2014年4月5日土曜日

音楽大衆化の時代に、僕はレコードコレクターの魂を知る

最近、昔のようにはCDを買わなくなった。
世界的に見ても、CDの売上は落ちてきていると聞く。

海外では音楽ストリーミングのサーヴィスが充実していて、海外単身赴任中の友人などは音楽を紹介するとAmazonで買ったりせずにSpotifyでささっと検索して聴いている。
日本ではYoutubeで充分だという声も聞く。

確かにYoutubeの音楽ライブラリは非常に充実していて、しかも無料だ。
鬱陶しいコマーシャルは入るが、検索して聴くという物理性の無さもスピーディーでいい。

先日先輩にダリル・ホールの番組がYoutubeに上がっていると教えてもらい、大ファンの僕はもちろん早速検索してたくさんの曲を観た。
その中に、ダリル・ホールのオリジナルかと思うような素晴らしい曲を歌う女性シンガーソングライターを見つけた。
ダイアン・バーチのNothing But A Miracleという曲だった。



これはすごい曲だ!と思って、昔気質の僕は電車に乗ってタワーレコードにでかけて彼女のファーストアルバムを購入した。


Bible Belt
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ところが、CDで聴く彼女の歌はYoutubeで観たのとは違って、なんだか平板だった。ダリル・ホールの向こうを張って充分な存在感を見せたあの“ソウル”は感じ取れなかった。

故佐久間正英氏が、生前、近年の音楽業界ではレコーディングに充分なコストと時間をかけられなくなったと嘆いていた。
あのドナルド・フェイゲンだって、スティーリー・ダンの頃のようにはレコードは売れない。だからスタジオにこもって妥協ない作品を作るなんて贅沢はできない。そんな暇があったら世界中を回って演奏をしなくてはならない、と言っていた。

もしかしたら、ダイアン・バーチもあまりクリエイティブでないレコーディング現場にノリ切れず、レジェンダリーなアーティストたちとの共演となるダリル・ホールの番組収録では、本来の力を発揮した、ということなのかもしれない。

もちろんこのような状況は、構造的にCDが売れない環境になったから起きたことで逆ではない。しかし、CDの売上減少に加速度をつける役割は果たしているのかもしれない。


こうして音楽を「購入する」時代は終わり、その影響は制作コストに跳ね返ってくる。
新しい音楽を作る商業的なモチベーションは失われ、握手券やコンサートチケットとの併売モノや、過去の名曲たちのカバー・アルバムを売り出すようになった。

一方でニコニコ動画のような新しいプラットフォームから、プログラミングと自宅録音とアニメを融合した次世代のコンポーザーである「P」が登場し、メジャーに起用されていく。

音楽は今、本当の意味で<大衆化>したのだ。
そしてそれは、あくまでも大衆化なのであるからして「音楽が好きだ」というだけでなく、音楽を生活の中の最も大切な「趣味」としてきた、いわばマニア的人間にとっては、ほとんど影響がない、とも言える。


事実、この音楽大衆化の時代においても、我々のような音楽「収集家」のやっていることは結局あまり変わらない。
我々はいまだにLPレコードで音楽を聞いて、ジャケットを眺めてはニヤニヤし、盤を磨いている。
周りにいる音楽収集家には、街のCDショップのようなところには、もう何年も行っていないという人が多い。新しい音楽を追いかけなくても、一生かけても聴ききれないほどの“名盤”が世の中にはあるし、だいたい人が名盤のお墨付きをつけた盤を「収集家」は好まない。

最近買った、「僕らのヒットパレード」という本には、レコード・コレクターに関するこの種のエピソードが満載で実に愉しい。


僕らのヒットパレード
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片岡 義男 小西 康陽
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共著者のひとり、ピチカートファイブの小西康陽氏は、年下のレコードコレクターである友人が、大海晴彦という歌手の「花園町哀歌」というレコードのジャケットが大好きで見つけるたびに買ってしまうというエピソードを披露し、逆にその曲が哀愁ただようムード歌謡であることを知っている小西さんにとっては、内容を知っているゆえに買うことが出来ないという意味で、自分はずいぶんと不自由なコレクターだ、と言っている。

音楽を聴かずにジャケットだけを鑑賞しながら、頭のなかに浮かぶ想像の音を楽しむほうが、ときにはずっと素晴らしいとまで。

音楽とカバーアートは小西さんの中では、それぞれが欠くべからざる「レコード」というものの一部で、まったく同格なのだ。

もう一人の著者、片岡義男さんに至っては、音楽とカバーアートの比重は完全に逆転している。いわく、美脚レコードは、脚が綺麗なほど音楽もいいよね、となる。

だから、彼らは買う。
とにかく買う。
本に出てくるレコードはみんな数百円のレコードだった。
きっとすっごい美脚ジャケのレコードだったら、どんな高値でも買うんだろうけど、誰かが言った「名盤」なんかには興味がない、と書いてあった。


最近僕の中で、存在感を増している湯浅学さんという評論家が編んだ「嗚呼、名盤」というディスクガイドがある。
湯浅さんと鈴木慶一氏との対談が掲載されているが、その中で、ジャズなんかで、レコードの裏を見て、あ、ベースが誰で、ピアノが誰だ、じゃあ名盤だな、という「じゃあ名盤」が多すぎるんじゃないかという話があった。


レコード・コレクターズ増刊 嗚呼、名盤
湯浅 学
ミュージックマガジン
ジャケの良し悪しでレコードを買い、それを愛で、出会いを寿ぐことのほうが、人の名前でレコードを買う「じゃあ名盤」よりもまともな感覚に思えるのは、もしかしたら小西さんと片岡さんの文章の美しさに目が曇っているせいかもしれない。

それでも「僕らのヒットパレード」のあとがきに寄せられた小西さんのこの言葉は、胸に刻んでおきたいと思う。

レコードを愛することと、音楽を愛することは似ているようだがまったく違う。レコードが素晴らしいのは、そこに封じ込められた音楽や会話、あるいは音のすべては、過去に奏でられ、発せられたものだ、ということだ。
言葉も、歌も、音楽も、ひとたび発音された後は時間の彼方に消えてなくなっている。どんなに新しい音楽も、録音されたときには過去のものとなっている。レコード・コレクターとは、つまり古いものを、過去を、もう取り戻すことの出来ないものを愛おしく思う人々のことだ。

 付け加える言葉は何もない。
そのようなレコードコレクター魂を僕もいつも心に抱いていたいと願うまでだ。

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