同じ推理小説を何度も読む、という人はそう多くはいないだろう。
犯人がすでにわかっているのでは、その本を読む動機のほとんどが失われているわけだから当然だ。
しかし、世の中には再読に堪える推理小説というものが稀に存在する。
シャーロック・ホームズの諸作は別格で措くとして、ジョン・ディクスン・カーの「火刑法廷」やウィリアム・アイリッシュの「幻の女」、ここにチャンドラーの「ロング・グッドバイ」を付け加えてもいいかもしれない。
日本でなら京極夏彦の「魍魎の匣」や奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」などがそれにあたるか。
それらの本は、一たび気まぐれに本棚から取り出してページを開けば、その独特の匂いを放ちながら世界を構築していく文体に絡め取られて、次へ次へと読まされてしまう。
そんな時、僕の中の理性的な部分では、「あ、犯人が出てきたな」とか、「お、トリックへの伏線だ」などと認識しているのだが、物語を楽しんでいるもう一人の僕は、「ああ、犯人はいったい誰なんだろう」「いったいどうやったんだろう」と矛盾なく探偵の謎解きに参加しているのだ。
この推理の過程を文学の主題としたものが推理小説なのであるから、何度読んでも推理の過程が面白いと感じられないなら、それはすなわち推理小説として二流であるということになるまいか。
例えば、父フョードルを誰が殺したのか、という興味が結末まで読者を長い旅に誘う「カラマーゾフの兄弟」を推理小説だという人はいないだろう。
そして犯人が誰かがわかった後でも、何度も何度も再読してその度に違う印象を受け取ることができる良質の文学であることを否定する人もいないだろう。
推理小説の場合も事情はまったく同じだと思う。
探偵が、その天才的な直感で証言の矛盾を突く一瞬の見事な描写や、思いもよらないトリックを、気付き難い状況的証拠から天啓を得たかのように導く思考に酔う。
これこそが、推理を主題とした文学、推理小説の真の醍醐味であり、その文学的感興は、たとえ犯人が予めわかっていたとしても削がれることはないはずなのである。
しかし、その感興の一部を犯人の意外さが形作っていることが多いこのジャンルでは、それを超えて、文学的資質のみをもって読者を推理の興奮に誘う力量を持った作品が数少ないのは、これまたやむを得ないことだと思うのだ。
そして僕にとって、犯人がわかっていてもいささかも魅力を減じない最右翼の作品が島田荘司先生の「占星術殺人事件」である。
現在刊行中の島田荘司全集に改訂、収録されていた「完全改訂版 占星術殺人事件」が、講談社文庫にも収録されることとなり、さっそくこれを買い求めて一瞬も躊躇せず読み始め、ほぼノンストップで読了。
四度目の通読になるが、まったく色褪せない感動を得た。
作品中、三つの手記が物語のコアになるが、読んでいて別々の人間によって書かれたことがはっきりわかるくらい魂のカタチの透けてくる「入り込んだ」書きぶり。
前半の探偵の迷走が、読者をも迷宮に誘い、これには合理的な解決はないだろう、と思わせて、セロハンテープ一本でその印象のすべてをぐるんとひっくり返してみせる見事な力技。
これ以上ないほど意外な犯人が姿をあらわす時のあの寂寞感。
どこをとっても読むことの喜びに満ちている。
その世界に入り込んだこと自体がとても幸せな体験に感じられる特別な小説だ。
僕はあとどのくらいこのような小説に出会えるだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿