村上春樹の短篇集「女のいない男たち」に収録の第三編「独立器官」のタイトルを見て、伊藤計劃の「虐殺器官」を思い出したのは僕だけではないだろうが、村上春樹が読むような小説ではない。偶然だろう。
しかし、器官の機能に奇妙な一致もあって興味深い。
さてこの物語は、一言でいえば「自分は何者であるか」という問いについての物語であるといえる。
渡会医師が、「自分は何者か」と考え始めるきっかけになったユダヤ人医師の本とはやはりフランクルの「夜と霧」だろうか。
内科医と精神科医のように細部は異なっているので、別に出典があるのかもしれないが、この著名なホロコースト生還者の手記は、渡会医師の衝撃を想像する手がかりになると思う。
著者のフランクルは、戦時下の強制収容所という極限状態の中で、自らも囚人でありながら冷静な学者の目で観察する。その目が、「人間」というものの姿を浮き彫りにしていく。
自分に対しての理解は、いつも他者の姿からやってくるのだ。
しかし他者の姿が、自分の理解を得るたったひとつの方法だったとしても、ただ見ているだけでは他者の姿が見えるだけだ。
その間にフィルタになる「鏡」がいるのである。
フランクルの場合のそれは精神科医としての専門知識だった。
しかし普通、人はそのようなユニバーサルな鏡を持っていない。
だから、我々は、貴方は何者か、と問うことから始めるほかない。
だが、自分が何者かわからないのに、貴方は何者か、と問うことはできるだろうか。
それができないのだとすれば、貴方が何者であってもかまいません、と表明する以外に他者と関係を結ぶことはできないだろう。
この無保留の受容の関係を<愛>というのだと思う。
そして、その<愛>についての理解は、自分が何者であるかすらも包括して受容する。
物語で、医師である渡会と、作家の谷村の二人が、ジムで行うスポーツがスカッシュであるのはおそらく偶然ではない。
壁に向かって、二人がボールを打ち合う姿は、まるである種のフィルタを通してお互いを理解していく過程のようだ。
そして、バーに移っても続けられる、対話による<スカッシュ>のさなか、渡会医師は谷村に「自分が何者であるかわからない」と告げるのだ。
複数の女性の間を巧みに立ちまわる渡会医師が、突然陥った恋愛に胸を痛める少年のような告白は、読者にとってはコメディー以外の何ものでもなかったはずだ。
しかしご本人にとっては、もちろんコメディーではない。
これは、恋を「独立器官」にまかせていた報いなのである。
つまり<愛>の理解のサイクルに自分自身への受容を含んで来なかったことへの報い。
そして、医師は、女性は皆、嘘を吐くための「独立器官」を持っていると言っていた。
これこそは、無保留の受容の対極にある態度である。
つまり彼は人を愛することそのものを“知らなかった”。
それでも彼が、恋を自身の「独立器官」にまかせているうちはまだよかった。
しかし、はじめて本当の愛を知り、そしてその愛をこともあろうに、とびっきりの独立器官謹製の“嘘”に撃ちぬかれたのである。
自分自身を受容する機会さえ、彼は永遠に喪ってしまったのだ。
人ごとではないのかもしれない。
僕らもきっと、程度の差こそあれ、このような独立器官を自分の心に持っているはずだ。
そうでなければ恋をするのも命がけになってしまう。
心から信じあえる人とでなければ何もできないという人生は、想像もつかないほど窮屈なものになるだろう。
このような他律性とどのように折り合っていくのかを識ることが、もしかしたら医師の望んでいた「自分が何者か」を知るということだったのかもしれない。
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