大学生の時、レイコードーというレンタルレコード店でアルバイトをしていた。
店長さんと僕と少し年上のギタリストの三人だけのお店。
だからとてもアットホームで、店長さんはとても優しい人でお店にかける音楽とかは僕達におまかせだった。
お気に入りのアーティストの新譜が入ると、僕らは店内にそれを流して、ついでに自分のテープに録音したりしてたけど店長さんは何も言わなかった。
そのうち、朝、開店するために鍵を預けられるようになった僕は少し早めに出勤して、開店前の店内で好きなレコードを聴いていた。
だから、この時期新しいレコードを聴くのに不自由はしなかったけど、録音するためにテープをたくさん買って(もちろんレイコードーで)いたから、バイト代はほとんど残らなかったな。
そういうわけで、この時期お気に入りになった音楽は自分で録音したカセットテープで持っていた。
テープはやがて劣化していくし、録音メディアもデジタルに移行していく。
もううちにもカセットデッキはなかったりする。
CD化されたものは、それを買えばいいのかもしれないが、アルバイトでずっとレコードを聴いていた僕にはその当時の音楽をCDで聴くのはちょっと違う気がして、数年前から中古レコード店やオークション・サイトなどで探して少しづつ買い揃えたりしている。
そんなレコードの中で今でも、よくターンテーブルに載せるものがある。
そんな一枚が、このセンチメンタル・シティ・ロマンスの「夏の日の想い出 SUMMER DAYS」だ。
とにかく歌詞がいい。まるで自分自身が書いた歌を聴いているような気分になる。それも若い頃の自分のだ。もちろんこんな完成度の高い楽曲を書けるはずはないのだが。
こちらも今でも本当によく聴く一枚。安部恭弘の「MODERATO」。
ジャケットがいいよなあ。B-2の「トパーズ色の月」を聴くといつだって胸が詰まるように苦しくなるのは何故なんだ。
心理学者でも精神科医でもいいから誰か教えて欲しい。
それにしても何故CDの音に違和感を感じるのだろうか。
僕がレイコードーに入った頃、店ではまだCDのレンタルは扱っていなかった。
最初にCDがお店に入ってきた時、あの小さなジャケットやプラスティックのケース、規格化された「背」のデザインなどを見て、こんなものを買う人がいるのだろうか、と思った。
一緒に入ってきたCDプレーヤーをお店のシステムに繋いで音を出してみると、これまた何だか鼻をつまんで聴いているような抜けの悪い音で、レコードのように掃除をしなくていいのと、頭出しやスキップが出来たりするのは確かに便利だとは思ったが、やっぱりこれは欲しくない、と思った。
しかし、予想に反してCDはあっという間に市場からヴィニール盤を駆逐していった。かつてヴィニール盤がSP盤を駆逐していったように。
ところがCDへの市場の移行後もLPレコード・ユーザーはしぶとく手持ちのレコードを聴き続けたし、逆に中古市場に放出されたレコードたちを救出しては、自らのコレクションを充実させていった。
確かにしばらくレコードでの新譜は出ない時期があったものの、現在でも音質を重視するアーティストたちが新譜でレコードを出し続けている。
かくいう自分は、それほど熱心なレコード・リスナーではなかった。
それまでのコレクションを売りはしなかったが、レコードで新譜が出なくなった頃、TEACのプレーヤーを質屋のガラスケースに見つけてCDリスナー・デビューをした。
CDの音は徐々に良くなって、今や空前のリマスターブーム。
僕も音質的に劣った盤をずいぶん買い直した。
けっこういいところまでレコードの音に近づいてきたんじゃないかとも思う。
PCでリッピングしてiPodで聴いたり、車用のCDを編集したりなんてことも出来て、本当はもうレコードなんていらないのかもしれない。
でも何故なんだろう。
新譜で買った高音質のクラシックやジャズのレコードをかける時は湿式のクリーニング・ウォーターとワイピング・ペーパーを使うのに、懐かしいレコードをかける時には、レコードに悪いとわかっていながらもNagaokaのレコードスプレーをシューっとかけてベルベットのクリーナーでひと拭き。
スプレーの匂いの残ったレコードをターンテーブルにセットして針を落とすと、あの若かった頃の僕を取り巻いていた空気ごと再生してくれる。
そしてそれは、どんなにリマスターしても決してCDからは聴こえてこない音なのだ。
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