これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。
まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。
まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。
さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。
「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。
僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。
ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。
無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。
実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。
そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。
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