2014年5月4日日曜日

「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」は、「多崎つくる」に較べると、ずいぶん早くわが町の小さな書店にも在庫が揃った。

女のいない男たち
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村上 春樹
文藝春秋 (2014-04-18)
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ページを開くとめずらしく「まえがき」があるが、これはもちろん例の中頓別騒動についての著者からのメッセージを織り込むためにわざわざ設置されたとみるべきだろう。「作品としての本筋に関係ないところだったので」という部分に、巧みに抗議の意を滑りこませている。

その中頓別町の表記は、上十二滝町になっていた。「羊をめぐる冒険」で星形の斑紋を背中に持っているという羊に会いに行く、あの町だ(羊に出てくるのは十二滝町だが)。そうと知っている人が読めば、そこで意識が途切れる。
どこまでもリアルで、誰にでも覚えのある心の揺らぎを丁寧に描きこんできた物語に、作者の著作中でもとびっきりファンタジックな作品の、それもそうとうにいわくのある村から出てきた娘だった、と明かされるのだから。

羊をめぐる冒険 文庫 上・下巻 完結セット (講談社文庫)
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できれば、別の名前が良かったと思う。
それも実在する田舎の村。

作者の村上春樹氏が一番そう思っているだろう。

この「ドライブ・マイ・カー」という物語は、人と人の間に横たわるきわめて不完全な<理解>についての物語である。
愛した女性という共通項を間に置いてさえ、ぎくしゃくしたプロトコルに頼るしかない人間の不器用さが、ここに描かれているものだ。

そのぎこちなさ、は自動車のシフトチェンジに仮託されて物語をドライブしている。
ドライバーとして雇われた女性の運転は、ほぼ感知できないほどにシフトチェンジがスムーズであると書かれている。
これは、マニュアル仕様の黄色いサーブとともに、この物語に現れる<異能>であり<特異点>だ。

つまりこれを対置して表現しようとしたものが主題ということになる。
そしてそれは、人間の内面と行動の乖離を職業化した「演技」というものだろう。
演技から始まった関係は友情に変わり、ぎこちなさを増していく。
その振動に耐えられなくなって関係は壊れてしまう。

そしてそのような表面的で移ろいやすく、葛藤にみちた人間関係の物語を聞きながら、女性ドライバーの運転はあくまでも強固にスムーズだ。
そして主人公が吐露する不完全な<理解>に関する葛藤を、沈黙で受け止められなくなった時、彼女が正論とともに吐き出したのが、車窓からの吸殻だ。
煙草の吸殻が車窓から投げ捨てられたのを主人公が見たとき、同時に感じた彼女の正しさや強さの源泉とみたのが、北海道の田舎で育ったシンプルだからこそ力強い価値観だったのではないか。
そしてそれを受けての台詞が、「中頓別ではみんなそうするのだろう」だったのだ。
そこにはきっと、都会のうわべの人間関係からは得られない、土に根ざした強固な何かがあるのだろう、という主人公の憧れのような気持ちが込められている、そう僕には感じられた。

だから、この台詞は決して「本筋に関係ない」ものではなく、それどころか、巧みに配置された道具立てを一点に集めて主題を描ききる重要なもので、それゆえに印象的に読者の心にせまる。不幸なことにだからこそ、それは看過されなかった。

単行本で「上十二滝町」と書き換えられた該当部分を読んだ時、雑誌掲載時に感じたその北海道への憧れの感覚が大きく損なわれているのを感じざるを得なかった。

それでもなお、筆者が、このような特別な町名に書き換えたことには相応の意味があると考えるほうが自然だろう。
僕は、完全な創作による文学作品の、実態として悪意のないエピソードに、このようなクレームがつくことに、文学という愉しみの危機を感じる。
テレビドラマは、描かれているものが実態と違うと言って、筋書きの修正を迫られ、スポンサーはCMを自粛した。
東京都の美術館は、政治色のある彫刻作品を撤去した。

「女のいない男たち」に付されたまえがきと、書き換えられた「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹がこのような時代に書き残そうとした<注記>なのかもしれない。

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