2013年8月9日金曜日

魔の山の変奏曲としての宮崎駿「風立ちぬ」

宮崎駿監督による5年ぶりの新作長編「風立ちぬ」。
僕はトーマス・マン「魔の山」の変奏曲として観た。



「風立ちぬ」では、堀越二郎の婚約者菜穂子がサナトリウムで結核治療を受ける。
「魔の山」では、主人公カストロプが、やはり結核治療のためサナトリウムで7年という長い時間を過ごす。

さて「魔の山」の要諦は、ヨーロッパの縮図とでもいえる多彩な患者たちに囲まれて、カストロプが成長していく教養小説(ビルドゥングス・ロマン)としての側面にある。

死の存在を傍らに意識しながら生きる時、その時は止まっている。
不明確で多様なはずの未来が、そこにはないからだ。
だから当時不治の病であった結核治療のためのサナトリウム(=魔の山)では、時間は止まっている。
そしてその特殊な状況が、人間という存在の儚さとそれゆえの万能を認識させ、自分という存在への執着を逃れたところから見えてくるものがあると教えてくれる。

ところで「風立ちぬ」にもカストロプ氏が登場する。(こちらはドイツ人カストルプ、ということになっているが)
「魔の山」の主人公を演じていた頃は青年であったが、中年に成長したカストロプは軽井沢のホテルで二郎に忠告している。
山を降りると「忘れてしまう」と。

ただ美しい飛行機を作りたい一心で勉強し、ついに夢をかなえて飛行機を作るも、作っているのは戦闘機で、依頼主は殺戮のための高性能を求めるばかり。
ギリギリの条件を満たすべく作った試作機はあえなく空中分解する。
そんな傷心の二郎を、確かに軽井沢の山の一時は癒してくれた。
そう「忘れてしまう」ことができたのだ。


だが、それは二郎の望む未来ではなかった。
カストロプは、魔の山からやってきて二郎を引き止めようとするが、二郎はその若さと情熱でその誘惑を振り払い山を降り、やがてゼロ戦のベースになる九式単戦を完成させる。

菜穂子も同じだ。
二郎の夢と同調して、自ら山に入り、そして山を降り、また戻っていく。
二郎は「わたしたちには時間がないのです」と言い、自らのスピードを上げ、どこまでも進んでいく。
まるで極限までスピードを上げれば、残された菜穂子との時間を永遠にできるとでも言うように。

病に未来を奪われることで得る成長よりも、自分で選びとる未来のほうが尊い。
僕もそう思う。


そのような「魔の山」の変奏の後ろ側で、宮崎は自らがずっと描き続けていた「科学への嫌悪感」と「飛行機への愛着」の、そして「遅れてきた軍国少年だった子供時代」と「戦争への嫌悪感」への折り合いについても解答を出そうとしているように思える。

長編第一作である「風の谷のナウシカ」では、機械文明が進んだ遙かな未来、人類が住めないほど汚れてしまった地球を、生命そのものを改造することで浄化しようとした人類の傲慢を描いたものだった。ナウシカは、改造され汚れてしまった生命さえも愛することで、その人類の傲慢ごと抱きとめてみせる。

続く「天空の城ラピュタ」は、過去に栄えたが「土から離れる」ことで滅ぼた文明の末裔を描く。しかし、空を飛ぶことへの純粋な憧れを男の子の夢として描き、それは「人類の夢」だから「何度でも蘇るさ」と古代文明の末裔に言わせている。そしてその力を手にした者はこうも言うのだ。
「見ろ、人がゴミのようだ」と。

ナウシカという穢れ無きヒロインに抱きとめられた人類に深く内在する矛盾を、再び二項に分離して対置して見せて、生きていくのは綺麗事じゃないんだぜ、と宮崎駿は語りかけているようだ。

この頃の宮崎駿は、どんどん進んでいろんなものを破壊していく「文明」そのものを忌避しているように見えた。
「もののけ姫」では山を切り拓いて祟り神を作り、「千と千尋の神かくし」では河を汚染して神サマの居場所を奪うものとして。

しかし文明とは本来人間の生活を豊かにするためのものだ。
それがなぜ、我々の住むこの大地を脅かすような結果をもたらすのか。
この二項対立は、宮崎本人の心のなかで戦闘機が大好きな少年の心と戦争を憎む気持ちの相反として像を結んでいる。
もっと速く飛ぶことが敵の戦闘機を撃ち落とすためになったり、もっと遠くまで飛ぶことが爆撃できる地域を広げるためになったりするのはなぜなのか、と。

「紅の豚」という作品がある。
苛烈な戦闘機乗りとしての人生で多くの仲間を喪ったボルコ=ロッソは、豚に姿を変え国のために飛ぶことから逃げ続ける。
それでも飛行機から降りることは出来ない。
「飛ばねえ豚はただの豚さ」と言い、国なんかのために死んでいった報われない仲間たちのために飛び続ける。
そして、地位と金を得る男になるぜと言って結婚を迫るアメリカ人パイロットに、マダム・ジーナは「あたしの国では、もう少し人生が複雑なの」と言う。

そう、人生は複雑なのだ。
美しく飛ぶ飛行機にため息をつきながら、その航続距離が、搭載能力が、戦争に転用された時より多くの人を殺傷するために使われてしまうという事実を、幾多の戦争を経てきた僕らはごまかして生きてはいけないのだ。

それごと受け止めて、それでも美しいものは美しい、という気持ちまで否定せずに、魔の山にも逃げ込まずに、真っ直ぐ前を向いて歩いて行こうぜ、と宮崎駿は僕らに語りかけているような気がする。
どちらかの側に立って、それは俺のせいじゃない、と相手の批判だけを繰り返すような生き方を君たちは選んじゃいけない、と言われたような気がして、観終わって映画館のシートでしばらく放心した後、心をキリリと締め直して家路を急いだ。

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