まず申し上げておきたいのは、赤坂真理著「東京プリズン」には巣鴨プリズンは、現在サンシャインシティが建っている場所にあったとの情報以外は出てきません。よって、戦中のゾルゲ事件や、戦後の東条英機のこと、米軍による独房の盗聴のことなどは書かれておりません。
次にこの本には、作中「東京裁判」を再現するディベートが展開されますが、その中で著者赤坂真理さんが独自に取材または考察して構築された事実、知見はひとつも記載されておりません。既知の情報だけです。
いや、これらは私が勝手に期待していただけのことで、著者には一切非はありません。
ここに書かれているのは、一貫して無教養についての罪、とでも言うほかないものだ。
アメリカに留学した主人公は、南北戦争が内戦であったことを知らず、漢字が中国からもたらされた文字であることを、アメリカ人が言うChinese characterという言葉から気付いて、「腰が抜けるほど」驚いたりする。
だから彼女は当然、東京裁判でのAB級戦犯の級が区分けであって、罪の重さとは無関係であることを知らない。
そしてA Class(つまりGradeではない)のclassを「級」と翻訳したことに原因があると言う。
概ね、この物語で問題にされているポイントはこのような論法で語られる。
もちろんどこかに隠蔽の意図があるという話ではないので、これは単に無教養の問題としかいいようがない。
物語の構造が、時空を超えて母子の人格さえも取り替えながら、死した英霊たちやベトナム戦争の戦死者、狩りで誤って殺したヘラジカの仔まで交えながら気宇壮大に展開していくのに、その中心に渦巻いているわだかまりの正体が「無知」であったというところにナットクがいくかどうか。
それがこの物語を自分の物語として読めるかどうかの分水嶺だ。
私には無理でした。
スミマセン。
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