2014年5月8日木曜日

「イエスタデイ」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

村上春樹の新作短篇集「女のいない男たち」に第二編として収録された「イエスタデイ」は、
「昨日は/あしたのおとといで/おとおいのあしたや」
という、ビートルズ「イエスタデイ」の関西弁による創作訳詞ではじまる。

僕は読んでいないが、文藝春秋誌に掲載された時は、作者村上春樹による歌全体の訳詞が掲載されていたそうだが、中頓別騒動と同じように、こちらにも著作権代理人からクレームがついていたそうだ。
で、単行本収録時には、冒頭の部分だけを収録したようだ。
まあ、この印象的な冒頭部で、充分に、この<替え歌>を風呂で歌う男、木樽の奇矯さは伝わってくる。

「イエスタデイ」に登場する木樽と幼馴染のガールフレンドのことを考えると、カンガルー日和という初期の短編集の中でも特に人気の高い「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を思い出す。

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両作品に通底して響く「運命的なものを拒絶する」という態度はいったい人間の真摯さなのか、それとも臆病さなのか。

例えば、血を分けた親子の関係ならば、それは疑いなく運命といえる。子は自分の親を選ぶことができない。だからこそ、子は自分に降りかかる不運をすべて親のせいにして「イノセント」な存在であることができる。ひとつの強い運命の絆を傘にして、他のすべての不運の責任から守られる(疎外される)存在を「子ども」という。
そしていつか子どもは、自分が歩んでいく道を自分で選ぼうとする時、それと引き換えに今まで親のせいにしてきたすべてを自分のものとして引き受けていく覚悟を学ぶのだ。
「運命的」という言葉そのものに、そのような疎外性が含まれているのだ。

だから、その覚悟がないまま、運命的なカップルになってしまった木樽とえりか(彼の幼馴染)は、(「100パーセント」のカップルと同じように)そのままでは本当の意味でのカップルになれないのである。
だから、二人はともに運命への迷子のようにその後の人生を送る。
そのことはすでに物語冒頭部に暗示されている。
“なんだか『三四郎』みたいだけど”の一言で。

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夏目漱石の「三四郎」で、主人公三四郎が心惹かれる女性美禰子が口癖のように言う「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」は、実直な田舎出身の三四郎に対し、近代化した都市生活者の自我に振り回される欲深さのようなものへの自虐だ、と僕は読んだ。
ストレイ・シープとは「迷子」のことで、マタイ伝の、九十九匹の迷わぬ羊よりも一匹の迷える羊を大切に思う羊飼いの説話から来ている。
そして羊飼い(=神)は、この一匹を見放さないのである。

だから、物語世界のストレイ・シープである彼らもまた、決して見放されることはないはずだ。おそらく作品世界で木樽とえりかは、本当に主人公の言うように紆余曲折を経て偶然再会し、結ばれるのだと思う。
冒頭部の「三四郎」は、そこまでの示唆をしていると僕は読んだ。

かつて、「100パーセント」において運命を拒否したカップルに冷酷なエンディングを用意した村上春樹は、本作では(1Q84に続いて)あたたかな未来を示唆している。
順風満帆でないがゆえに実り豊かな人生というものもある、というこの示唆は、好意的に登場させた北海道の町に非難され、せいいっぱいのリスペクトをこめて作ったイエスタデイ・トリビュートにケチをつけられたこの短篇たち自身に、皮肉にも符合している。

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