と、なるとそのオリジナルのピアノ版だって一度は聴いてみたくなるではないか。
特に入手しにくい音源というほどのものでもないのだが、なんとなくどれを選ぶという決め手がないまま聴かずにきたのだが、 アリス=紗良・オットの新譜がピアノ版の展覧会の絵だという。さらにシューベルトのピアノ・ソナタ17番D850も併録というではないか!
クラシック初心者の僕にいろいろと教えてくれる友人に、シューベルトは歌曲王と呼ばれているくらいだから歌曲を聴かなきゃと思って「冬の旅」を買ったと言ったらドイツ語もわからないのに歌曲を聴いてどうする。ピアノ・ソナタを聴け、なんでもいいから。と言われていろいろ調べて世評の高い内田光子さんの全集を買ったのだった。幻想曲なども含めかなりの曲数が入っているのだが、流して聴くと有名な楽興の時以外の曲はどれも同じに聴こえてしまう。とっかかりを掴むために、特に村上春樹の「海辺のカフカ」の第13章で車を運転しながら大島さんがカフカ少年に聴かせた曲である17番を聴きこんだ。
それはとても不思議な曲だった。大島さんは「不完全な曲」だと言った。またシューマンが「天国的に冗長」だと評しているとも説明している。(シューマンが本当にそう言ったかは確認していません)
僕はその曲は図形的なアイディアで構成された曲だな、と捉えた。それは美しさに主眼を置かずに、転んでいくようなリズムを、違う形のリズムが受け止めるカタチで展開していく楽譜の形が頭に浮かんだ。
ベートーヴェンが、小さな音形を組み合わせたり、並べたり、次々と変奏していったりして長大な楽曲を作っていったのとはちょっとだけ違うアプローチ。あくまでも崩れ転んでいくリズムを異なるリズムで受け止めるというアイディアを繰り返し繰り返し手を変え品を変え繰り出していくという構成。冗長という評価も厳しすぎるとは言えない。しかしクレバーな内田さんの演奏は、その図形的なアイディアを見事に音に定着させていて、僕はまったく飽きなかった。
違う人が弾いたらどうなるんだろう、というのはいつか確かめてみたかったテーマだったので、今回のアリスの新譜はうってつけだったのだ。
そのアリスの弾く「展覧会の絵」は、オーケストラ版を聞き慣れた耳にも十分な迫力を持って迫ってくる快演だった。一人で弾いている分だけ表現に自由さがあり、冒頭の四七抜き音階の素朴なフレーズから、最終キエフの大門のクライマックスに登場する現代的で不安定なペダルトーンの複雑なコード進行までを最適な表現で駆け抜けてくれた。
ライブ収録の本盤の最後の盛大な拍手がこの演奏の素晴らしさをなにより雄弁に証明している。
しかし続いてのシューベルトのピアノ・ソナタ17番は、始まった瞬間から転んだリズムが受け止められることなく、ピアノの技巧として吸収されてしまう。アリスの指は高速で動き、複雑に設計されたシューベルトの「図形」を無視して感情的に弾き切ってしまう。うまいのだと思う。でもそれゆえに、この楽曲の持っている天国的な冗長さから、どうしても欠いてはならない正確さを切り取ってしまうのだ。
このアリスの演奏は、内田光子さんの演奏がいかに非凡で貴重なものであるかを、あらためて教えてくれたのである。
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