2014年10月22日水曜日

オマルー導きの惑星ー:ロラン・ジュヌフォール

時々、無性にSFが恋しくなる時期がある。
なぜかはわからない。

で、そういうときほど探しても探しても読みたいSFが見つからない。
なんでなん?

今回は気になりながらもスルーしていた「オマルー導きの惑星ー」を手にとった。

オマル-導きの惑星- (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
ロラン ジュヌフォール
早川書房
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なぜスルーしていたかというと、帯に書いてある「ハイペリオンを凌ぐ」という言葉。
そんなわけないでしょ?

ところがどっこい。
似てないこともないけれど、凌ぐかどうかなんかはちっとも気にならないくらい、まったく別の面白さをもった作品でした。
理屈抜きに面白い。
人物に惹かれる。
現実社会でも人は自分の生い立ちを語る時、一番イキイキと話すものだが、そのドライブ感を見事に文学に取り込んでいる。
ページ・ターナーですね。うまいです。

そして最後の最後に明かされるあっと驚く未来史。
それが明かされる前に書き連ねられた、この不思議な星オマルで起きている民族間の問題に僕らは現代の地球で起きてきた、そして今でも起きている問題のいくつかを重ねて見ていたはずだ。

その共感が最後の最後に見事にぐるんとひっくり返される。
そして我々の視界の外側にあったものが、圧倒的な勢いで心に迫ってきたところで物語は終了する。
うまいなあ。
読了したとたん続編買いましたわ。

オマル2 ー征服者たちー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
ロラン・ジュヌフォール
早川書房
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四月は君の嘘(10)/新川直司

アニメのスタートが待ち遠しい「四月は君の嘘」の最新10巻が刊行された。


一つ目の見どころは相座武士の大復活。
曲はショパンのエチュードop10-12
練習曲作品10の第12番という意味。
作品10はカリスマステージピアニストから作曲家へ華麗な転身を遂げたフランツ・リストに敬意を表して捧げられたものだそうだ。

第12番は、「革命」というタイトルで知られるピアノ独奏の小品で、この革命というタイトルはフランツ・リストが命名したと言われている。
ポーランド革命の失敗で故郷ワルシャワが陥落したことを演奏旅行先で知ったショパンの動揺と失意を表現した曲、ということだろうと思う。

この曲はいい曲だと思う。
世の中にはショパンが大好きという人は多いので、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、ショパンの曲の多くは僕にとって、美しいが「どうでもいい」と思わせる。
それでもフレデリック・ショパンには、いくつか非常に印象的な曲がある。
二つのピアノ協奏曲はどちらも大傑作だと思うし、晩年の幻想即興曲やノクターンの20番などは、深く胸に染み入ってくる本物の傑作と思う。
この「革命」もその傑作の一角に入る楽曲と言えるだろう。

ゆっくりと自分を蝕み続ける肺結核、故郷を失うという喪失感、多くの愛人たちとの複雑な関係。
このショパンの懊悩を相座武士は正面から受け止めて掘り下げていく。
ライバルたちが、作曲者の描いたキャンバスを自分の色で自由に染めなおしていくのに憧れや焦燥を感じながらも、あくまでも楽曲そのものが持つ精神を深く、どこまでも深く彫り直していく。
漫画から音は出てこないが、涙が出てきた。

実際には誰の演奏で聴けばいいだろう。
すぐに思いつくのは、有馬公生タイプのショパン解釈をするブーニンと、今回の相座武士のような正統解釈タイプのルイサダの対比だ。
ショパン国際ピアノコンクールで、ワルツop34-3を高速演奏するという不意打ちで優勝をさらったブーニンと、正統派の演奏で評価が高かった分、割りを食って5位に甘んじたルイサダ。
息の長い着実な演奏活動を今も続けていると聞くルイサダの方を入手してみようと思う。

革命のエチュード~プレイズ・ショパン
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この巻にはもうひとつの見どころがある。
それはやっと動き出した「幼なじみの恋」

幼なじみという言葉につきまとうこの切ない感じって何なんだろう。

ドラゴンクエストVは僕にとっての永遠のベスト1ゲームだが、それは中盤にある「結婚イベント」のせいだ。
幼いころ一緒に冒険をした幼なじみのビアンカと、この先の旅を続けていくために必要な船の持ち主のお嬢様フローラのどちらかを結婚相手に選ばなくてはならないのだ。
僕は何度もこのゲームをやっていて、今度こそフローラを選ぶぞと思って始めるのだが、いつもその場になるとビアンカを選んでしまう。

きっと小学校の頃近所に住んでいた幼なじみのハルカちゃんのせいなんだと思う。

近所に住んでいて、同い年で、親同士が仲がいいのに一向に一緒に遊ばない僕たちに、ある日、これ一緒に行っておいでと渡された「青少年科学館」のチケット。
僕は科学館が大好きだったので見事に釣られて、彼女と二人で出かけることにした。

田舎の狭い道幅の両端に別れて歩いて科学館に向かった。
それでも科学館はやっぱり楽しくて、二人でいろんなプログラムを見ているうちにすっかり意気投合して、帰り道でも夢中で話しながら歩いていた。
家の前で待っていた二人の母親の嬉しそうな顔を見て、我に返って、そして急に恥ずかしくなった。
それ以来偶然会っても、なにか殊更によそよそしく接している自分がいた。
そしてそんな自分がとても嫌だった。

幼なじみという言葉を聞くと、今でもなにか心に小さな刺をさされたような気持ちになる。
だから僕は椿の恋を応援したい。
椿の言った「あんたは、わたしと恋に落ちるべきなのよ」という言葉は無条件に正しいと思う。

しかしそうなるべきようには人生が動いていかないのもまた真理なんである。
あまりにリアルでいたたまれないぞ、この漫画。

2014年10月21日火曜日

さよならフットボール/新川直司

新川直司先生の「四月は君の嘘」が面白い。
アニメ版の放送も間近にせまり、最新刊10巻の発売に併せて、新川直司先生の前作「さよならフットボール」も新装にて復刻となった。
めでたい。
全二巻というコンパクトなサイズを疾走する物語が心地よい、再評価されるべき作品と思う。



天才的なボールさばきを見せる女子中学生、恩田希。
彼女は女子サッカーチームの無い環境で、男子に混じって練習している。

しかし、成長していくにつれ体格差は歴然となる。
幼いころのチームメイトにフィジカルに劣る女の子が男に勝てるはずがない、という一言に反発し、一計を案じて試合にもぐりこんで・・というお話。

一見よくある話だ。
力の劣る側が威張り腐った強者に、頭脳プレーで一矢報いるというのがこの類型の常道で、この物語もその展開を踏襲しているが、胸に残るのは一矢報いたことの爽快さではなかった。

「フィジカルはフットボールのすべてではない」
彼女の信念は試合の中で徐々に崩れていく。
当たり負けをテクニックでカバーできない。
今まで女の子の自分に周りのみんなが<手加減>していたことに気付く。

ボロボロになって倒れてしまった彼女を、チームメイトやライバルまでもが心配そうに見つめているのに気付いた時、やっと、自分が一番<フィジカル>にとらわれていたことを知るのだ。
恩田希自身がそれを認め、すべてを自分のこととして受け止めた時、チームはひとつとなりボールは躍動を始めた。

人間というのはなんて優しい生き物か。
心の一番奥では、敵も味方も、男も女もないのだ。
そして、なんと複雑な矛盾を抱えた生き物であることか。
死力を尽くした闘った果てにこそ、理解があるとは。

闘い終わった後に、人は闘っていた相手が実は自分であったと知る。
<理解>はいつも自分に返ってくる。

作者のその人間への優しい視線が、この物語を凡百のジャイアントキリング・ストーリーとは一線を画すものにしている。
僕はそう思う。

2014年10月19日日曜日

増田寛也編著「地方消滅〜東京一極集中が招く人口急減」

友人に勧められて、中公新書「地方消滅」という地方に住む者にとって穏やかでないタイトルの本を読んでみた。友人が勧めてくれたのは、第5章をまるまる割いて北海道の地域戦略を取り上げているからだった。
この章は「北海道総合研究調査会」理事長の五十嵐氏によって書かれている。地元の事情をよく反映した丁寧な論説と思う。

地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)
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僕は生まれこそ帯広だが、幼少期から高校卒業までを釧路で過ごし、人に出身地を訊かれれば釧路と答える。
長く住んだのは、太平洋炭鉱の鉱夫たちが住む街で小学校の同級生の多くが炭鉱の子だった。昭和40年代の終わりから50年代にかけて炭鉱はすでに撤退戦の最中で、すでに人の住まなくなった家が廃墟化していて僕ら子どもたちの格好の遊び場になっていた。

小学校を卒業する頃、領海法の改正と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、それまで北方の漁業基地として栄えたもうひとつの産業が僕らの街から失われた。「ニヒャッカイリ」という言葉の響きは釧路の人間にとっては、為す術もなく見守るしかない自然の暴威によく似た感慨をもたらすものだ。

遠洋漁業は実入りの良い商売で、長い航海から帰ってきて大金を稼いだ漁師さんたちが短い陸(おか)での時間でこれを景気良く使っていく。釧路の街全体がそのカネで潤っていた。
これに替わる産業を新たに作っていくのは容易なことではない。
先日20年ぶりに訪れた街には百貨店もなく、駅前通りは閑散としていた。

北海道に住んでいて、経済に関心のある人なら十勝の農業が成功しているのは誰でも知っているだろう。単位面積当たりの収益性が高い大規模農業で、高い収益を得ている農家が多い。
あの頃の釧路と同じ。
TPPのような第二の「ニヒャッカイリ」になりそうなものを警戒する気持ちがよくわかる。
グローバリズムが地方を壊す典型を、政治はいつまでたっても学ばない。
「こうすれば避けられる」という一枚の処方箋など、それが個々の生業の集合体である故に、街に効くクスリにはなりえないのだ。

官僚から知事に転じ、総務大臣まで務めた著者が処方箋としてしめす中核地方都市の「ダム機能」も、文字通りの「絵に描いた餅」になってしまっている。
日本創生会議が調べたデータが要領よくまとまっている本書を買う価値は充分あると思うので、彼らに投じられた我々の税金を少しでも取り返すためにも、「ダム機能」の詳細はぜひ本書にあたっていただきたいと思うが、そりゃそうできたらいいよね、というだけの結論は、結局のところそれに人生そのものをかける我々の「生」をあまりにも軽視している。
そしてその軽視の視線を隠すために、それを行政の責任に見えるように書いている。

すべての事業が家業であったギリシャ時代からはるか時を経て僕らはいつか、誰もが誰かに雇われている「無責任時代」を生み出した。
そんな僕らはいつも責任をどこに押し付けるかを探している。
その格好の相手である行政は、しかし僕らの人生に何かの保証を与えてくれるものではない。
ましてや選挙の度に変わってしまう政治になど。
それはあくまでも個々の中に還流して次の一歩へのエネルギーに変換されるべきものだ。

本書でも、ダム機能をもたらす方策のひとつに「学校」を挙げている。
地方を出る大きな契機が進学であることは間違いないし、その先の就職の支援も学校が担っている以上、地方を出た人が卒業後に戻らず、その近隣地で新しいかまどを持つことはある程度まで避けられないことだ。
では、地方に魅力的な学校を作ればいい、というのは果たして処方箋になりえるか。
魅力的な制度を作れば学校が魅力的になると思っているような人には、長い年月愛される学校を作ることは絶対にできない。そんなことが「必要だから」という理由だけでできたら誰も苦労しないんだよ。
医療も同じ。

現代マーケティングの巨人フィリップ・コトラーは、簡潔で多くの業種に有用なマーケティング理論を発表したが、教育と医療にだけは「利益」をモチベーションの中心に「持ってはいけない」ためにそれまでのマーケティングは有用でないとして「非営利組織のマーケティング理論」という名著を発表している。

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コトラーが、これら非営利組織のモチベーションに置くものとして挙げたのが「ビジョン」
誰か頭のいい人がカッコイイ言葉でまとめたこの国の行方のようなものではなく、個々の心にある情熱が作り出すそれぞれのビジョンこそが、人を育てたり、助けたりするために必要なものだというコトラーの言には、疑いを寄せつけないリアリティがある。

だとすれば、地方再生の第一歩はもちろんその地方が住民に愛されている、という一点に尽きる。幸い各地で、若者を中心にしたまちおこしのプロジェクトが立ち上がっている。希望はそこにこそある。

「少子化」などというこれまた個々の「生」を軽々しく総括した言葉をスタート地点においた議論はそろそろ無効になりつつあると思う。
結局女性にたくさん子どもを産んでもらうには、という無神経な話題をしたり顔で言葉をぼかしながら話し合っている様子が僕には下品に見えて仕方ないんだ。

少子化はつまるところ、ドラッカーがとうの昔に予見していた「テクノロジスト」と「パートタイムワーカー」に二極化した労働環境が実際に到来し、そうなると子どもの教育は当然高度化した職業に対応させる方向に向かうわけで、一人あたりの教育のコストは上がり、収入が右肩上がりの時代は良かったが、永遠の栄華はない故に持てる子どもの数は自然と限られてくる、という状況を説明する言葉にすぎない。
そのような状況を生まれた時から見ている子どもたちは、自分でもたくさんの子どもを持つ生活をイメージできないだろう。

それに<社会>は、人口減がもたらした社会福祉制度の歪みや税収の減少に苦しんでいるかもしれないが、<世界>はあまりにも増えすぎた人口のためにより致命的な歪みを抱えてしまっているのではないか。
僕らの生活を支えるために、大きなエネルギーが必要とされ、時には戦争の理由になり、時には僕らに恐ろしい副作用をもたらしている。
太陽が育ててくれる食糧では人間の命を支え、食欲を満たすに足りず、コムギは遺伝子を操作されて自分では子孫を作れない体にされて不自然な収量を僕らに提供してくれている。
今まで人間の手の及ばなかった場所にあるものを<資源>に換えて、次々に消費対象にしていく僕らの未来に何が待っているのか。

社会の高度化がもたらした「少子化」は社会自身が発動した自浄作用と考え、人口が減少した社会をどのように運営していくかを、対症療法としてではなく、「社会の豊かさとは何か」と読み替えて考える時期ではないか。
担い手となる若い才能はもう地方に現れている。
同様に別の若い才能は、もう軽々と国境を超えてグローバルスタイルのビジネスを展開している。彼らの活躍は政治的グローバリズムと違って、ローカルの生業を壊しはしない。
それはどちらも情熱に基づいた生業以上のものではないからだ。
ローカルとグローバルの境目がなくなりつつあるこの時代に一番邪魔な枠組みがもしかしたら絵に描いた餅しか生み出せない「国家」という仕組みなのかも知れない。

2014年10月12日日曜日

映画「オーケストラ!」の超高速チャイコフスキーが聴きたい!

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ほど楽曲の解釈で印象が変わってしまう曲もないだろう。

所有しているのはカラヤン=ムターのグラモフォン盤。
端正なリズムを持つ、ドイツ的な演奏の一枚と思う。
ハーモニーは極めて整った形で提供され、全体を優雅さが貫いている。
その分、ヴァイオリニストのスポンテニアスなフレージングとの落差が曲への没頭を阻害する一面がある。

ムターは緩急のある演奏で、ウィーン・フィルの音の清流の中を泳ごうとするが、水の重みにあがいているように聴こえてしまう。

ところが、映画「オーケストラ!」で聴いたチャイコフスキーの闊達で饒舌な語り口はどうだ。

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ストーリーの展開上そうなっているのだが、オーケストラはヴァイオリンに導かれて協奏曲に導入されていく。
あくまでもヴァイオリンが提示したメロディにオーケストラが追随していく演奏が一楽章全体に貫かれている。
後半、ヴァイオリンとオーケストラが同じフレーズで呼応しあうところがあるが、まったく同じ質感で奏でられている。
カラヤン=ムターの盤では、ムターが突っ込んで弾いたフレーズをカラヤンが鷹揚に受け入れるという図式になっていて、聴いている方が冷静になってしまう。

映画のチャイコフスキーは、後半に向けてぐんぐんスピードが上がっていき、最後の和音が奏でられたとき、それが映画とわかっていても立ち上がって拍手をしたくなる。

しかしそれだって、ヴァイオリニストを演じたメラニー・ロランの美しさのせいでないと、はっきりとは言い切れる人はいないだろう。




この映画のために、フランス国立オーケストラのサラ・ネムタネを招いて二ヶ月間の特訓をしたそうだ。
その美貌と、役作りへの情熱があの奇跡のラストシーンを作り出したことは間違いないと思う。

オペラは、映像付きのDVDで観るべきか、音楽だけで楽しむべきかという議論があり、楽劇の歌手は俳優ではなく、あくまでも歌の出来でキャストされるものだし、ましてや役作りのためにダイエットをしたりしないわけだから、音だけ聴いても充分楽しめるものでなくてはならない、というのが大方の見方である。
しかし、このような優れた音楽映画を観ると、楽曲理解の入り口として映像の説得力は大きな味方になりえると感じる。

こうなると、躍動感のあるチャイコフスキーを探してみたくなる。
現代の指揮者は昔のマエストロと呼ばれる人に較べると一般にテンポが速い。
これを指して、クラシック音楽を古くから愛好する人たちの間で、最近はいい指揮者がいないという言説が流行することになるわけだが、これはクラシックに限ったことではない。
ポップミュージックにおいてもここ10年位でBPM(Beats Per Minute)は平均的に10くらい上がっていて、音楽全体の高速化が始まっているようだ。
せわしない時代ということだろうか。

クラシック指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィという指揮者が「表情豊か」という前評判を裏切る高速ベートーヴェンを近年録音している。
2015年からN響の首席指揮者に就任する予定とのことで、もしかしたら演奏に触れる機会もあるかもしれない。

2014年10月9日木曜日

アナログレコードが売れているんだそうで

イギリスERA (エンターテインメント小売業協会)が発表したデータによれば、今年1月〜9月末に購入されたアナログレコードは、844,122枚なんだそうで。これは2013年一年間に購入された829,243枚をすでに15,000枚近く上回った数字。

2014年のアナログレコード売上予測は、100万枚を超えると見込まれている。

世界的に見てもアメリカとイギリスのアナログレコード市場は活性化していて、アメリカの市場規模は1ー7月期が前年比40.4%も成長しているそうだ。

CDからダウンロードそしてストリーミングへ音楽の聴き方が変わりつつ中に、アナログレコードという選択肢が割り込んで復活してきた。
興味深い現象だと思いませんか。


基本的に人間にとってもっとも平等なものは「時間」
みんな同じ時間しか持っていない。

だからそれがなんであっても商材を売ろうという人は、その人の24時間に、他の商品を押しのけて入りこまなきゃいけない。
若い奴が本を読まなくなったと騒いでいた頃、台頭していたのがゲームだった。
NIntendoさんやら、NECさんやら、あとからSONYさんまでもが出てきて、人々から本を読む時間を奪うために躍起になっていた。
その時に、少なからず音楽を聴くための時間も奪われてたはずだ。

音楽商材の大規模サプライヤーだったSONYなんかは、自分の貴重な顧客資産を新しい事業にせっせと「振り替えていた」だけと、まあこういうことになるのかもしれない。


これに加えて、ライフスタイルの変化ってのもある。
そもそも近代化ってのは、人間の「個」化なのである。

大昔人はあんまり一人でいる時間はなかった。
貧しい人たちはもちろん大部屋しかない家に大家族で住んでいたし、王様だって、いくらお城が広くても、だいたいいつもそばにお付の者が控えているし、日本のお殿様もお風呂では人に体を洗わせていたと子供の頃聞いたことがある。
NHKのドキュメンタリーで、イギリス王家では、初夜の時に父王がそばで見守っていたと言っていた。

その後、近代市民革命や産業革命のお陰で、「個室」の文化が生まれてきた。
僕なんかの小さい時だってまだテレビは居間にでーんとあって、みんなでひとつの番組を観ていた。
チャンネル権は父性の象徴で、4年に一度のオリンピックの時に、ずっと観てきたバロム・1のよりによって最終回を観られなかった悔しさは今でも忘れられない。

中学生の時、自分の部屋にステレオが来た。ありがたいことに。
でももう少し前の世代では、ステレオが居間にでーんとあったんですよね。
そして、今はテレビが個室にあることが珍しく無い時代になった。


こうやってだんだん、いろんなものが「個室」のなかに分散していったわけですね。
装置が分散すれば「娯楽」そのものも分散する。

このことをさっきの24時間を取り合うという構図の中に当て嵌めてみると、たとえば、4人家族だったら、取り合うべき時間はそれぞれが個室に別れた分、4倍に増えて96時間になる。
しかしそのためにかけられる家計のコストは変わらない。
つまりひとつひとつの娯楽にかけられるコストは人数分の一になってしまう。
世の中そのものが豊かになっていった時代だったので、そのことに気付けなかったが、成長の時代が終わった今、そのことはエンタテインメント産業に深刻な影を落とし始めている。

音楽のディジタル化は、エンタテインメントの低コスト化の福音だった。
データ化されて、飛躍的に扱いやすくなった音楽という商材は、録音する、からコピーするに変わった。
最初のうちはレンタルしてきてMDにコピー。
そのうち一家に一台パーソナル・コンピュータ(ここにも個化が!)になって、iPodが出てきて、ファイル交換ソフトが出てきて、もうこれあっという間に、音楽に金かけてる奴は、頭悪いやつってことになっちゃったわけですね。
で、Youtubeがそれにトドメを刺した格好です。
そりゃ、売れん。
売れるわけがない。

この元凶を作ったのが、CD規格、通称RED BOOKを作ったオランダのフィリップスと我らが愛すべきSONYという構造。
だからこれはまあ半分くらい自業自得なんであって、なんにも大騒ぎすることはないんですな。
去年でしたか、ソニー・ミュージックに就職面接に来たやつが、音楽は好きですがCDは買ったことありませんと答えたとやらで騒ぎになりましたが、まあ真偽のほどは措くとしてそういう時代なわけです。

しかし音楽にお金をかけなくて済むのならかけない人、というのは音楽を趣味にしている人とは言えない。
だから、音楽というものが一般消費財になったこの時代の中で、音楽出版のディジタル化が招いたこの事態っていうのは、本当に音楽を趣味にしている人を可視化したとも言えるわけです。
無料で、かつカタチのないものに愛情を注ぐ、というのは難しいですからね。

そういう意味で、音が云々という次元を超えて、ようやく愛情の矛先を向ける先として、そうだアナログレコードがあったじゃないか、という認識がやっと広まってきたということではないかと思うんですね。

大きなジャケット。
音盤そのものがくるくる回っているのを眺めながら聴くというスタイル。
慎重に針を落としてスタートするという儀式性。

非常に趣味性が高いですよね。

日本のメジャーアーティストも新譜をアナログ併売するケースが明らかに増えてきました。
アナログファンには、楽しみな時代ですね。

2014年10月8日水曜日

ジャズ・レジェンドへのオマージュに溢れた快作:アントニオ・サンチェス「スリー・タイムス・スリー」

ジャズに関して言えば、毎月のように過去の名盤が1000円ほどで復刻発売され、熱心なジャズリスナーでなければ、評価の定まった名盤だけ聴いていれば良く、新作のジャズを聴く必要はほぼ全面的にないと言える。

それでも例えば、上原ひろみのように無条件に人を惹きつける魅力のあるアーティストが現れたり、キース・ジャレットのような生けるジャス・レジェンドが新作を出したりすれば、CDなどの音源が売れる。しかしその市場はあまりにも小さく、現役で活躍するジャズ・ミュージシャンたちが世に出てくる道はあまりにも狭い。

だからこそ、音楽出版社は良い音楽を世に問う責任があると思うが、もしブラッド・メルドーが参加していなければこの凄い盤だってきっと見逃していただろう。
アントニオ・サンチェスの「スリー・タイムス・スリー」


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面白い趣向の盤だ。
説明不要のピアノレジェンド、ブラッド・メルドーと3曲、もはや伝説のギタリストと言っていいでしょうジョン・スコフィールドと3曲、テナー界のエリック・ドルフィーと言ってしまいたいラヴァーノ・パティトゥッチと3曲という豪華共演企画。


で、それぞれのユニットで一曲づつカバーを試みているのですが、これが洒落てる。
まずメルドーとやったのが、エヴァンスの「ナルディス」
普通に考えればこれはやっちゃいけない曲ですよ。


もとはキャノンボール・アダレイのためにマイルス・デイヴィスが書いた曲で、そのレコーディング・セッションで一緒だったエヴァンスが気に入って生涯弾き続けた曲。

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録音する度に長くなり、アドリブ部では最後のあたりちょっと軽い狂気みたいなものを感じるまでにエヴァンスの存在と一体化していった曲。
この曲からはエヴァンスの肉体を分離することはできない。
誰が弾いてもテーマをなぞるだけ、になるはずだった。

事実、エディ・ヒギンズが、 日本のファンに「エディ・ヒギンズに弾いて欲しい曲」を投票してもらってスタンダード・アルバムを作ろうっていう企画をやった時、あろうことかかなり上位に「ナルディス」が入っちゃって、ジャズ評論家が、これはさすがに日本のジャズファンの見識を疑うと、ライナーノーツで異例の疑義を表明したという逸話があるくらいだ。

しかし、さすがはメルドー。
あの印象的なテーマさえ、メルドーの作品としか思えぬ仕上がりになっていた。
山下達郎がよく言っている、「他人の歌が歌えない人は歌手とはいえない」という言葉を思い出すが、それにしても相手が「ナルディス」となれば並大抵のことではない。
お見事です。


次のジョン・スコフィールドへのお題は「フォール」
マイルス・デイヴィスの「ネフェルティティ」に収録されている。ジョニ・ミッチェルが無人島に行くとき持っていく一枚に指定している名盤だが、この曲はウェイン・ショーターの作曲で、マイルスは実は演奏にも参加していない。しかしどこから聴いてもマイルスの曲にしか聴こえないという、ある意味マイルス・デイヴィスのミュージシャンシップが肉体性を乗り越えていることの証明でもある曲なのだ。

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このマイルスの肉体性を凌駕したミュージシャンシップを、マイルスと長年プレイしたジョンスコに再現してみせよ、とのアントニオ・サンチェスの挑戦状と僕はみた。
あえて北海道弁でいうが、これはゆるくないよ(大変だよ)。

で、ここをいつものウネウネギターで、ひょうひょうとフュージョン風に切り抜けちゃうのがジョンスコなんですな。
むしろ、ショーターへのリスペクトあふれるエールに仕上げてる。こういうふうにやりたかったんじゃないの?ってね。


さて、最後のパティトゥッチには、セロニアス・モンクの「アイ・ミーン・ユー」が委ねられた。
「5 by Monk by 5」というシンメトリーなタイトルのアルバムに収録されている。

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村上春樹が若い時に、新宿のレコード屋さんで、レッド・ガーランドのレコードを買おうとしたら「そんなもの若いうちから聴いてどうする。これを聴け」と言って買わされた、というエピソードが有名な一枚だ。

このアルバムのタイトルも「スリー・タイムス・スリー」でシンメトリーになっているので、そこに由来する選曲だろうと思うが、僕は、アントニオ・サンチェスが、幻に終わったエリック・ドルフィーとセロニアス・モンクのセッションを再現しようと目論んだのではないかと睨んでいる。
生前、モンクとの共演を強く望み、「モンクほどのミュージシャンと演奏するなら、もっと練習しなくちゃ」と言っていたというドルフィーだが、叶わぬままベルリンで客死した。

その無念を晴らすかのような豪快なドルフィー・マナーのフリージャズなブロウ!しかしパティトゥッチは、そこに繊細で美しいメロディを接続して楽曲を単なるフリージャズ以上のものに仕立てている。
まるで、ジャズを新しいステージに推し進めた二人の巨匠に、僕らもジャズの進化の歩みを止めてはいませんよ、と宣言しているかのようだ。


見事な企画盤である。
アントニオ・サンチェスのジャズ愛がひしひしと感じられる。
ジャズは、その黄金時代の音楽資産の上に、大きな城を建てようとしているのかもしれない。
まだしばらくはジャズは死なない。
そう確信させるアルバムである。

2014年10月7日火曜日

マリオネットのリフの魔法と、ギターソロの本当の意味~亀田音楽専門学校を観て

たまたま新聞で見つけたNHK Eテレの「亀田音楽専門学校」という番組を録画して観た。
ベーシストでプロデューサーの亀田誠治さんが校長役で第一回のゲストが布袋寅泰さんがゲストだった。
 
テーマは「ギターが主役」ということで、BOΦWYの名曲「マリオネット」のイントロを紹介して、「これは何とサビのメロディを使ってるんですよ」と亀田氏が解説を始めたが、ご存知の方も多いだろうが、この曲はこのギターリフから作られたのであり、後でギターアレンジをしたわけではない。
おいおい、と思ったらやはり布袋氏も「いやこれはギターのリフから作ったんですよ」とここをフォロー。これでリフの「魔法」について話が展開するな、と思っていたが亀田校長、ここをまさかのスルー。


大学生の時だっただろうか。楽器屋で楽譜を覚えて家でマリオネットのリフをギターを弾いてみて、一聴した印象とずいぶん違ったのにびっくりしたのを覚えている。

最初の和音がG#mで、ミュートした8部音符で一度と三度だけを弾く。五度の入らないギターの和音は非常に不安定で不思議な響きになる。
そこがこのリフの第一の魔法。

そこからメロディアスにメロディが上下して最後にまた高音部での和声が入って締まる。
この最初と最後の和声が入ってはじめてこのリフ全体の印象が形作られるように設計された見事なリフだと思うんだよ。

だから頭で「ちゃららら〜ららら、らりらら」とメロディを再生してるとき、一緒にこの和声の響きが鳴ってるはずなんだ。それが「ギター」なんだよ!とテレビに毒づいても番組はそのまま進行していく。そりゃそうだ。



で、今度は間奏についての講義。
ここは実演解説なしで、間奏の役割を楽曲の「起承転結の承、または転」と定義した。布袋氏はここでも、ポピュラーミュージックがある程度予定調和になるの を避けられない中で、ギターでの間奏が「転」の要素を担って「曲のサイズを大きくする」役割を果たすべき、と素晴らしい知見を披露した。


これも大学時代、週一回行われるフォークソング研究会の大飲み会で先輩が、「歌ものの間奏ってのはさ、歌詞によって意味が確定されている歌の部分から、そ の意味を解き放って聴いている人の想像力を広げてあげる役割なんだよ」と語っていて、強く心に残っている。布袋氏の知見に優るとも劣らない至言だ。
改めて、いいサークルだったな、と思う。
番組ではこの布袋氏の素晴らしい発言もうまく取り込めず、はあなるほど的な展開で不完全燃焼。やり場のない想いを今この文章に託している。


今マリオネットのリフ弾いてみたら、まだ覚えてた。
先輩が教えてくれた間奏の役割論についても一生忘れることはないだろう。

2014年10月2日木曜日

1951年からの警告:「トリフィド時代」

「トリフィド時代」は、SF史上に残る名作のひとつで、ジョン・ウィンダムによって1951年に書かれた。
だから作品の背景には東西の冷戦が強くその影を落としている。

東西両陣営が秘密裡に用意した兵器が、想定外の事態で地球規模の災厄を起こす。
緑色の彗星のようなものが世界中の夜空に走り、それを見た者はすべて視神経を侵され盲目になってしまうのだ。
何らかの事情でその光を見なかった極少数の健常者が、世界の舵取りを委ねられる。

それだけではない。
これまた秘密裡に人工的に作られた、高品質の食用油が取れる植物「トリフィド」は、その圧倒的な繁殖性で安価な油が生産できるが、成長すると歩きまわり(!)動いていたり物音をたてるものを毒を持った鞭毛で襲うという異形の生物であった。
そしてこの災厄で世界中のトリフィドが成長を抑制する処置から逃れてしまい、盲目となった人間社会を襲う。

ウィンダムは、自らが設定したこの絶望的な世界の中で、様々な方法で世界を再建しようとする人間たちを描く。

あるリーダーは(登場するのは最後だが)、健常者(支配者)と目の見えないもの(被支配者)を適正な比率に配備し、役割や序列を徹底した、いわば封建領地のようなグループを束ねて、独裁国家を作る思想家だった。
まず軍備を固め、自らを臨時政府と名乗る。
マシンガンを片手に強制的に領地を拡げていく。
圧倒的に目の見えないものが多いこの世界で、このやり方は生産性が低いため、次々に缶詰などの保存食を確保していく必要があるから、略奪が基本的な戦略となり、必然的に領地の拡大が第一義となる。

別のリーダーは、世界の再建のために必要な物は、「知識」の再生であるという立場をとった。
作物を作る。機械類を作る。燃料を加工して作り出す。どんなことにも知識が必要で、本は残っていても実際に稼働させるには人の訓練が要る。
そしてこの生産力では、健常者のエネルギーはすべて緊急性の高い作物の生産に追われ、最低限必要な作物を永遠に作り続けることになり、いつか野蛮人の社会に堕してしまうだろう。
かつて、高い教育は、都市部でまだ生産に従事しない世代に施され、基本的に世界をまわしていく作物や燃料などの一次的な生産は田舎で賄われていた。(ここで田舎、という言葉が使われているのはこの作品がイギリスで生まれたことによるものである、という点に注意されたい。カントリーの持つ語感はイギリスでは貧しさではなく、豊穣さをイメージさせるものだ)

つまり知識の再生にはそのための「余暇」(=ギリシャ語で余暇をスコレーといい、これがスクールの語源である)を生み出す基礎になる労働力が必要だということになる。幸い、これから生まれてくる子どもたちには、失明の危機は訪れない。なるべく多くの子を産むことがこの社会を再建する鍵になると考えたこのリーダーは、キリスト教的な倫理観をいまこそ捨てて、自由恋愛を含む新しい道徳律の社会を作ろうと提唱する。

そこに反発してもう一人のリーダーが生まれる。
キリスト教の倫理観をあくまでも保持し、慈愛によって清貧に生きていくという考えに賛同する人たちが集まり、グループから分離する。

結果から言えば、このキリスト教による新世界の構築が最も早く頓挫する。
慈愛を何よりも優先する彼らは、原因不明の新しい疫病の患者を切り捨てられず、あっさりとコロニーごと滅んでしまうのだ。

軍事的な独裁国家もじりじりと小さくなっていき、新しい道徳律による社会はある程度の成功を収める。
新しい道徳律のグループが育て上げた労働力を背景に、今度は学校を作ることで、トリフィドとの戦争に立ち向かっていく決意を固めるところまでが描かれている。

ウィンダムが、このような極限状況を設定までして新しい世界の再建をイメージした背景には、現在もなお続く西欧社会の繁栄を支えたものが、結局のところ奴隷の労働力とその奴隷自身を商材とする三角貿易であった、ということへの罪悪感があったのではないだろうか。

ギリシャで高度な学問が発展したのは、奴隷が作ってくれた“暇”のおかげであった。
ローマ帝国の成功の一因は、戦争で戦うのはローマ市民で、その糧食は隷属する非支配国が税によって担うという分業構造が強い軍隊を長期間維持し続けたことにある。
大英帝国の繁栄も、産業革命だけでは成らず、奴隷三角貿易による莫大な原資があったればこそだった。

ウィンダムが物語の中でキリスト教を排除したことも、このことと関連していると思う。
博愛をうたうキリスト教が、黒人を奴隷として遇して良いとした根拠は、彼らは白人とは別の種だから、というものだった。黒人も白人も同じ人類であるという科学的根拠は進化論の中からしか生まれてこず、創世記と矛盾する進化論を彼らが認めるわけにはいかないということも、人種差別の撤廃への大きな障害のひとつとなった。
これは、過ちを過ちと認知する妨げが、この世界にはたくさんあるというウィンダムからの警告ではないか。

相変わらず、世界の何処かでいつも戦争は行われているし、領土紛争なら数えきれないくらいある。でも幸い二十世紀の大きな戦争もこの世界を滅亡には至らせなかったし、東西冷戦もなんとかやり過ごした。
本当に滅びてしまわなければ学べないとは思わない。

でも、少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、例えば戦争とか、経済恐慌といったような世界が何度も経験したようなものじゃなくて、もっと「わかりにくい」危なさが近づいている時代なんじゃないかな、と思うことがある。

それは例えば、勤め先の会社から情報を盗んで、どこかに売りつけるという悪質な犯罪が起きた時に、みんなで嬉々として盗まれた方の不備を責めているのを見た時や、自身の弱さから禁じられた薬物に頼ってしまった人が更生に立ち向かおうとする時に、犯罪者に金を渡すなと言って過去の業績から上がる収益までも絶とうとするのを見る時だ。
過ちは今も目の前にあり、しかしそれはなかなか見えない。

これからの社会を作っていく子どもたちに、ぜひ「トリフィド時代」を読んでほしいと思う。


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