そしてこの二編にはどちらも「火のついた煙草」が登場する。
「ドライブ・マイ・カー」では、この時代にはもう失われかけている人間のたくましさとかおおらかさの象徴として。
「木野」では、人間の底意に忍ばされた悪意や残忍さのようなものの象徴として。
そしてどちらの主人公も煙草そのものについては「好ましからざるもの」として扱い、しかしそれとの関わりを断ち切れない人間、の方は受け入れている。
人間の心には、このようにすっきりとは割り切れないところがある。
それがふとしたことで、良い方に転んだり、思いもしない事態を招いたりする。
考えても仕方がない。
そのために神頼み、という心の持ちようがある、ということだ。
中盤での「蛇」の登場は太宰の「斜陽」を思わせるが、斜陽での母蛇はかず子が蛇の卵を焼いたことに呼応して登場する。
母親に強く依存するかず子が、自身の隠喩である<卵>を焼く。
貴族という<時代>の継承を拒むことの表象である。
そのことに呼応して母蛇が現れたことは、 蛇が倫理や道徳の守り手であることを意味している。
その蛇は、BAR木野にも現れた。
この時代に再び現れた<蛇>が拒んだものが、火のついた煙草の表象する不道徳ではなく、むしろ自分自身を抑圧する<演技>であったということは、いかにも象徴的ではある。
確かに、現代という時代は、人による傷つかないための絶え間ない<演技>の集成によるものだ。
この部分でも「木野」は「ドライブ・マイ・カー」に呼応している。
「イエスタデイ」でも、「シェエラザード」でも<演技>は物語の重要なモティーフになっている。
僕自身が自分の人生で繰り返してきた、そしてまたこれからも演じ続ける<演技>のことを、この短篇集を読んでいる間中、僕は意識せざるを得なかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿