルなエイトビートが、それまで行ったことのないコンサート会場の残響を引き連れて僕の小さな部屋に鳴り響いた。
それに合わせてこちらの鼓動までドクドクいいはじめた。
大森信和の弾く伸びやかに歪んだレスポール・カスタムのリフが高らかに曲のテーマを提示し、甲斐よしひろがあの嗄れ声で「あなたに抱かれるのも今夜かぎりね」と歌い始めた。
名曲「きんぽうげ」に僕はすっかりやられてしまった。
タイミングの良いことに数週間後には、柳ジョージ&レイニーウッドのライブがやはりNHK-FMで放送されたし、甲斐よしひろがDJをつとめるサウンド・ストリートというラジオ番組を見つけたりで、ヘッドフォンにかじりつくようにラジオを聴いた。
当時の釧路にはFM局がNHKしかなく、それを聴くしかなかったわけだが、もしかしたらそれが良かったのかもしれない。
なにしろずっとそればかり聴いているのだから、クラシックや洋楽なんかにも(不思議にジャズはまったく印象に残っていない)いい曲があるなあ、と思えたからだ。
特にNHKはクラシックの番組が多い。
ドヴォルザークの「新世界」とベートーヴェンの「田園」、そしてホルストの「惑星」は録音して繰り返し聴いた。今でもとても好きな曲だ。
そして部活の剣道部の時間以外は音楽のことばかり考えていた。で、一番そういうものに近そうな文化専門委員会というのに入って学校の仕事をするようになった。
その年の委員長は、同級生の兄貴で、やはり音楽の好きな人だった。
彼は放課後の音楽室を開放してレコードコンサートをやろうと企画した。
レコードはオレが持ってくるから、と言っていた。
そのレコードはLED ZEPPELINの1~4で、僕はその仕事の手伝いをしてはじめてZEPの音楽を聴いたのだった。
ざらついたギターの音。
どこまでも金属質の声。
とてつもなく重いビート。
それはなんというか、衝撃という言葉以外ではとても表現できないものだった。
時は流れて、中三の秋。
放課後教室でたむろしていた僕らに担任の先生が「おい、大変だぞ。ちょっと職員室に来い。」と声をかけてきた。
ついていくと夕刊の小さな記事を指さした。
「ロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーが死亡」と書いてあった。担任の先生はロックなんかを聴くような人ではない。
学校で起きていたムーブメントや生徒たちの関心事について深く理解していた人だったのだろう。
そんなこんなで、僕にとってLED ZEPPELINの音楽は中学時代を過ごしたあの校舎の空気の感じと深く結びついているのである。
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