2013年8月30日金曜日

シューベルト弦楽四重奏「死と乙女」聴き比べ

ようやく涼しくなってきて、真空管アンプに灯を入れようかという気になる。
以前からお借りしていたレコードで、私所有のアルバンベルク四重奏団の「死と乙女」との聴き比べをやってみよう。

まずは、アマデウス四重奏団がグラモフォン・レーベルに残した録音。

なかなかセンスのよいジャケット。
このあたりはグラモフォンの仕事だな、という気がする。

ところが針を落としてみると、非常に残響の少ない目の前で演奏されている感じが落ち着かない。
どんな美しい曲にも、どこか神経質で小刻みな律動を付け加えるシューベルトの音楽の細部が目の前に提示される。
そして演奏に「揺れ」がない。
気持ちの変化を予兆無く貼りあわせていくシューベルト的展開が、どこまでも忠実に「唐突さ」を表現していく演奏。
だから確かにこれはシューベルトの音楽そのものなのだが、正直に言えばちょっとツラい。

いつも聴いているEMIのアルバンベルク盤(CD)は、豊かな残響の中で音量の増減もたっぷり使って、シューベルトの悲壮感を少し人間的に化粧直しして演奏しているように感じられ、落ち着けるが、これはおそらくシューベルトの意図した演奏ではないのだろうな、とも思うのだ。

どちらの演奏がいいのだろうな、と考えながらもう一枚お借りしているレコードをターンテーブルに載せる。

ハンガリー四重奏団が、VOXというレーベルに残した録音。

モノラル録音なのだが、そんな感じがまったくしない見事な空気感が再現されている。
どのくらいの時期の録音なのだろうと、裏を見て驚いた。

そう、ジャズの世界で数々の名録音を残したあのルディ・ヴァン・ゲルダーがマスタリングを担当している。
調べてみると、VOXレーベルでルディが仕事をしていたのは50年代の前半とのことなので、彼のキャリアの最初期の録音ということになる。

自らの手で、過去の名録音をリマスターしてのっぺらぼうな音にしてしまうまでの彼の録音は、なんというか実に居心地の良い空間を演出する録音だった。尖っていないのに存在感のあるその録音の方法は秘密のヴェールの向こうで、もちろんこの「死と乙女」の録音の秘密も公開されていない。

しかし、このレコードに針を落とした後、僕は結局最後まで聴き比べるためのプリアンプのセレクタにに手をのばすのを忘れたまま、最後まで聴き通してしまった。

そしてこの録音で僕ははじめて「死と乙女」の二楽章に隠れていた、悲しさとか怒りの感情の隙間に見え隠れする希望の光りのようなものを見た。確かに見た。
で、だからこその四楽章の、苛まれたまま生きていく決意のようなものがリアルに息づいているのを感じたのだ。

これはルディのマジックか。
それともシューベルトの情念か。

2013年8月28日水曜日

島田荘司「改訂完全版 占星術殺人事件」:何度読んでも面白い推理小説、ここにあります

同じ推理小説を何度も読む、という人はそう多くはいないだろう。
犯人がすでにわかっているのでは、その本を読む動機のほとんどが失われているわけだから当然だ。
しかし、世の中には再読に堪える推理小説というものが稀に存在する。

シャーロック・ホームズの諸作は別格で措くとして、ジョン・ディクスン・カーの「火刑法廷」やウィリアム・アイリッシュの「幻の女」、ここにチャンドラーの「ロング・グッドバイ」を付け加えてもいいかもしれない。
日本でなら京極夏彦の「魍魎の匣」や奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」などがそれにあたるか。
それらの本は、一たび気まぐれに本棚から取り出してページを開けば、その独特の匂いを放ちながら世界を構築していく文体に絡め取られて、次へ次へと読まされてしまう。

そんな時、僕の中の理性的な部分では、「あ、犯人が出てきたな」とか、「お、トリックへの伏線だ」などと認識しているのだが、物語を楽しんでいるもう一人の僕は、「ああ、犯人はいったい誰なんだろう」「いったいどうやったんだろう」と矛盾なく探偵の謎解きに参加しているのだ。


この推理の過程を文学の主題としたものが推理小説なのであるから、何度読んでも推理の過程が面白いと感じられないなら、それはすなわち推理小説として二流であるということになるまいか。
例えば、父フョードルを誰が殺したのか、という興味が結末まで読者を長い旅に誘う「カラマーゾフの兄弟」を推理小説だという人はいないだろう。
そして犯人が誰かがわかった後でも、何度も何度も再読してその度に違う印象を受け取ることができる良質の文学であることを否定する人もいないだろう。

推理小説の場合も事情はまったく同じだと思う。
探偵が、その天才的な直感で証言の矛盾を突く一瞬の見事な描写や、思いもよらないトリックを、気付き難い状況的証拠から天啓を得たかのように導く思考に酔う。
これこそが、推理を主題とした文学、推理小説の真の醍醐味であり、その文学的感興は、たとえ犯人が予めわかっていたとしても削がれることはないはずなのである。
しかし、その感興の一部を犯人の意外さが形作っていることが多いこのジャンルでは、それを超えて、文学的資質のみをもって読者を推理の興奮に誘う力量を持った作品が数少ないのは、これまたやむを得ないことだと思うのだ。

そして僕にとって、犯人がわかっていてもいささかも魅力を減じない最右翼の作品が島田荘司先生の「占星術殺人事件」である。

現在刊行中の島田荘司全集に改訂、収録されていた「完全改訂版 占星術殺人事件」が、講談社文庫にも収録されることとなり、さっそくこれを買い求めて一瞬も躊躇せず読み始め、ほぼノンストップで読了。
四度目の通読になるが、まったく色褪せない感動を得た。



作品中、三つの手記が物語のコアになるが、読んでいて別々の人間によって書かれたことがはっきりわかるくらい魂のカタチの透けてくる「入り込んだ」書きぶり。
前半の探偵の迷走が、読者をも迷宮に誘い、これには合理的な解決はないだろう、と思わせて、セロハンテープ一本でその印象のすべてをぐるんとひっくり返してみせる見事な力技。
これ以上ないほど意外な犯人が姿をあらわす時のあの寂寞感。
どこをとっても読むことの喜びに満ちている。
その世界に入り込んだこと自体がとても幸せな体験に感じられる特別な小説だ。

僕はあとどのくらいこのような小説に出会えるだろうか。

2013年8月25日日曜日

浅田次郎「終わらざる夏」:人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがない

高校を卒業するまでを釧路で過ごした。
だから北方領土のことは他人事ではなかった。

大恩ある先生から、ラーゲリに収容された経験をお聞きしたこともある。
尊厳を奪われるということが、どんなに怖ろしいことか想像しただけで身が震えた。

だから、浅田次郎さんの「終わらざる夏」はどうしても読まなければならぬ、という思いと、人間の心の奥に巣食う真っ暗な怖ろしい淵を覗きこむ経験にしり込みする気持ちの間で迷っていた。


どうにもきな臭い世情が、少しずつ少しずつ現実に近づいてくるのを感じるたび、もう逃げられないという気分になって、そんな時、書店に文庫化された「終わらざる夏」が平積みになっているのを見て、意を決して手にとった。



ここに書かれているのは、国家と国家の事情に翻弄される人々の営みだが、結局、国家も人である。

民間人の女学生の撤退を検討しながらも、軍の理屈でしか動かない会議に、操船兵が発した「どいつもこいつも、人間と鮭缶を一緒くたにしやがって、あげくにこんな簡単な道理がまだわからねえんか」という叫びが耳に痛い。

我々は、どうしたって組織に所属するとその論理で動く傾向がある。
それは、自分が下さねばならない判断の責任が、組織と半分ずつになるような気がするからなのだと僕はいつも思っていた。
でも責任って何なんだ。

よく責任をとって社長を辞任するとか、退職するなどと言うが、そんなことで責任をとったことになるのか。その被害にあった人から見れば「溜飲が下がる」以外にどんな実益もなく、失われたものは取り戻しようがないのである。

だから結局どんなことも個人の覚悟の集積で出来ている。
失ったものは戻らないという覚悟を背負えるほどの責任の対象として、「終わらざる夏」は一貫して「家族」を描く。
すべての行動が愛に発し、すべての思いが矛盾なく無償で、犠牲と愛が同義の言葉になるたったひとつの絆「家族」

どう言い繕おうとも兵士は殺人者である。
家族を殺人者にしたくない。もちろん自分もそうなりたくない。
こんな簡単な真理より大事な「国益」なんてあるはずがない。
我々の心の基盤である「家族」の平穏こそが最大の「国益」なのだ。

人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがないのだ。
だから絶対に戦争だけはしてはいかん、という決意を。
隣国が攻めてきたらどうするのだ、という仮定すら許さない強い意思を。
その時に出来るありったけの誠意と、人間を信じる心で、最後の一瞬まで理解し合うことを諦めない覚悟を。


第二次世界大戦では、日本の多くの文士が戦争を支持した。
そして敗戦後、戦争否定に転向した。

僕は大学で文学と哲学を学んだ。
卒業してからも多くの文学に触れ、哲学に触発された。

だから、本来、戦争に向かう国を押しとどめる役割を担うべき文学が、先の大戦でまるきり役に立たなかったことが悔しい。
ようやく戦中文壇の過ちに落とし前をつけてくれたこの傑作戦争文学を深く胸に刻みつけて、これからの平坦ならざる世を、人間を見つめて生きていきたいと思う。

2013年8月19日月曜日

崇高さと愚かしさのブルース - 佐野元春「Zooey」

2013年3月13日、自身の誕生日に発売された佐野元春のアルバム「Zooey」を折りにふれ聴き続けてきた。
五ヶ月の間に、少しづつ言葉が耳に残り、ようやくこのアルバムに託した元春の願いのようなものが聴こえてきたような気がした。



前作「Coyote」で急速に喪われた佐野元春の「声」は、デビュー以来彼の声に励まされ続けてきた僕にはキツかった。
でも札幌でのライブを観て、声の輪郭は少し変わったが、彼のマインドがちっとも変わっていないことを確信し、そうしたらCoyoteアルバムが持っていた「二十一世紀の荒地」というコンセプトが、すうっと胸に入ってきた。

佐野元春はこのアルバムで歌われる「荒地」についてこう言っている。
たそがれてゆく文明。テロに怯え検閲と監視の元に生きる荒地、言葉と愛への不信が募るだけの荒地、命が手軽で便利な形式へと下ってゆく荒地、未来を気にしていたら現在の生に絶望してしまうような荒地。

そういうものの中に気高い存在としてすくっと立つコヨーテの姿を僕はこのアルバムの最後を飾る「コヨーテ、海へ」に見たのだ。


そしてZooeyの「詩人の恋」でも同じように、困難に立ち向かう、君に光を集めるためならなんでもする「黄昏の兵士」が描かれている。
そして、この孤高の兵士の歌に対置するように「人間なんてみんな馬鹿さ」と歌われる「君と一緒でなけりゃ」が直前に置かれている。

崇高さと愚かさ。
どちらも自分で、どちらも現実。

自分の利益を優先する人たちの中で、なかなか筋の通った解決に至らない原発のことにも、建前ばかりを繰り返して、本当の気持ちが見えてこない近隣国家との揉め事にも、きっと深く悲しんで傷ついているけれど、やっぱり歌で、言葉の力で、彼は僕達に伝えようとしている。

皮肉な言葉使いで結論を押し付けようとはしない、いつもの誠実な佐野元春の言葉。
「人間なんてみんな馬鹿さ」なんて歌って、皮肉に聴こえないシンガーはきっと佐野元春しかいない。
政治の世界に自分が出て行って何百分の一の発言者になったって何も変えられないのは分かりきっている。
拳だけを振り上げても、何も変わらないのは分かっている。
だから彼はありったけの声で叫ぶ。
もう若くはないその声で叫ぶ。
「人生は美しい」と。
でも「人生が美しい」と知った時には僕らはもう身も心も傷だらけになってるんだ、と。

彼の言葉はいつもリアルで痛い。
しかしそうやって、生きるということの歓びと、本当の意味で人間がどうしようもなく繋がったままでいるしかない社会との絆を回復させようと心を砕いているのだ。
そう、ゾーイーがフラニーに対してそうしたように。

2013年8月17日土曜日

マリリン・モンローは「イヴの総て」で観よう

名画「イヴの総て」を知ったのは、コニー・ウィリス経由だった。
現代アメリカSFの女王と言っていい作家、コニー・ウィリスの特集がSFマガジンの2013年7月号に組まれ、そこに掲載された短編「エミリーの総て」が面白いよ、でも「イヴの総て」という映画を下敷きにして作られてるから出来れば、映画を観てから読んだほうがいい、と友人から聞いたのだ。

その映画を観るのにまずは一苦労した。
まず近所のTSUTAYAに行くも「お取り扱いありません」と。
仕方ない、名画らしいし買っちゃおうと調べてみるも現在はワンコイン版しか生産していない。
僕はあのワンコイン版で映画を観ると、映画そのものがみすぼらしく思えてしまう質で、すでに生産を終えたスタジオ・クラシックス版の在庫を求めてタワー・レコードまで出かけたが、既に在庫はなく、最後の手段のワンコイン版すらも大手書店にも見当たらない。

困ったなあ、と思っていると件の友人が、スタジオ・クラシックス版を貸してくれて、やっと観ることが出来た。
持つべきものは善き友である。


さて、「イヴの総て」と言うからにはアン・バートン演じるイヴ・ハリントンが、手をつくして演劇界でのし上がっていくサクセス・ストーリーかと思いきや、いやまあそれでもあながち間違ってはいないのだが、何しろベティ・デイヴィスがすごいのだ。

ベティ・デイヴィスという女優さんの出演作を僕は「八月の鯨」しか観ていなくて、往年の名女優が実年齢の役で出演し人生の黄昏を演じるというコンセプトを十全に味わえなかったわけだが、ここでやっと全盛期のベティ・デイヴィスに出会えた。

ここでも彼女は現実に近い役を与えられ、全盛期であるがゆえにこの後訪れる衰えを恐れている。
しかし、愛や生というものはその時々のものを慈しめば良いのだと気づいてから「別人」のようになる、という演技が本当に別人になってしまったようなのだ。
その時のベティ演じるマーゴ・チャニングは本当に光り輝いて見えた。
その鏡像のように、印象を変えていくイヴもベティの演技あってのものだろう。

それに、この映画でチャンスを掴んでブレイクしていくマリリン・モンローの纏うこの特別な空気感は何だろう。
そこにいるだけで場の空気をさっと攫っていってしまう。
その後の主演作では観ることのできなくなった、スペシャルなマリリンがここにいる。



この映画に用意された台詞は、どれもハイセンスなユーモア精神によって磨きぬかれたもので、聞いていると「舞台芸術っていいもんだなあ」と思わされる。
演出家役や脚本家役が時折興奮ぎみに語る演劇論も実にいい。

人気商売ゆえのいろいろもあったりするんだけど、やっぱり舞台っていいよね、という演劇賛歌なのだと思う。

コニー・ウィリス「エミリーの総て」 - 愚かしさの選択についての物語

SFマガジンでコニー・ウィリスの特集を組んだのは知っていた。
しかし文芸雑誌には、連載小説があったりするものだから、毎号買わないと十全に楽しめない気がして購入をためらっていた。

そうしていると、コニー・ウィリスを僕に教えてくれた友人が、どうせ棄てるものだから、とその特集が載った7月号を持ってきてくれた。
持つべきものは善き友である。


お目当ては本邦初訳短編小説の「エミリーの総て」
本を持ってきてくれた友人によると、「イヴの総て」という映画に題材を得ているらしい。

おおそれでは、先にそいつを観ておかなくては、とまず近所のTSUTAYAに行くも「お取り扱いありません」と。
仕方ない、名画らしいし買おうと調べてみるも現在はワンコイン版しか生産していない。
僕はあのワンコイン版で映画を観ると、映画そのものがみすぼらしく思えてしまう質で、すでに生産を終えたスタジオ・クラシックス版の在庫を求めてタワー・レコードまで出かけたが、既に在庫はなく、最後の手段のワンコイン版すらも大手書店にも見当たらない。

困ったなあ、と思っていると件の友人が、スタジオ・クラシックス版を貸してくれた。
本当にありがとう。


この映画がまた本当に素晴らしかったのだが、ここまでの手間をかけて準備をして読んだ「エミリーの総て」もまた本当に素晴らしかった。



「イヴの総て」という映画はまさに名セリフのオン・パレードなのだが、短編「エミリーの総て」は、その名セリフを、直接的にも暗喩的にも縦横に引用していて、その作家的技量に興奮する。
やっぱり先に観ておいてよかった。

本作は、一言で言えば「人工知能」もので、「意思」と「プログラム」に本質的な差異はあるのか、という今となってはいささか古典的ともいえるテーマを基底に置いている。
しかし、そこに「演技をする人間」の存在を挟み込んだ時に「意思」と「プログラム」の差異はさらに曖昧になっていき、だからこその生の意味深さが際立っていく。
そんな仕掛けでこの短編は、そのサイズに見合わない深長な奥行きを獲得している。

用意されたシナリオを表現するための表情、セリフ回し、衣装。
そして、プログラムを実行するための機構。
突き詰めていけば、それらの間に本質的な差異などないのだろう。

変換の癖を覚えて賢くなっていくコンピュータのインプット・メソッドのように、経験を抱き込んで環境への適応度を高めていく自己変革プログラムを組み込んだAIは、「成長」ですらプログラムされている。

本作はその「成長」が意外な方向に向かい、それに翻弄される人々の姿を描くが、そこに通底しているのは、損得勘定では決して理解できないのに、しかし誰にでもそのほうがいいと思える「愚かしさ」を選択できる人間の愛おしさだ。

今まで読んだウィリス作品にも始終感じた手ざわりが、この短編にもより純度高く練りこまれていた。
傑作だと思う。

2013年8月9日金曜日

魔の山の変奏曲としての宮崎駿「風立ちぬ」

宮崎駿監督による5年ぶりの新作長編「風立ちぬ」。
僕はトーマス・マン「魔の山」の変奏曲として観た。



「風立ちぬ」では、堀越二郎の婚約者菜穂子がサナトリウムで結核治療を受ける。
「魔の山」では、主人公カストロプが、やはり結核治療のためサナトリウムで7年という長い時間を過ごす。

さて「魔の山」の要諦は、ヨーロッパの縮図とでもいえる多彩な患者たちに囲まれて、カストロプが成長していく教養小説(ビルドゥングス・ロマン)としての側面にある。

死の存在を傍らに意識しながら生きる時、その時は止まっている。
不明確で多様なはずの未来が、そこにはないからだ。
だから当時不治の病であった結核治療のためのサナトリウム(=魔の山)では、時間は止まっている。
そしてその特殊な状況が、人間という存在の儚さとそれゆえの万能を認識させ、自分という存在への執着を逃れたところから見えてくるものがあると教えてくれる。

ところで「風立ちぬ」にもカストロプ氏が登場する。(こちらはドイツ人カストルプ、ということになっているが)
「魔の山」の主人公を演じていた頃は青年であったが、中年に成長したカストロプは軽井沢のホテルで二郎に忠告している。
山を降りると「忘れてしまう」と。

ただ美しい飛行機を作りたい一心で勉強し、ついに夢をかなえて飛行機を作るも、作っているのは戦闘機で、依頼主は殺戮のための高性能を求めるばかり。
ギリギリの条件を満たすべく作った試作機はあえなく空中分解する。
そんな傷心の二郎を、確かに軽井沢の山の一時は癒してくれた。
そう「忘れてしまう」ことができたのだ。


だが、それは二郎の望む未来ではなかった。
カストロプは、魔の山からやってきて二郎を引き止めようとするが、二郎はその若さと情熱でその誘惑を振り払い山を降り、やがてゼロ戦のベースになる九式単戦を完成させる。

菜穂子も同じだ。
二郎の夢と同調して、自ら山に入り、そして山を降り、また戻っていく。
二郎は「わたしたちには時間がないのです」と言い、自らのスピードを上げ、どこまでも進んでいく。
まるで極限までスピードを上げれば、残された菜穂子との時間を永遠にできるとでも言うように。

病に未来を奪われることで得る成長よりも、自分で選びとる未来のほうが尊い。
僕もそう思う。


そのような「魔の山」の変奏の後ろ側で、宮崎は自らがずっと描き続けていた「科学への嫌悪感」と「飛行機への愛着」の、そして「遅れてきた軍国少年だった子供時代」と「戦争への嫌悪感」への折り合いについても解答を出そうとしているように思える。

長編第一作である「風の谷のナウシカ」では、機械文明が進んだ遙かな未来、人類が住めないほど汚れてしまった地球を、生命そのものを改造することで浄化しようとした人類の傲慢を描いたものだった。ナウシカは、改造され汚れてしまった生命さえも愛することで、その人類の傲慢ごと抱きとめてみせる。

続く「天空の城ラピュタ」は、過去に栄えたが「土から離れる」ことで滅ぼた文明の末裔を描く。しかし、空を飛ぶことへの純粋な憧れを男の子の夢として描き、それは「人類の夢」だから「何度でも蘇るさ」と古代文明の末裔に言わせている。そしてその力を手にした者はこうも言うのだ。
「見ろ、人がゴミのようだ」と。

ナウシカという穢れ無きヒロインに抱きとめられた人類に深く内在する矛盾を、再び二項に分離して対置して見せて、生きていくのは綺麗事じゃないんだぜ、と宮崎駿は語りかけているようだ。

この頃の宮崎駿は、どんどん進んでいろんなものを破壊していく「文明」そのものを忌避しているように見えた。
「もののけ姫」では山を切り拓いて祟り神を作り、「千と千尋の神かくし」では河を汚染して神サマの居場所を奪うものとして。

しかし文明とは本来人間の生活を豊かにするためのものだ。
それがなぜ、我々の住むこの大地を脅かすような結果をもたらすのか。
この二項対立は、宮崎本人の心のなかで戦闘機が大好きな少年の心と戦争を憎む気持ちの相反として像を結んでいる。
もっと速く飛ぶことが敵の戦闘機を撃ち落とすためになったり、もっと遠くまで飛ぶことが爆撃できる地域を広げるためになったりするのはなぜなのか、と。

「紅の豚」という作品がある。
苛烈な戦闘機乗りとしての人生で多くの仲間を喪ったボルコ=ロッソは、豚に姿を変え国のために飛ぶことから逃げ続ける。
それでも飛行機から降りることは出来ない。
「飛ばねえ豚はただの豚さ」と言い、国なんかのために死んでいった報われない仲間たちのために飛び続ける。
そして、地位と金を得る男になるぜと言って結婚を迫るアメリカ人パイロットに、マダム・ジーナは「あたしの国では、もう少し人生が複雑なの」と言う。

そう、人生は複雑なのだ。
美しく飛ぶ飛行機にため息をつきながら、その航続距離が、搭載能力が、戦争に転用された時より多くの人を殺傷するために使われてしまうという事実を、幾多の戦争を経てきた僕らはごまかして生きてはいけないのだ。

それごと受け止めて、それでも美しいものは美しい、という気持ちまで否定せずに、魔の山にも逃げ込まずに、真っ直ぐ前を向いて歩いて行こうぜ、と宮崎駿は僕らに語りかけているような気がする。
どちらかの側に立って、それは俺のせいじゃない、と相手の批判だけを繰り返すような生き方を君たちは選んじゃいけない、と言われたような気がして、観終わって映画館のシートでしばらく放心した後、心をキリリと締め直して家路を急いだ。

2013年8月2日金曜日

KINEMA-GIRASOLE: 映画「ドリームガールズ」に描かれたモータウンの興亡

KINEMA-GIRASOLE: 映画「ドリームガールズ」に描かれたモータウンの興亡: 映画「Ray」ではレイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスとビヨンセ・ノウルズが主演した映画「ドリームガールズ」には、黒人音楽がミュージック・ビジネスとして大きくなっていく過程の悲喜こもごもが、モータウンの歴史に仮託して描かれている。 シュープリームスの一員メアリーの自伝...

映画「ドリームガールズ」に描かれたモータウンの興亡

映画「Ray」ではレイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスとビヨンセ・ノウルズが主演した映画「ドリームガールズ」には、黒人音楽がミュージック・ビジネスとして大きくなっていく過程の悲喜こもごもが、モータウンの歴史に仮託して描かれている。
シュープリームスの一員メアリーの自伝「Dream girl : My Life As a Supreme」を元に制作されたミュージカルの映画化である。



映画のどのエピソードも実話がもとになっているのだが、ここでは主要なエピソードだけ抜き出してみよう。


ジェイミー・フォックス演じるカーティス・テイラー・ジュニアのモデルは、モータウン・レコーズの創始者ベリー・ゴーディ・ジュニアだが、彼は所属していたブランズウィックという弱小レーベルから、自らが作曲した「ロンリー・ティアドロップス」という曲で、ヒットに恵まれなかったジャッキー・ウィルソンという天才を一躍スターダムに押し上げる。
このジャッキーが、エディー・マーフィー演じるデビュー直後のジェームス・アーリーだ。

この成功で、ベリー・ゴーディー・ジュニアは独立し、モータウン・レコーズを設立するが、実際のジャッキーは一緒にモータウンに移籍しなかった。
モータウンはモーター・タウン、つまりデトロイトのことで黒人労働者の多い街から離れずにポップチャートにチャレンジしていくことで人種の壁を破っていくという強い意思の表れなのである。
しかし、その後その理想は「ヒットすることがすべて」という思想に置き換わっていく。


そのきっかけの一つとして描かれるのが、ジェームス・アーリーのヒット曲が白人のサーフバンドに「奪われて」アーリーの曲がラジオから消えていくシーンだ。

このエピソードは、チャック・ベリーの名曲「スウィート・リトル・シックスティーン」が、ビーチボーイズによって歌詞だけ変えられ「サーフィンUSA」として大ヒットしたことを描いている。
しかしこの事自体は当時の業界では「卑怯」ではあっても「告発」はされないのが通例だった。当のチャック・ベリーだって、出世作となったのはカントリーの「アイダ・レッド」を焼き直した「メイベリーン」だったのだし、そもそもシンガーソングライターのマーケットの基盤は、50年代にボブ・ディランが膨大なトラッドソングのレパートリーに自作の詩を載せて歌ったことで大きくなったとも言える。

とはいえ確かに黒人音楽は白人によって搾取される傾向にあったのだ。


映画でのジェームス・アーリーは、それでもしぶとく自分の音楽を追求していく。
そして、社長であるカーティスに内緒で社会性の高い新しいソウル・ミュージックを作って聴かせるが、「そういうのは売れない」と一蹴されてしまう。

これはまさに、マーヴィン・ゲイの「What's Goin' On」そのものだ。
ベリー・ゴーディーに「今まで聴いた中で最悪のレコード」と言われながらもリリースを強行し、5週間全米チャートの一位を獲得した、時代を変えたレコード。
スティービー・ワンダーの諸作とともに、黒人音楽のオリジナリティをぐっと高めた功績は大きい。
しかし、そんなことができたのはほんの一部のアーティストだけ。
ベリー・ゴーディーが、新しい音楽の潮流を見立てる力が無くなっていたことが、その後のソウル色を薄れさせた「ブラック・コンテンポラリー」というある種のムードミュージックがヒットチャートを席巻する結果になってしまうのだ。

それでも初期のモータウンには優秀なソングライティング・スタッフという武器があった。だからこそ、あそこまでの成功を得られたのだ。
映画ではC.Cという名で描かれているが、初期モータウンではスモーキー・ロビンソン、そしてその後のホランド=ドジャー=ホランドというソングライティング・チームがそれにあたる。

映画では少しタイミングが違うが、このホランド=ドジャー=ホランドの快進撃と、映画でのドリーメッツ、実際はシュープリームスのメインボーカリスト交代劇が始まる。
ベリー・ゴーディー・ジュニアはヒットに恵まれなかったシュープリームスのメインボーカルを恋人だったダイアナ・ロスに交代させ、売り込みに来た才能あるソングライティング・チーム、ホランド=ドジャー=ホランドにキャッチーな楽曲を書かせて1965年からの三年間で10曲もの全米ナンバー1ソングを送り出す。
このダイアナ・ロスが、ビヨンセ演じるディーナ・ジョーンズだ。

それまでリーダーだったフローレンス・バラードは、(映画ではエフィとして描かれている)失意の中でグループを去り、アルコールに溺れ若くして亡くなってしまう。

そしてこのヒットで巨万の富と自信を得たベリー・ゴーディー・ジュニアは、あろうことか会社をロサンゼルスに移して、何を考えていたのかダイアナ・ロスを主演女優に立てて映画産業に進出する。
一作目の「ビリー・ホリディ物語」こそアカデミー主演女優賞にノミネートされるほどのヒットを記録するが、その後は厳しい展開。
ブロードウェイのヒット・ミュージカル「ウィズ」の映画化で、34歳のダイアナを少女役として投入する無理がたたってか大失敗。資金の大半を失う。

マーヴィン・ゲイの成功を予見できなくなっていたベリー・ゴーディーは、モータウンを支えていきた優れたスタッフの信頼も失っており、その上経営に行き詰まったとあってはスタッフの流出も止めることが出来なかった。
1988年、ついにモータウン・レーベルそのものをMCAに売却することとなる。

偉大なるモータウン・レコーズの伝説の終焉だ。

音楽は成功すれば巨万の富をもたらすビジネスだ。
しかし、富そのものを目的にすれば、成功も逃げていく。
良い音楽を世に問うことを忘れてはならない。
純粋に音楽の力を信じられなくなったら舞台から降りるべきなのだ。

あらゆるビジネスに通底する基本原則が、この映画には描かれている。

2013年8月1日木曜日

赤坂真理「東京プリズン」無教養の罪についての物語

まず申し上げておきたいのは、赤坂真理著「東京プリズン」には巣鴨プリズンは、現在サンシャインシティが建っている場所にあったとの情報以外は出てきません。よって、戦中のゾルゲ事件や、戦後の東条英機のこと、米軍による独房の盗聴のことなどは書かれておりません。
次にこの本には、作中「東京裁判」を再現するディベートが展開されますが、その中で著者赤坂真理さんが独自に取材または考察して構築された事実、知見はひとつも記載されておりません。既知の情報だけです。

いや、これらは私が勝手に期待していただけのことで、著者には一切非はありません。



ここに書かれているのは、一貫して無教養についての罪、とでも言うほかないものだ。

アメリカに留学した主人公は、南北戦争が内戦であったことを知らず、漢字が中国からもたらされた文字であることを、アメリカ人が言うChinese characterという言葉から気付いて、「腰が抜けるほど」驚いたりする。

だから彼女は当然、東京裁判でのAB級戦犯の級が区分けであって、罪の重さとは無関係であることを知らない。
そしてA Class(つまりGradeではない)のclassを「級」と翻訳したことに原因があると言う。

概ね、この物語で問題にされているポイントはこのような論法で語られる。
もちろんどこかに隠蔽の意図があるという話ではないので、これは単に無教養の問題としかいいようがない。

物語の構造が、時空を超えて母子の人格さえも取り替えながら、死した英霊たちやベトナム戦争の戦死者、狩りで誤って殺したヘラジカの仔まで交えながら気宇壮大に展開していくのに、その中心に渦巻いているわだかまりの正体が「無知」であったというところにナットクがいくかどうか。

それがこの物語を自分の物語として読めるかどうかの分水嶺だ。
私には無理でした。
スミマセン。

マイルズ・デイヴィス「We Want MILES」を磨きあげたテオ・マセロのMagic

日曜日、いつもの札幌狸小路6丁目Fresh Airでジャズのアナログレコードを物色していた。
先日の試聴会で、ブランク明け、マーカス・ミラーと組んでいた時期のマイルズのライブが思いの外よかったので、改めてコレクションの拡充を決めていた。
まだ持っていなかった「We Want MILES」を見つけてまず捕獲した。


6年間もの長い休業の後、The Man With The Hornで奇跡の復活を遂げた翌年発表のライブ盤。
エレクトリック期のマイルズはどうしてもギタリストに注目してしまうが、これはマイク・スターン。
まさに変幻自在のギターサウンド。
軽妙なジャズサウンドの時はあくまでも軽妙に弾き、ジャズロックになればドバーっと行く。
ブルーズになればあくまでも黒い。
いいですね。

サキソフォンのビル・エヴァンス(あのビル・エヴァンスではない。同姓同名のサックス奏者)もセクステット期のキャノンボールのような流麗な音運びでマイルズの繊細なメロディを支えていた。

アルバム「TUTU」と同質なリヴァーブが全体を支配している。
TUTUでプロデュースを担当したマーカス・ミラーの嗜好が濃く反映されているのだろう。
リヴァーブだけは、好みに合わないとどうしようもないが、この強いリヴァーブは悪くない。

と思って、プロデューサーを確認。
テオ・マセロだった。

マイルズの全幅の信頼を背景にテープを切り刻んで作品の完成度をギリギリまで磨いていく職人だ。

「ジャック・ジョンソン」という伝説の黒人ボクサーの映画のサントラを依頼されたマイルズは、テオ・マセロに前作「イン・ア・サイレント・ウェイ」の膨大なセッション・テープを渡して、ギャラは弾むからこれで一枚サントラ作っていてくれや、と言って休暇に出かけた、というエピソードさえ残っている。

このライブももちろん、無傷ではあるまい。
サキソフォンのビルは出来上がったアルバムを聴いて、うまく吹けたと思ってプレイバックを楽しみにしていたソロがまるっとカットされていたのをミュージシャン仲間に愚痴ったという噂もある。

しかし、このアルバムを繰り返し聴いて思う。
この弛みのないインタープレイが放つ緊張感こそが、この録音作品を完成度の高い芸術にしているのではないかと。

もしかしたら、テオの編集によって磨かれたこの録音は実際の演奏を超えるものになっているのではないだろうか。